モネの生涯を超解説!うつろう光を色彩で表現した画家の戦いとは?

こんにちは!

今回は、印象派を代表する画家モネについて解説します!

彼はその生涯で2000作以上の油彩画を残しました。

早速見ていきましょう!

クロード・モネ(1840-1926年)

クロード・モネ《ベレー帽の自画像》1886年頃

クロード・モネはフランスの印象派の画家です。

パリで生まれ、モネは次男でした。

父親は食料品店を営んでいたといわれています。

5歳のとき、経済的な理由からノルマンディー地方のセーヌ川河口の港町ル・アーヴルに引っ越しました。

父親は、異父姉マリー=ジャンヌ(モネにとって伯母、後に登場するルカードル夫人)を頼り、彼女の夫ジャック・ルカードルが経営する雑貨店・食料品卸しを手伝いました。

ルイ=フィリップによる七月王政下で産業革命が進行するなか、マルセイユに次ぐフランス第2の商業港として発展していたこの港町で少年時代を過ごしました。

11歳のとき、ル・アーヴルのコレージュ(公立中等学校)に入学しました。

モネは、学校を抜け出して、外で遊び回ることが大好きでした。

おこづかい稼ぎの似顔絵

クロード・モネ《オーギュスト・ヴァクリーの風刺画》1859年

絵が上手かったモネは、15歳頃には、描いたカリカチュア(風刺画)を、地元の文具兼額縁屋の店先に置いてもらっていました。

人気があり、似顔絵を注文する人も出てくるほどでした。

16歳のとき、母親が亡くなりました。

以降、伯母のルカードル夫人が、モネを引き取り面倒をみました。

モネは学業を放棄してしまい、夏にはコレージュを退学しました。

モネにダヴィッドの弟子だった地元の画家オシャールにデッサンを学ばせたのも伯母でした。

17歳のとき、モネのカリカチュアが評判になりました。

運命の出会い

そのカリカチュアが、2歳年上の画家のブーダンの目にとまり、画材屋の紹介で彼と知り合いました。

ブーダンはモネを外でのスケッチに誘いました。

ブーダンは、それまで室内のアトリエで制作することが当たり前だった時代に、キャンバスを戸外に持ち出し、陽の光の下で、空や海の風景を描いた画家でした。

ブーダンは、人間との付き合いより自然の中で独りで過ごすことを好むような控えめな性格でしたが、このときはなぜか乗り気でなかったモネを根気強く口説きました。

晩年になってもモネは、「自分が画家になれたのも、ブーダンのおかげだ」と語っています。

こうしてブーダンに口説き落とされたモネは、ブーダンの戸外での制作に同行し、彼の即興的な絵画制作を見学しました。

初めて描いた油彩画は…

クロード・モネ《ルエルの眺め》1858年

18歳の夏、ブーダンと訪れたルエルで戸外制作したのが上の絵です。

この絵は、ル・アーヴルの展覧会で展示され、これが正式に展示されたモネの最初の油彩画でした。

なんとこの絵、日本にあります。

埼玉県立近代美術館で見ることができます。

ブーダンから、「似顔絵じゃなくて、油彩画勉強したらどう?」と言われたことから、モネは油彩に取り組むようになり、本格的に画家を目指すようになります。

画家の友達

19歳のとき、父親の反対を押し切り、ブーダンの勧めるとおりにパリに出ました。

このとき、ル・アーヴルの奨学金を申請しましたが落選しました。

以後、モネと家族との間では何かと衝突が起こり、そのたびに仕送りが滞ることになったため、モネは経済的に苦しい日々を送ることになりました。

画家コンスタン・トロワイヨンに会いに行きました。

バリで美術の勉強を始めたモネが学んだのは、歴史画家を養成する官立美術学校ではありませんでした。

歴史家になるつもりがなく、古典絵画に対して尊敬の念もなかったモネが選んだのは、自由に描くことができた私塾アカデミー・シュイスでした。

20歳のとき通い始め、ここで出会ったのが、10歳年上のピサロでした。

印象派で一番の年長者で穏やかな性格だったピサロは、後に印象派の「長老」的な存在となり、個性の強い画家の集まりだったグループのまとめ役になっていきました。

