こんにちは!
今回は、カイユボットについてです。
早速見ていきましょう!
目次
ギュスターヴ・カイユボット(1848-1894年)
ギュスターヴ・カイユボット《自画像》1892年
ギュスターヴ・カイユボットは、フランスの画家です。
ブルジョワ
ギュスターヴ・カイユボット《ピアノを弾く若い男》1876年
パリの上流階級の家庭の3人兄弟の長男として生まれました。
父親は、軍服製造業を継いで経営するとともに、セーヌ県の商業裁判所の裁判官でもありました。
上の絵は末っ子のマルシャルがモデルです。
12歳のとき、父がパリ南郊のイエールに広大な地所を購入し、一家は夏をイエールで過ごすようになりました。
カイユボットは、この頃から絵を描くようになったと考えられています。
18歳のとき、一家はフォブール・サン・ドニ通りから高級住宅街のミロムニル通りに引っ越しました。
エリート
フランスのエリート養成機関であるリセ・ルイ=ル=グランに通った後、20歳で法学部を卒業して学位を取得し、22歳のときには弁護士免許を取得しました。
その直後、普仏戦争で徴兵され、従軍します。
画家の道へ
ギュスターヴ・カイユボット《ストーブとワークショップの室内》1873-1874年
上層ブルジョワジーの息子らしく、法律を学んだカイユボットでしたが、ドガ同様に画家の道を目指しました。
普仏戦争が終結すると、カイユボットは、ドガの友人でアカデミズムの画家レオン・ボナの画塾に通い、本格的に絵の勉強を始めました。
ここでは、ジャン・ベローと親しくなったほか、家の近くに住んでいたアンリ・ルアールを通じてドガと知り合い、その友人ジュゼッペ・デ・ニッティスとも親しくなりました。
ルアールとドガは、リセ・ルイ=ル=グランの先輩でもありました。
25歳のとき、エコール・デ・ボザールに入学しましたが、あまり通わず、ドガや印象派の画家たちと親しくなっていきました。
初期の彼の作品にはドガの影響が見られ、批評家から「ドガの弟子」と呼ばれたこともありました。
後に風景画においては、ガーデニング仲間だったモネの影響が表れています。
26歳のとき、父親が亡くなりました。
印象派のコレクターに
ギュスターヴ・カイユボット《床削り》1875年
27歳のとき、上の絵をサロンに提出しましたが、伝統と格式を重んじる彼らからは、社会の下位に属する労働者を主題にしたことで「低俗」「野蛮」と評され、批判され、落選します。
裕福な邸宅の、湿気を帯びて継ぎ目が反った古い床を、職人が鉋で削るという修復作業のシーンが描かれています。
瓶とグラスから赤ワインだとわかります。
当時の肉体労働者は、お酒を飲みながらの仕事が許可されていました。
描かれた邸宅は、パリ8区に今も現存するカイユボットの自宅という説もあります。
窓から見える建物の位置により、この部屋がアパルトマンの上階部分だとわかります。
削られた床は光を放ち、まだ削られていない床は黒光りしています。
多くの印象派の画家が、光を描くために水面や雪などを描いたなか、床を取り上げたのはカイユボットだけでした。
広角レンズをのぞいているかのような極端な遠近法と、都市労働者の情景を描いた作品でした。
印象派展のメンバーであるルノワール、モネ、シスレー、モリゾが、オテル・ドゥルオで競売会を開き、この頃以降、両親の遺産を相続したカイユボットは印象派の友人たちの作品を購入するようになりました。
第2回印象派展から出品
ギュスターヴ・カイユボット《窓辺の若い男》1875年
ルノワールとアンリ・ルアールから、印象派展に一緒に参加しないか誘われ、第2回印象派展に8点出品しました。
当時、印象派展に対しては厳しい批評が多く寄せられました。
その中で、ゾラは、モネやルノワールを新しい流派として称賛する一方、ドガとカイユボットに対しては、写実的すぎるとして批判しました。
反対に、デュランティは、鋭いデッサン力で都市風俗を描いたドガとカイユボットを称賛しました。
リヴィエールは、カイユボットを「ドガの弟子」と呼びましだ。
カイユボットは、2人の評を読んで感激し、絵画制作に専念してもう一度グループ展で発表したいと思うようになりました。
遺言書を作成
28歳のとき、弟ルネが26歳で亡くなったことに衝撃を受け、遺言書を作成しました。
その内容は、「非妥協派または印象派と呼ばれる画家たち」の展覧会の準備資金に、自分の遺産から相当額を割り当てること、ルノワールと弟のマルシャルを遺言執行者に指名すること、自分の絵画コレクションを国家へ遺贈することなどででした。
第3回印象派展
ギュスターヴ・カイユボット《ヨーロッパ橋》1876年頃
カイユボットが借りたアパルトマンを会場にして、第3回印象派展が開催され、18人が参加しました。
カイユボットは、ルノワール、モネ、ピサロとともに展示委員を務めました。
