こんにちは!
今回は、日本人が好きな画家モネについて解説します!
早速見ていきましょう!
クロード・モネ

《ベレー帽の自画像》1886年頃
クロード・モネはフランスの印象派の画家です。
パリの食料品店の次男として生まれます。
4、5歳のとき、ノルマンディ地方のル・アーヴルというセーヌ川河口の港町に引っ越します。
学校を抜け出して、外で遊び回ることが大好きでした。
おこづかい稼ぎの似顔絵

《オーギュスト・ヴァクリーの風刺画》1859年
絵が上手かったモネは、16歳のとき、風刺画を描いて、地元の文房具店の店先に置いてもらっていました。
人気があり、似顔絵を注文する人も出てくるほどでした。
モネの原点

《ルエルの眺め》1858年
その似顔絵が画家のブーダンの目にとまり、モネを外でのスケッチに誘います。
ブーダンは、それまで室内のアトリエで制作することが当たり前だった時代に、キャンバスを戸外に持ち出し、陽の光の下で、空や海の風景を描いた画家でした。
「えぇ〜風景描くとか面倒くさいよ〜」と断り続けていたモネでしたが、ある日一緒に、海に絵を描きに行くことに。
ブーダンから、「似顔絵じゃなくて、油彩画勉強したらどう?」と言われたことから、モネは油彩に取り組むようになり、本格的に画家を目指すようになります。
画家の友達
父親の反対を押し切り、パリに行きます。
そこでアカデミーシュイス、そしてグレールのアトリエに入ります。
ピサロ、バジル、ルノワール、シスレーと仲良くなり、戸外で一緒に絵を描くように。
マネとモネ
1863年の落選展では、マネの《草上の昼食》が大スキャンダルを巻き起こしていました。
そんなマネは、モネのような若い画家たちのカリスマ的存在でした。

《草上の昼食》1865-1866年
この作品に影響を受けたモネは、マネの作品よりとても大きな《草上の昼食》をサロンに出品しようとしていましたが、完成することはありませんでした。
画家のクールベに批判されたからでは?といわれています。
マネとモネの《草上の昼食》についての詳しい解説はこちら↓

《緑衣の女》1866年
当時知り合ったばかりの恋人カミーユをモデルにしたこの作品をサロンに出品します。
名前が似ていたことから、マネの絵だと思われて大絶賛されます。(笑)
ジャポニズムブーム
パリで日本ブームが起こります。
日本の浮世絵、特に葛飾北斎の絵に影響を受けます。
同じ風景を描いても、時間によって色彩が変化するということに気が付きます。
一番仲良しなルノワール

《ラ・グルヌイエール》1869年
29歳の夏、ラ・グルヌイエールでルノワールと一緒に絵を描きます。
このときに描いた絵こそ、印象派の画風が誕生した記念すべき絵でもあります。
詳しい解説はこちら↓
結婚
普仏戦争が勃発すると、兵役を避けるため、ロンドンに渡ります。
そこで、同じ時期にロンドンに避難していたピサロと出会います。
2人は、イギリス風景画家の第一人者ターナや、コンスタブルの作品の研究をしました。
このとき、モネはカミーユと結婚します。ピサロも同じくロンドンで結婚します。
第1回印象派展

《印象、日の出》1872年
1874年、第1回印象派展が開催され、モネは12点出品します。
余談ですが、パリでこの第1回印象派展が開催された建物をチラッと見る機会があり、感動しました。ラコステの隣の建物で、今はお店が入っていました。聖地巡礼。
《印象、日の出》というタイトルですが、モネが描いたのは夕日です。
ちなみに「印象派展」というタイトルは、この展覧会でモネの《印象、日の出》を見た批評家が、批判するために使った「印象」という言葉から、後につけられた名称で、モネたち言い出したわけではありません。
愛しのカミーユ

クロード・モネ《散歩、日傘をさす女性》1875年
モネは、カミーユをモデルに多数の絵を描きます。
2人はとても仲が良かったそう。

《死の床のカミーユ》1879年
しかし、カミーユは次男出産後、病気で32歳という若さで亡くなってしまいます。
ドロドロの昼ドラ…

1880年ごろのモネとオシュデ一家。緑がモネ家、紫がオシュデー家。
モネのパトロンだったエルネスト・オシュデが、破産して住むところを失ってしまいます。
妻のアリスと6人の子供たちと一緒に、なんとモネの家で同居生活を送ることに…
アリスの子供の一人は、昔、絵を描くためにオシュデの邸宅に滞在した1年後に生まれた子供のため、モネの子では?ともいわれています…。
病気のカミーユと、カミーユの子供の面倒を見たのは、アリスでした。
複雑…
カミーユはきっと気づいたんじゃないかなぁって思います。
だけど自分が長くないことがわかっていたから何も言わなかったんじゃないかな〜とか想像して、悲しくなる…
カミーユの死後、エルネストだけが、パリへと仕事に出ていったこともあり、モネとアリスの仲は深まっていきます…。
エルネストも気づいてたんじゃないかな…。
エルネストの死後、モネとアリスは結婚しています。
奇跡の連作
40代から晩年にかけて、モネは連作を描くようになります。
特に、40代〜50代のときは、早朝にセーヌ川、ポプラ並木、ルーアン大聖堂、ウェストミンスター宮殿、睡蓮などの連作を描いていたので、夜明け前に起床(午前3時…)が日課だったそう。
時間が変わると光の見え方が変わるので、キャンバスを交換し、1日に10〜12枚も同時進行で制作することもありました。
また、モネは「何かが欠けている」と、気に入らない絵は破棄してしまうので、ロンドンの風景を描いた連作を破棄したり、睡蓮の連作もかなりの数を破棄してしまったそう。
それでも睡蓮は200点以上あるので、本当は一体何枚描いてたの…

《積みわら、夏の終わり》1891年
『積みわら』25連作

《陽を浴びるポプラ並木》1891年
『ポプラ並木』23連作

《ルーアン大聖堂、ファサード(日没)》1892年
『ルーアン大聖堂』33連作
睡蓮の池を造る

《ジヴェルニーの日本の橋と睡蓮の池》1899年
ジヴェルニーの家に、日本庭園を意識した睡蓮の池や太鼓橋を造ります。
75歳のとき、『睡蓮』連作専用のアトリエを建て、制作します。

《睡蓮:緑の反射》
「睡蓮の絵だけで部屋を飾りたい」というモネの夢は実現し、オランジェリー美術館で見ることができます。
オランジュリー美術館に行ったときの話はこちら。
まとめ
・モネの描いた《印象、日の出》が印象派の名前の由来 ・睡蓮を描くために庭を造り、専用アトリエも作った