21歳のとき、兵役のためアフリカ騎兵隊としてアルジェリアに行きました。

22歳のとき、腸チフスを患い、ル・アーヴルに戻ってきました。

療養中、ブーダンを通して、オランダ人の風景画家ヨンキントと知り合いました。

ヨンキントは、自然を自分が観察したとおりに描くことをモネに教えました。

17世紀オランダ風景画の伝統的な構図を基に、外光や大気を巧みにとらえ表すことができたヨンキントは、マネからは「近代風景画の父」と呼ばれていました。

ヨンキントには印象派のような大胆な画風は見られないものの、印象派の先駆者と見なされています。

モネは健康が優れないことを理由に、家族が兵役免除の納付金を納めることで軍を正式に除隊することができました。

22歳のとき、パリに戻り、官立美術学校に比べてはるかに自由な教育方針だったスイス人の画家グレールのアトリエに入りました。

そしてこのアトリエで、モネはシスレー、ルノワール、バジールとの運命的な出会いを果たし、仲良くなり、戸外で一緒に絵を描くようになりました。

23歳のとき、バジールとバルビゾン近郊のシャイイへ写生旅行に行きました。

サロンの落選作を集めた「落選展」が開催され、マネの《水浴(草上の昼食)》がスキャンダルを巻き起こしており、モネもこの絵を見たと考えられています。

24歳のとき、バジールとノルマンディー地方へ旅行しました。

その後パリに戻り、バジールのアトリエで仕事をしました。

サロン初入選

クロード・モネ《オンフルールのセーヌ河口》1865年

25歳のとき、1865年のサロンで初入選しました。

バルビゾン派を思わせる暗めの色調でノルマンディーの海岸線を描いた2枚の海景画で、モネは海景画家として美術界にデビューしました。

クロード・モネ《干潮のエーヴ岬》1865年

そして、アルファベット順に展示されていたため、マネの《オランピア》と同じ部屋に展示されていました。

そのため、 その海景画はマネが描いたと勘違いされてしまいました。

マネは、自分の名を利用していると勘違いして憤慨したとか…。(後に誤解だと和解)

マネとモネ

クロード・モネ《草上の昼食》1865-1866年

シャイイーで制作したのが、マネの《水浴(草上の昼食)》に着想を得た作品《草上の昼食》でした。

そんなマネは、モネのような若い画家たちのカリスマ的存在でした。

マネとモネの《草上の昼食》についての詳しい解説はこちら↓

この作品を観たクールベから批判を受けてしまったため、この作品を完成させることなく、1866年のサロンへ出品することを諦めました。

クロード・モネ《緑衣の女》1866年

26歳のとき、その代わりに入選を果たしたのが《シャイイーへの街道》と、当時知り合ったばかりの恋人で4年後に結婚するカミーユを描いた上の絵でした。

ベラスケスを思わせる暗い背景とともに描かれたこの作品は、スペイン趣味が強かったこの頃のサロンの審査員からも批評家からも好評でした。

前年のサロンではモネに対して憤慨したマネでしたが、彼も《緑衣の女》に注目し、それを知った友人のアストリュクがモネをマネのアトリエへと連れて行きました。

そしてマネの死まで、2人の友情は続くことになります。

27歳のとき、パリのヴィスコンティ街のバジールのもとへ身を寄せ、ルノワールと3人で暮らしていました。

クロード・モネ《庭の女たち》1866年頃

カミーユが再びモデル(3人分)を務めた《庭の女たち》をサロンに応募しました。

伝統的に人物は屋内の設定で描くところを、外光に満ちた戸外に持っていった作品でしたが、結果は落選でした。

生活に困窮したモネを助けるため、お金持ちのバジールが本作を2500フランで購入しました。

この1867年のサロンの審査委員会が保守化したため、後に印象派と呼ばれる画家たちはドガとモリゾ以外は落選しました。

そのため、同じく落選したルノワール、バジール、シスレー、ピサロ、セザンヌらと自分たちだけのグループ展を企画しようとしましたが、質金不足のために計画は頓挫しました。

お金持ちバジールに頼りまくる極貧モネのエピソードを紹介!

