印象派のまとめ役ピサロの生涯を超解説!

こんにちは!

今回は、印象派のみんなのまとめ役ピサロを紹介します。

早速見ていきましょう!

カミーユ・ピサロ(1830-1903年)

カミーユ・ピサロ《自画像》1873年

カミーユ・ピサロは、フランスの印象派の画家です。

ブルジョワ

カミーユ・ピサロ《セント・トーマス島の海岸で話をする2人の女》1856年

カリブ海のセント・トーマス島で生まれました。

スペイン系ユダヤ人の父親は、金物屋を経営しており、子供の頃から店番をしながら絵を描いていました。

12歳のとき、島を離れ、パリ郊外の寄宿学校へ入学します。

学校で絵の道を勧められますが、17歳で島に戻り、家業を手伝いつつ、スケッチを描いていました。

画家の道へ

23歳のとき、コペンハーゲンから来たデンマーク人画家フリッツ・メルビューと出会い、親に無断でベネズエラにスケッチ旅行へ出かけました。

25歳のとき、親を説得し、画家を目指してパリへ行きます。

この年1855年は、万博で賑わっていた年で、ピサロも絵を見に行っています。

アングルやドラクロワなど、大巨匠の作品ではなく、コローやミレーなどバルビゾン派の画家や、展覧会の審査に抗議して自ら勝手に個展を開いていたクールベの方に注目していました。

コローの絵に憧れ、何度か訪ね、アドバイスをもらったそう。

島で友達となったフリッツの兄アントン・メルビューとアトリエを共有し、作品を制作しました。

モネとの出会い

29歳のとき、アカデミー・シュイスに通い始め、モネなど多くの若い画家と知り合います。

カミーユ・ピサロ《モンモランシーの風景》1859年頃

そしてサロンに上の作品が初入選します。

両親もパリへ引っ越してきました。

身分違いの恋

30歳のとき、両親の家のメイド農民の娘ジュリー・ヴレーと恋に落ちます。

彼女の身分が低い上に、カトリック教徒であることから両親は大反対し、ジュリーを解雇しました。

ジュリーとの間に、32歳のときに長男リュシアン、35歳のときに長女ジャンヌが生まれます。

これを知った父親が怒り、援助がストップしたことで、生活は苦しくなります。

みんなのまとめ役

30代半ば、カフェ・ゲルボワに若い画家たちが集まるようになり、最年長のピサロはリーダー的存在でした。

無政府主義者で政治的な意見は過激でしたが、人柄は温和で人から憎まれることはありませんでした。

絵が明るくなる

カミーユ・ピサロ《ルーヴシエンヌのヴェルサイユに向かう道》1869年

39歳のとき、パリ郊外の保養地ルーヴシエンヌに住みました。

モネやシスレールノワールもこの近くに住んでおり、一緒に戸外制作をし、この頃からコロー風の画風から、色調が明るくなり、絵具の塗り方は薄く変化しました。

戦争を避けロンドンへ

カミーユ・ピサロ《クリスタル・パレス》1871年

40歳のとき、普仏戦争を避け、ロンドンへ行き、ジュリーと正式に結婚しました。

ロンドンではモネと再会します。

モネも同じように普仏戦争を避けるため、ロンドンに来ており、同じくこの地で結婚していました。

ピサロとモネは、イギリスの風景画家ターナーコンスタブルの絵を研究しました。

ドービニーの紹介で画商デュラン=リュエルと出会います。

41歳のとき、帰国すると、自宅はプロイセン軍に荒らされており、作品も何もかもが破壊されていました。

第4子のアンリが生まれます。(第3子は夭逝)