ギュスターヴ・カイユボット《パリの通り、雨》1877年
カイユボット自身は、上の作品など6点を出品しました。
《ヨーロッパ橋》は、サン=ラザール駅のすぐ上にある陸橋、《パリの通り、雨》は、ヨーロッパ橋の東北方向にあるデュブラン広場を描いたものでした。
これらは、同じ部屋に展示されたモネの《サン=ラザール駅》連作と主題において呼応する作品といえます。
また、モネが産業革命と近代化の象徴であるサン=ラザール駅を描くために駅の近くにアトリエを借りる資金を出したのもカイユボットでした。
カイユボットの透視図法と写真のような綿密な仕上げは、印象派よりはサロンの価値観に合うものでした。
テオドール・デュレは、『印象派の画家たち』という小冊子で、モネ、シスレー、ピサロ、ルノワール、モリゾの5人を印象派の画家として紹介していますが、その中で、ドガやカイユボットについては、「印象派ではないが、彼らとともに出品したことのある、優れた才能を持つ画家たち」と位置付けています。
ギュスターヴ・カイユボット《「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」を前にした自画像》1879年頃
カイユボットは、第3回印象派展で、ルノワールの《ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会》や、モネの《サン=ラザール駅》を購入しました。
上の作品は、購入したルノワールの作品が鏡で左右反転して描かれています。
ただ、第3回印象派展の全体の売れ行きは思わしくなく、参加者たちの間での温度差を生む要因となりました。
パリ万博
30歳のとき、パリ万国博覧会が開催されました。
トロカデロ宮で美術展が行われましたが、印象派はもちろん、ドラクロワや、ミレーなどバルビゾン派の画家たちでさえ排除された、保守的な展覧会でした。
カイユボットはこれに憤慨し、ピサロにすぐに第4回印象派展を開くことを提案しました。
しかし、ドガは万国博覧会が終わってからにすべきとの意見でした。
この年、ルノワールがサロンに作品を応募して入選し、モネもサロンへの応募を希望したのに対し、ドガはサロンを敵視し、グループ展参加者はサロンに応募すべきでないという考え方だったため、グループ内での意見の対立が顕在化していきます。
カイユボットは、ドガの芸術を敬愛する一方で、頑固な性格で政治的主張に偏りがちなドガに辟易させられ、グループ展参加者の資格という大きな問題から、ポスターへの参加者名への記載のような小さな問題まで、しばしば意見の対立を繰り返しました。
ギュスターヴ・カイユボット《ボート漕ぎ》1877年
カイユボットは、イエールの別荘に滞在し、イエール川の船漕ぎや水泳の情景を描きました。
母親が亡くなり、両親の遺産を弟とともに相続することになりました。
当時のフランスで、切手専門のクラブ、雑誌、交換所などができるなど流行していたこともあって、弟マルシャルとともに本格的な切手収集家となりました。
毎朝、切手の選別、吟味に費やしていたそう。
第4回印象派展
ギュスターヴ・カイユボット《オレンジの木々》1878年
ドガの主張が強く反映された第4回印象派展は、名称が「独立派(アンデパンダン)展」となり、サロン応募者は参加させないこととなりました。
カイユボットは、モネに、サロン応募を思いとどまり、グループ展に参加するよう説得しました。
結局、カイユボットが、所蔵者からモネの作品29点を借り集めて出品しました。
ルノワール、シスレー、セザンヌは、サロンに応募するため、グループ展には参加しませんでした。
カイユボット自身は、25点出品しました。
デュランティは、展覧会評で、ドガ、カイユボット、カサットを称賛しました。
第5回印象派展
ギュスターヴ・カイユボット《室内》1880年
31歳のとき、第5回印象派展を開催するに際にも、カイユボットとドガは様々な点で対立しました。
ドガは、グループの名称を独立派(アンデパンダン)とすること、ポスターに出品者の名前を載せないこと、風俗的な主題を扱う画家たちにもグループ展への参加を認めることを主張したが、カイユボットは、いずれにも反対しました。
ギュスターヴ・カイユボット《カフェにて》1880年
第5回印象派展を開催し、11点出品しました。
ルノワール、シスレー、セザンヌに加え、モネもサロンに応募し、印象派展には参加しませんでした。
一方で、ドガが強く推したジャン=フランソワ・ラファエリが参加し、グループ展の内容は印象主義から相当離れたものになりました。
第6回印象派展
第6回印象派展の方針についても、カイユボットとドガの対立は深刻化していました。
カイユボットは、ピサロ宛の手紙で、ドガの和を乱す行動はどうかと思うと、その態度を批判する一方、「「ドガはすばらしい才能の持ち主だ。私は彼の大ファンになった最初の人間です」とも書いています。