2020.11.24

クロード・モネ《サン=タドレスのテラス》1867年

モネは、サン=タドレスにいる伯母の家に滞在し、上の絵を描きました。

くつろいでいるモネの家族が描かれており、空・海・庭を高い場所から見下ろした構図は、日本の浮世絵からの影響だともいわれています。

この年の夏、モネとカミーユの長男ジャンが生まれました。

モネの実家はカミーユのことを認めず、援助もしてもらえず、モネは経済的に困窮しました。

友人たちにも何度も借金をし、なんとか絵を売ろうと制作するも思うようにいかず、金銭的に行き詰まります。

28歳のとき、実家の援助を得るために故郷ル・アーヴルにひとりで戻りました。

近郊のエトルタやブージヴァルなどさまざまな場所で絵を制作しました。

ル・アーヴルの国際海洋博覧会絵画部門に5点を出品し、銀賞を受賞しました。

カミーユとジャンとともにエトルタに移りました。

ジャポニズムブーム

1867年のパリ万博で日本美術が紹介されたことをきっかけに、パリで日本ブームが起こりました。

モネも日本の浮世絵、特に葛飾北斎の絵に影響を受けました。

この頃からモネの絵には、浮世絵に特徴的な近景の大胆なクローズアップ、左右非対称な画面構成などが見られるようになります。

そしてモネは、同じ風景を描いても、時間によって色彩が変化するということに気が付きます。

一番仲良しなルノワール

クロード・モネ《ラ・グルヌイエール》1869年

29歳のとき、サロンに落選しました。

夏からパリ近郊のサン=ミシェルに移りました。

近所に住むルノワールと一緒に、行楽池ラ・グルヌイエールで絵を描きました。

このときに描いた絵こそ、印象派の画風が誕生した記念すべき絵でもあります。

カンヴァス上で異なる色の絵具を、点や線で隣同士に並べ、見る人の網膜上で色が交わる効果を狙った「色彩分割(筆触分割)法」を生み出しました。

結婚と戦争、ロンドンでの出会い

30歳のとき、サロンで落選しました。

6月、モネはカミーユ結婚しました。

モネは新婚旅行として、ノルマンディー地方の海辺の保養地トルーヴィルに、カミーユと息子ジャン、そしてブーダン夫人と滞在しました。

クロード・モネ《国会議事堂下のテムズ川》1871年頃

7月、普仏戦争が勃発し、兵役を逃れるために、妻カミーユと幼い長男ジャンをフランスに残したままロンドンに渡りました。

ロンドンでは、あまり絵を描く気になれなかったのか数点しか制作していません。

同じくロンドンに避難していたピサロとともに美術館を訪れ、イギリスの風景画家コンスタブルとターナーを研究しました。

画家になることを後押ししてくれた伯母ルカードル夫人が亡くなりました。

同じようにロンドンに逃れていたバルビゾン派の画家ドービニーが、モネとピサロを同じく同地に避難していた画商ポール・デュラン=リュエルに紹介しました。

ドービニーは1870年のサロンの審査委員を務めた際、落選扱いとなったモネに対する審査結果を不満として審査委員を辞めたほど、28歳年下のモネの才能を高く買っていました。

そして、ロンドンに一緒に逃れることを強く勧めた彼は、経済的に困窮しながら外国に滞在中のモネを、何かと気にかけていました。

こうした出会いもあって、バルビゾン派を扱う画廊(もともとは文具・画材)を引き継いでいたデュラン=リュエルは、次の時代を担う絵画として印象派に誰よりも早く着目し、フランスのみならず世界に売り込んでいきます。

