印象派に先駆けて光を色彩で表現した画家ターナーを紹介!

こんにちは!

今回は、イギリスで1番有名かもしれない画家ターナーについてです。

早速見ていきましょう!

ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー

ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー《自画像》1799年頃

ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナーはイギリスのロマン主義の画家です。

風景画を歴史画に匹敵する著名なものにまで高めた功労者です。

ちなみに上の有名な自画像の説明でよくあるのは「かなり美化して描いた」です。(笑)

特異な環境

ロンドンの下町の理髪店の子として生まれます。

3歳のとき、妹が生まれますが、8歳で亡くなってしまいます。

母親精神疾患を持ち、後にべドラム(いろんな意味で有名な精神病院。ホガースの絵が有名)行きなるほどで、ターナーの世話を出来るような状態ではありませんでした。

ターナーは学校教育もほとんど受けず、特異な環境で少年時代を過ごしました。

10歳のとき、叔父の元に預けられます。

父親は、ターナーのスケッチ店に飾るほど仲が良く、ターナーよき理解者でもありました。

画家への道

ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー《ランベスの大司教宮殿の眺め》1790年

14歳のとき、風景画家トーマス・マートンに弟子入りし1年ほど絵画の基礎を学びました。

当時、風景画家の仕事は、特定の場所の風景を念入りに再現した「名所絵」(観光地にあるお土産の絵はがきみたいなもの)のような作品を制作することでした。

その後、ロイヤル・アカデミー附属学校に入学します。

昼はアカデミー、夜は美術愛好家モンロー医師の屋敷で絵を描くバイトをしたおかげで、技術もお金もたまりました。

モンローは後にターナーのコレクターになっています。

15歳のときに、ロイヤル・アカデミーに水彩画を初出品します。

それが上の絵です。

ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー《海の漁師》1796年

22歳のとき、ロイヤル・アカデミーに油彩画を初出品します。

それが上の作品です。

24歳のとき、2回目の申請でロイヤル・アカデミー準会員になり、ハーリー街に居を構えます。

この頃から子持ちの未亡人サラを援助しています。(サラの2人の子供の父親がターナー説もあったり)

27歳のとき、史上最年少ロイヤル・アカデミー正会員になります。

イギリス最大の貴族エグリモント卿が作品を購入し、以降パトロンとなりました。

クイーン・アン街にターナーギャラリーが開設されます。

29歳のとき、母親が亡くなり、父親との絆が一層強まります。

何を言っているのかわからない

32歳のとき、ロイヤル・アカデミーの教授に任命されます。

31年間の在職中、講義はたったの12回だけでした。

遠近法について教えていたのですが、ボソボソと喋るため、生徒たちは何を言っているのかさっぱりわからなかったそう…。

34歳のとき、エグリモント卿の屋敷ペットワース・ハウスを訪問します。

以降、各地のパトロンの屋敷や地所で、風景や建物の習作を制作しました。

38歳くらいのとき、サラと別れました。

旅行大好き

ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー《ヴェネツィアを描くカナレット》1833年

44歳のとき、イタリアへ旅行します。

ルネサンス期以来、長らく西洋美術の中心地であったイタリアへ行くことはイギリスのような北方の国の画家たちにとってのあこがれでもありました。

イタリアの明るい陽光と色彩に魅せられたターナーは特にヴェネツィアの街をこよなく愛し、その後も何度もこの街を訪れ多くのスケッチを残しています。

上の作品は、イタリアの画家カナレットに影響を受けたからなのか、彼を絵の中に描き込んでいます。

イタリア旅行後の作品は画面における大気の効果を追求することに主眼がおかれ、そのためにしばしば描かれている事物の形態はあいまいになりほとんど抽象に近づいている作品もあります。

ターナーは油彩画の大作を発表するかたわら、フランス、スイス、イタリアなどヨーロッパ各地を旅行して多数の風景写生のスケッチを残しました。

凝り性なターナーは、手作りのイタリア単語帳を作ったり、仕込み傘を用意したりしていたそう。

ただ、そそっかしくて、旅行中のスケッチブックをなくしたり、忘れ物が多かったそう。

大好きな父との別れ

54歳のとき、献身的に支えてくれた大好きな父親が亡くなり、ものすごく悲しみ、身辺は荒れ放題に…。

パトロンのエグリモント卿の館の2階をアトリエにし、長期滞在しました。

58歳のとき、ブース夫人と知り合い、終生の伴侶となります。

酷評

61歳のとき、ヴェネツィアを描いた作品で酷評され、若いラスキンが擁護しました。

62歳のとき、アカデミーの教授を辞任します。

エグリモント卿も亡くなり、ますます孤独感を強めていきます。

印象派の先駆

ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー《解体されるために最後の停泊地に曳かれてゆく戦艦テメレール号》1839年

奴隷船(奴隷船が死者の船外に投げ出されて死に、台風がやってくる)

ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー《奴隷船》1840年

ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー《吹雪-港の沖合の蒸気船》1842年

蒸気船はぼんやりとした塊に過ぎず巨大な波、水しぶき、吹雪といった自然の巨大なエネルギーを描き出しています。

印象派を30年も先取りした先駆的な作品でしたが、発表当時は石鹸水と水漆喰で描かれたなどと酷評されてしまいます…。

この作品を制作するためにターナーはマストに4時間も縛りつけられ、嵐を観察したという逸話まで残っています。

ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー《雨、蒸気、速度:グレート・ウェスタン鉄道》1844年

ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー《ノラム城、日の出》1845年

この絵をモネが見て影響を受けて描いたのが、印象派の名前の由来にもなった《印象・日の出》です。

ターナーは印象派に先駆けて、色彩で表現しようとしていました。

遺産を若い画家に…

71歳のとき、チェルシー、テムズ河沿いの小さな家でブース夫人と暮らしました。

76歳のとき、「私は無に帰る」という言葉を残して亡くなります。

14万ポンドの遺産を若い画家たちに残そうとしました。

ターナー賞

ターナー賞は、50歳以下のイギリス人もしくはイギリス在住の美術家に対して毎年贈られている賞のことで、ターナーの名が由来の賞です。

ターナーが作った賞というわけではなくて、「ターナーのような革新的なアート」を評価していきましょうという賞です。

賞金がもらえたり、授賞式はテレビで中継され、有名人が多数出席し、賞も有名人から授与されるという一大イベントだったりします。

まとめ

ターナーは、印象派に先駆けて光を色彩で表現しようとした画家