モネにも死にたくなるほどツラい時期があった?(モネの生涯7)

こんにちは!

今回は、モネのどん底貧乏時代についてです。

早速見ていきましょう!

モネと家族との確執、自殺未遂…

前回のおさらい

モネはサロンに落選し、大ショックを受け、落選した仲間たちと独自の展覧会を開きたいと考え始めました。

モネ大ショック!サロン落選と印象派展の構想(モネの生涯6)

2022.07.29

家族の理解を得ようとするも…

クロード・モネ《サン=タドレスのテラス》1867年

27歳のモネは、比較的裕福な人々が集まるパリのル・アーブル郊外の港町サン=タドレスの伯母の家に滞在し、上の絵を描きました。

くつろいでいるモネの家族が描かれており、空・海・庭を高い場所から見下ろした構図は、日本の浮世絵からの影響だともいわれています。

クロード・モネ《ゆりかごの中の息子ジャン・モネとカミーユ》1867年

この年の夏、パリでカミーユが長男ジャンを出産しました。

クロード・モネ《サン=タドレスのル・コトーの庭にいるアドルフ・モネ》1867年

上の絵に描かれているのはモネの父親です。

クロード・モネ《サン=タドレス、庭の女(ジャンヌ=マルグリット・ルカードル)》1867年

モネの実家はモネとカミーユの仲を認めず、彼女に会うことも拒否、もちろん援助もしてもらえず、モネは経済的に困窮しました。

モネは、友人のバジールに、「とてもいとおしく感じられる、大きくてかわいい男の子だ。でも、その母親が食べるものが何もないことを考えると、苦しくてたまらない」と書き送っています。

クロード・モネ《サン=タドレスのレガッタ》1867年

友人たちにも何度も借金をし、なんとか絵を売ろうと制作するも思うようにいかず、金銭的に行き詰まります。

自殺未遂

クロード・モネ《ボート》1868年

28歳のとき、実家の援助を得るために故郷ル・アーヴルにひとりで戻りました。

近郊のエトルタやブージヴァルなどさまざまな場所で絵を制作しました。

サロンでは、海景画1点だけが、審査員であったシャルル=フランソワ・ドービニーの推薦で入選しました。

クロード・モネ《セーヌ河岸、ベンヌクール》1868年

バジールに宛てた手紙で、依然として経済的に困窮していること、動転して自殺未遂に及んだことを伝えています。

生活がちょっと落ち着く

クロード・モネ《ルイ・ヨアヒム・ガウディベール夫人》1868年

ル・アーヴルの国際海洋博覧会絵画部門に5点を出品し、銀賞を受賞しました。

バジールへの手紙には、ル・アーヴルで得たパトロン(ブーダンのパトロンのガウディベール)の支援のおかげで、カミーユとジャンとの生活が落ち着いていることを知らせています。

クロード・モネ《かささぎ》1868-1869年

ガウディベールの助けを借りて、モネはカミーユとジャンとともにエトルタに引っ越しました。

次回はいよいよ!印象派誕生のきっかけとなったモネとルノワールのエピソードです。

続きはこちら↓

モネとルノワールのご近所物語 印象派の画風の誕生秘話とは?(モネの生涯8)

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モネの生涯をノンストップ解説↓

モネの生涯を超解説!うつろう光を色彩で表現した画家の戦いとは?

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