カミーユと息子とロンドンで合流します。

11月、親友バジールが29歳の誕生日を目前に戦死しました。

31歳のとき、父親が亡くなりました。

モネ一家は、ドービニーとともにオランダ、アムステルダム近郊ザーンダムに向かいました。

水面を好んで描いたドービニーとモネは、運河や水車など、水辺の多いオランダの風景をさぞかし気に入ったことでしょう。

モネはその後もオランダを訪れています。

《アルジャントゥイユの画家の家》1873年

その後、フランスに戻り、パリ北西部のセーヌ河畔のアルジャントゥイユに引っ越しました。

32歳のとき、ルーアン市の美術展に2点出品しました。

デュラン=リュエル画廊が、モネの作品を購入しました。

33歳のとき、ルノワール、シスレー、ピサロらとグループ展の企画を立て、「画家、彫刻家、版画家など、芸術家の共同出資会社」を作りました。

この頃、ヨーロッパを襲った金融危機により、デュラン=リュエルの経済状況が悪化していました。

第1回印象派展

クロード・モネ《印象、日の出》1872年

1874年、34歳のとき、第1回印象派展が開催され、モネは12点出品します。

主催は、「画家、彫刻家、版画家など、芸術家の共同出資会社」で、総勢30名が参加しました。f

余談ですが、パリでこの第1回印象派展が開催された建物をチラッと見る機会があり感動しました。今はお店が入っていました。

上の絵は「印象派」の命名の元となった、有名な作品です。

ちなみに「印象派展」というタイトルは、この展覧会でモネの《印象、日の出》を見た批評家が、批判するために使った「印象」という言葉から、後につけられた名称で、モネたち言い出したわけではありません。