手厚い支援

カミーユ・ピサロ《ポントワーズのオワーズ川のほとり》1872年

そこでセーヌ川沿いのポントワーズに引っ越します。

サロンへの応募はせず、デュラン=リュエルの支援を受けて制作していました。

どれくらいの支援かというと、普通の労働者の平均年収をはるかに超える額です。

セザンヌと一緒に制作

カミーユ・ピサロ《ポントワーズの春》1877年

ポール・セザンヌ《ポントワーズの果樹園》1877年

ポントワーズでは、よくセザンヌと一緒に制作しました。

当時のセザンヌはまだ売れる前、描いても描いても不評、不評、不評…な時期でしたが、ピサロはセザンヌの才能を認めていました。

セザンヌは後にピサロについて、「父のような存在だった。相談相手で、神のようなひとだった」と語っています。

印象派展を計画

カミーユ・ピサロ《白霜》1873年

44歳のとき、1年くらい前からモネたちと計画していた独自のグループ展、第1回印象派展を開催し、上の作品を含む5点を出品しました。

印象派展は全部で8回開催され、全てに出品したのはピサロだけでした。

この年、9歳だった長女のジャンヌを亡くし、第5子フェリックスが生まれました。

第1回印象派展の頃から、デュラン=リュエルは資金難に陥りピサロの作品の購入も中断してしまいました。

ピサロは経済的に苦しくなり、パリの家を手放しました。

ポントワーズの家も差押えを受けそうになりましたが、画家カイユボットの支援のおかげでなんとか免れることができました。

48歳のとき、第6子リュドヴィク=ロドルフが生まれます。

カミーユ・ピサロ《キャベツを収穫する人々》1878-1879年頃

49歳のとき、第4回印象派展が開かれました。

ドガの主張によりサロンに応募する者は参加させず、展覧会の名称も「独立派(アンデパンダン)展」としました。

日本美術に傾倒していたドガは、参加者に扇面図を描くよう求め、(皆特に描きませんでしたが、優しい)ピサロは上の作品を制作しました。

ドガとピサロはゴーギャンを誘いました。

夏にゴーギャンがピサロのもとを訪れた際、ピサロはゴーギャンの才能を認め、アドバイスをしました。

その気になったゴーギャンは家族も職も捨てて画家を目指し、ピサロはゴーギャンの妻からキレられます。(笑)

印象派の技法に飽きる

50歳のとき、銀行から融資を受けることができたデュラン=リュエルが、再びピサロの作品を購入するようになりました。

51歳のとき、第7子ジャンヌ=マルグリットが生まれました。

53歳のとき、画商デュラン・リュエルの画廊で初の個展を開催し、成功しましたが、印象派の画風に飽きてきます…。

マネの葬儀に参列しました。

54歳のとき、第8子ポール=エミールが生まれました。

新しい技法…元に戻る

カミーユ・ピサロ《リンゴの収穫、エラニー》1888年

55歳のとき、シニャックスーラと知り合い、翌年から点描技法で制作しました。

点描についてはモネは否定的で、画商デュラン・リュエルからも不評で、作品購入数が減少しました。

生活苦から妻は子を連れて自殺まで考えていたとか…。

60歳で点描をやめてからデュラン・リュエル画廊で開いた個展は大成功します。

室内から街の風景を描く

カミーユ・ピサロ《雨の中の午後のサントノレ》1897年

66歳のとき、年とともに慢性の眼病が進んで視力が落ち、外で描くことができなくなりました。

そこで、ホテルの部屋の窓から街の風景を描き始めます。

仲間との亀裂

67歳のとき、ドレフュス事件でゾラが『私は弾劾する』を発表すると、フランスの世論は二分されました。

ユダヤ人であったピサロは、ドレフュスの無罪を信じ、ゾラを支持しました。

この件を機にピサロはドガとルノワールという友人を失いました。

ドガやセザンヌは愛国主義の立場から反ドレフュス派に就き、ルノワールは反ユダヤ主義者であるなど、この事件はフランス全体だけでなく印象派グループの中も分断しました。

この事件、最終的にどうなったかというと、ドレフュスは無罪でした。

晩年

カミーユ・ピサロ《春、朝、曇り、エラニー》1900年

70歳のとき、パリ万博に8点出品しました。

73歳のとき、パリで突然病気に倒れ、感染症で亡くなりました。

葬儀にはモネやルノワールが参列しました。(仲違いしていたルノワールも参列したんだ…)

ピサロが生涯残した油彩画作品は1316点版画200点ほどでした。

まとめ

ピサロは、印象派のみんなのまとめ役