ピサロは、カイユボット自身もドガの推薦でグループ展に参加できたことを指摘して、ドガを許容するように言いましたが、結局、カイユボットは、第6回印象派展への参加を断念しました。
32歳のとき、カイユボットと弟マルシャルは、両親から相続したイエールの地所を売却し、セーヌ川沿いのプティ・ジュヌヴィリエに地所を購入しました。
ここは、モネやマネが愛したアルジャントゥイユの近くでした。
第7回印象派展
ギュスターヴ・カイユボット《果物》1881-1882年
33歳のとき、第7回印象派展への準備を始めました。
彼は、ラファエリの不参加を条件にドガの参加を認めるという妥協案を提案しましたが、ドガはラファエリの参加を強く主張しました。
ゴーギャンやピサロも調停を試みましたが、交渉は難航しました。
そのような中、画商デュラン=リュエルがモネとルノワールにグループ展への参加を要請した結果、2人の同意が得られました。
しかし、ドガは不参加となりました。
ギュスターヴ・カイユボット《トランプ遊び》1880年
第7回印象派展が開催され、17点を出品しました。
特に、上の作品などの人物画における正確なデッサンが好評価を得ました。
印象派展の終わり
ギュスターヴ・カイユボット《入浴する男》1884年
37歳のとき、デュラン=リュエルがニューヨークで印象派作品の展覧会を行い、その中にカイユボットの作品も数点含まれていました。
この年に開かれた第8回印象派展には、モネが不参加を表明し、カイユボット、ルノワール、シスレーも同調して不参加を決めました。
グループ展として最後となるこの回は、デュラン=リュエルの後援の下、ピサロのグループとドガのグループが中心となって開かれ、特にピサロ陣営のスーラ、シニャックといった新印象派と呼ばれる点描技法の作品が注目を浴び、従来の印象主義とは内容が異なるものとなりました。
隠居
ギュスターヴ・カイユボット《アルジャントゥイユのヨット》1888年
40歳のとき、セーヌ川のほとり、アルジャントゥイユ近くのプティ・ジュヌヴィリエに移り住みました。
絵の発表はやめ、庭園作りとヨットに集中し、弟マルシャルや、しばしばここを訪れた友人ルノワールとの付き合いを楽しみました。
遅くとも35歳のときから交際していた女性シャルロット・ベルティエも一緒に住んでいました。
カイユボット兄弟の名は、ヨット愛好家の間で知られており、これまで数々の大会で優勝し、友人の技師の助けを借りて独自のヨットを設計し、ヨット工場まで作っていました。
印象派画家たちの夕食会
印象派の画家たちは、かつてのように頻繁に会うことはなくなりましたが、カイユボット36歳のときくらいから、毎月第1木曜日に、イタリアン大通りのカフェ・リシュで「印象派画家たちの夕食会」を開き、集まっていました。
参加者たちは元気で騒々しく、その中でも、ルノワールが辛辣な言葉でカイユボットを茶化したり、やり込めたりすることが多く、怒りっぽいカイユボットがこれに激高しては顔色を変えていたとか。
話題は、芸術だけでなく、文学、政治、哲学など様々なテーマにわたっていました。
ジヴェルニーに移り庭園作りに情熱を燃やしたモネとは、庭仕事という共通の趣味でも親交を続けました。
モネが、カイユボットに宛てて「約束どおり月曜日には必ず来てください。庭のアイリスは月曜が満開で、それを過ぎるとしぼんだのが混じってしまいます。」と書いた手紙が残っています。
晩年の活動とオランピア
基本的に絵の発表は控えていましたが、38歳のとき、デュラン=リュエルがニューヨークで開いた「パリ印象派の油絵・パステル画展」に参加しました。
40歳のとき、ブリュッセルの20人展にも出展しましたが、冷淡な反応しか得られませんでした。
42歳のとき、モネがマネの《オランピア》を買い取って国に寄贈する計画を立てた際、カイユボットは1000フランを拠出しました。
《オランピア》の受入れをめぐっては反対論も巻き起こりましたが、最終的にリュクサンブール美術館に収蔵させることに成功しました。
ギュスターヴ・カイユボット《キンレンカ》1892年
45歳のとき、園芸作業中、肺鬱血により亡くなりました。
カイユボットの早すぎる死の後、彼の回顧展の準備をしたのはモネとルノワールでした。
印象派コレクションの遺贈
カイユボットの遺言書通り、「屋根裏部屋でも、地方の美術館でもなく、リュクサンブールへ、後にルーヴルへ」コレクションが収められるように、遺言執行者として指名されたルノワールが奔走しました。
遺贈に反対する人々もいましたが、合計67点中40点がリュクサンブール美術館に受け入れられました。
現在はルーヴル美術館の隣にある、印象派の美術館オルセー美術館で見ることができます。
まとめ
・カイユボットは、印象派展の開催や画家を支えつつ、絵を描いた画家