結局、最初のグループ展はモネに経済的な安定をもたらすことはありませんでした。

この頃のモネは、デュラン=リュエルからの経済的支援が難しかったため、かつて親友バジールにそうしたように、マネに経済的援助を頼むことがありました。

モネは成功した後も、友人に家族の心配事など、愚痴や泣き言を手紙に書いて訴えることが多くありました。

モネ確かに苦労人ではありましたが、基本的に自分の周りの甘えられる人物に、経済的であれ、精神的であれ、たえず無心するようなところがありました。

したがってこの頃のモネも、経済的な困射を大げさに訴えていた傾向があります。

モネの家族の姿は、どう見ても優雅なブルジョワ風です。

モネには、売り込み上手で甘え上手なところがあり、それは職業画家としては大事な才能でもありました。

その後、「画家、彫刻家、版画家など、芸術家の共同出資会社」は解散しました。

36歳のとき、デュラン=リュエル画廊で開催された第2回印象派展に参加し、《ラ・ジャポネーズ》などを出品しました。

パトロンとなる実業家のエルネスト・オシュデからパリ近郊のモンジュロンのロッタンブール城に招かれて制作を行いました。

クロード・モネ《サン=ラザール駅》1877年

37歳のとき、第3回印象派展に参加し、《サン=ラザール駅》など30点を出品しました。

エルネスト・オシュデが破産しました。

愛しのカミーユ

クロード・モネ《散歩、日傘をさす女性》1875年

モネは、カミーユをモデルに多数の絵を描きます。

2人はとても仲が良かったそう。

モネは常人と違う視力を持っていたと言われています。

空に厚い雲がかかっていても、「陽が出てきた」と言い、実際まもなく晴れてきたと同時代人が証言しています。

38歳のとき、次男ミシェルが生まれましたが、カミーユの体調は悪化していきます。

この時も、マネがモネの訴えに応じて経済的援助をしています。

ドロドロの昼ドラ…

1880年頃の写真 緑がモネ家、紫がオシュデ家

秋、モネ一家はアルジャントゥイユよりずっとセーヌ河口に位置する村ヴェトゥイユに引っ越しました。

借金はマネに頼みました(モネの常套手段)。

モネは以後、パリに住まいを構えることはなく、その結果、印象派の仲間たちとは物理的にも精神的にも距離が生まれていくことになります。

このヴェトゥイユでは、事業にも印象派への投機にも失敗して破産し、住むところを失ったオシュデ夫妻と、彼らの6人の子供たちと共同生活を送ることになりました。

オシュデの妻アリスの子供の1人は、昔、絵を描くためにオシュデの邸宅に滞在した1年後に生まれた子供のため、モネの子では?ともいわれています…。

一方、オシュデは家族を残してベルギーに行ってしまいました。

病気のカミーユと、カミーユの子供の面倒を見たのは、アリスでした。

クロード・モネ《モントルグイユ街、1878年6月30日の祝日》1878年

39歳のとき、参加を拒んでいましたがカイユボットの勧めで第4回印象派展に29点出品しました。

ルノワールやシスレーは出品しませんでした。

クロード・モネ《死の床のカミーユ》1879年

この年、病気のカミーユは32歳という若さで亡くなってしまいました。

その際、モネは死の床のカミーユの変化していく顔を描いています。

妻に対する愛情と画家としての業(ごう)が同時に表れている作品です。

カミーユの存命中からお互いに愛情を感じていたといわれているモネとアリスは、以後2人で お互いの8人の子供を育て家庭を築いていきました。

しかし、当然のことながら 経済的な負担は相当なものとなりました。

クロード・モネ《霜》1880年

40歳のとき、猛寒波によりヴェトゥイユのセーヌ川支流が氷結しました。

モネは氷の上にイーゼルを立てて、その姿を描きました。

それらの作品は、貧困、そして妻カミーユの死など精神的な苦境にあったモネの心の中が投影されているかのようです。

サロンへの復帰を決意し、第5回印象派展には参加しませんでした。

この決断の背景には、前年のサロンでの親友ルノワールの大成功がありました。

ルノワールの《シャルパンティエ夫人と子供たち》がサロンで大評判となり、ルノワールは一気に上流階級の人気肖像画家としての地位を確立し、やっと貧しい生活から抜け出すことができました。

低下してきたとはいえ依然としてサロンの権威は、世間にとっては絶対的なものでした。

10年ぶりにサロンに2点提出し、1点が入選しました。

6月には「ラ・ヴィ・モデルヌ」誌の画廊で初の個展を開催しました。

シニャックら新印象派の画家たちを惹きつけただけでなく、《氷塊》が1500フランで売れました。

個展は評判となり、新しい顧客もつき始めたおかげで借金を無事に返すことができました。

こうしてモネの運勢も、40代になってから徐々に好転していきました。

41歳のときの第6回印象派展は不参加でした。

デュラン=リュエルが危機を脱し、再びモネの作品を購入するようになり、生活が好転しました。

アリス夫人をめぐり、オシュデとの関係が複雑になります…。

デュラン=リュエルに引っ越し資金を出してもらい、モネとアリスと8人の子供たちはセーヌ川に面したポワシーに引っ越しました。

しかし、この新しい土地が気に入らなかったモネは、新しい移転先を探し、売れる画題を求めて旅行ガイドや写真を参考に、故郷近くのノルマンディーへ行き、海を描くようになります。

42歳のとき、友人の銀行家ジュール・フェデールの破産と市場の株価暴落でデュラン=リュエルが経済危機に陥ります。

モネは、デュラン=リュエルを助ける目的で第7回印象派展に35点を出品しました。

多くの作品が売れ、デュラン=リュエルは持ち直しました。

1880年代初頭まで好景気を迎えていたフランスの美術市場全体が活性化されたことで、その余波は印象派絵画にも及んでいました。

しかし、1882年に再びフランスの景気が悪化したため、有能な経営者デュラン=リュエルは、フランス市場よりも巨大なアメリカ市場を新しいターゲットとして狙いを定めていきました。

ノルマンディー沿岸プールヴィル近郊に滞在し、制作しました。

クロード・モネ《マンヌポルト(エトルタ)》1883年

43歳のとき、観光地として有名な海辺の町エルトタに何度も足を運び、海や空、奇岩や断崖を描きました。

モネの長い不在中、家族はアリスが世話をしており、彼女の負担を軽減するため、モネが戸外では下絵制作だけにし、その後の作業はアトリエでするようになりました。

エトルタを描いた海景画などが人気になります。

パリのデュラン=リュエル画廊で個展を開催し、56点展示しました。

再びデュラン=リュエルに資金を出してもらい、モネとアリスと子供たちは人口300人ほとの小さな村だったジヴェルニーに引っ越しました。

セーヌ川と支流のエプト川の合流地点に位置する、パリから3キロメートルほど西にあるジヴェルニーはモネの終の住処となりました。

この年、マネが亡くなりました。

ルノワールと地中海沿岸を巡りました。

クロード・モネ《マントン近郊のマルタン岬》1884年

44歳のとき、再び1人で地中海沿岸へ旅行に出かけました。

上の絵は、前年の冬にルノワールと訪れた南仏のリヴィエラ地方を1人で再訪し、制作した作品です。

風景画家としての道を歩んでいたモネにとって、着想源を得るための旅行は大事な仕事の一部で、頻繁に旅行に出かけるようになりました。

そして、同じ場所で天気や時間などの違った状況の下で描き、後の連作群の予兆のような作品を制作し始めました。

イタリアで《マントン近郊のマルタン岬》《ボルディゲラの別荘》を制作しました。

45歳のとき、ジョルジュ・プティ画廊で開かれた第4回国際絵画彫刻展に出品しました。

エトルタへ制作旅行に向かいました。

46歳のとき、最後のグループ展だった第8回印象派展にはルノワールやシスレーとともに不参加でした。

ニューヨークのデュラン=リュエル画廊でモネの作品48点を含む印象派の展覧会が開催されました。

プティ画廊で開催された第5回国際絵画彫刻展に出品しました。

この頃にはモネの作品をはじめ印象派はすでに革新的でも前衛的でもありませんでした。

皮肉なことに、だからこそ印象派は世間に受け入れられ始めたのでした。

ブルターニュ地方で《ベル=イルの岩、ソヴァージュ海岸》を制作しました。

47歳のとき、プティ画廊で開催された第6回国際絵画彫刻展に出品しました。

ロンドンに滞在し、ホイッスラーの招待でロンドンの英国王立美術家協会展に4点を出品しました。

この頃には、アメリカを中心にモネの絵は大人気となり、翌年には、国内でもモネの作品は1点約3000フランにまで高騰していました。

48歳のとき、フランス南部のアンティーブを旅行しました。

夏頃から連作「積みわら」に着手しました。

49歳のとき、クルーズ峡谷への旅行では、モネ自身が初めて 「連作」という言葉を使った9点の作品が制作されました。

芸術運動においても印象派は、後に「ポスト印象派」や「新印象派」と呼ばれるようになる画家たちにとって「古典」になっていました。

そしてそのことを象徴するかのように、モネは同い年の彫刻家ロダンと合同でプティ画廊で「モネ・ロダン展」を開きました。

「近代彫刻の父」と「近代絵画の象徴的存在」との二人展でした。

モネは145点出品し、好評を博しました。

翌年に50歳を迎えるモネにとって、それは自分の半生の回顧展にもなりました。

マネの《オランピア》をルーヴル美術館へ寄贈するための運動を主導しました。

奇跡の連作

40代から晩年にかけて、モネは連作を描くようになります。

詳しい解説はこちら↓

モネの連作を超解説!あまりにも革新的だったその作品とは?

2021.07.21

クロード・モネ《積みわら、夏の終わり》1891年

50歳のとき、連作『積みわら』の制作を再びはじめました。

世間での印象派に対する風当たりが弱まっていく中、モネの顧客や取引先も増え始めていき、経済的な成功に伴い、私生活も充実していきました。

デュラン=リュエルの資金援助を受けて、ジヴェルニーの家と土地を買い取りました。

51歳のとき、エルネスト・オシュデが亡くなりました。

デュラン=リュエル画廊で開催された個展に『積みわら』の連作15点を含む22点を出品し、大成功を収めました。

クロード・モネ《陽を浴びるポプラ並木》1891年

『ポプラ並木』の連作に着手しました。

52歳のとき、事実婚状態を長く続けてきたアリスと正式に結婚しました。

その4日後には義理の娘となったシュザンヌが、ジヴェルニーに移り住んだアメリカ人画家セオドア・アール・バトラーと結婚しました。

最初は2人の結婚に反対だったモネでしたが、バトラー家が資産家だとわかると態度を変え結婚を許しました。

クロード・モネ《ルーアン大聖堂、ファサード(日没)》1892年

『ルーアン大聖堂』の連作に着手しました。

デュラン=リュエル画廊で開催された個展で『ポプラ並木』の連作を発表しました。

『ポプラ並木』連作は、『積みわら』連作の3倍以上の高値で売れました。

睡蓮の池を造る

クロード・モネ《ジヴェルニーの日本の橋と睡蓮の池》1899年

53歳のとき、ジヴェルニーの家に隣接する土地を購入し、エプト川から水を引いて「水の庭園」を造りに着手しました。

54歳のとき、カイユボットが世を去りました。

セザンヌ、カサット、ロダンらがモネの誕生日を祝うため、ジヴェルニーを訪れました。

55歳のとき、義理の息子ジャックに会うためノルウェーに行き、約2ヶ月間滞在し、オスロ近郊のビョルネゴールに滞在し、コルサース山を13作描きました。

デュラン=リュエル画廊で開催された個展で『ルーアン大聖堂』連作20点を発表しました。

ジヴェルニーの池に、歌川広重の「名所江戸百景亀戸天神境内」(1856~58)に似せたといわれる日本風の太鼓橋を建造しました。

56歳のとき、ノルマンディー沿岸のプールヴィルへ旅行しました。

『セーヌ川の朝』の連作に着手しました。

ベルリン、モスクワ、サンクトペテルブルクなどで作品が紹介されました。

57歳のとき、ジヴェルニーの敷地内に第2のアトリエを建設しました。

『睡蓮』を描き始めました。

義娘ブランシュは、17歳の頃からモネの助手兼生徒となりました。

そして義娘シュザンヌのように、アメリカ人の画家と恋に落ちました。

バトラーの友人ジョン・レスリー・ブレックでした。

しかし、この2人の関係はモネに反対されて破局に至ってしまいます…。

結局ブランシュは、一緒に育ったモネの長男ジャンと結婚しました。

そして1913年に夫ジャンに先立たれると、ブランシュはジヴェルニーに戻り、1911年にアリスに先立たれていたモネの晩年の世話をしました。

58歳のとき、デュラン=リュエル画廊でピサロやルノワールとのグループ展を開催しました。

ジョルジュ・プティ画廊で開催された回顧展で『セーヌ川の朝』の連作が展示されました。

ブーダンが亡くなりました。

59歳のとき、ロンドンを旅し、『国会議事堂』の連作に着手しました。

シスレーが亡くなりました。

義娘シュザンヌが2人の子供を残して世を去ると、夫バトラーはシュザンヌの姉妹のマルトと再婚し、彼はジヴェルニーで生涯を終えることになります。

『睡蓮の池』の連作に着手しました。

クロード・モネ《国会議事堂》1900-1901年

60歳のとき、再びロンドンを旅行し、制作しました。

デュラン=リュエル画廊で開催された個展で《睡蓮の池》を展示しました。

クロード・モネ《ウォータールー橋、ロンドン》1902年

61歳のとき、またロンドンへ旅行し、制作しました。

上の絵は、サヴォイホテルの部屋から見える、テムズ川にかかるウォータールー橋を描いた41点の連作のうちの1枚です。

この作品は、1921年12月頃、松方幸次郎がモネから直接買い付けた作品だといわれており、現在上野の国立西洋美術館所蔵です。

ジヴェルニーに新たな土地を購入しました。

庭の池も拡張しました。

息子たちの勧めで自動車を購入しました。

62歳のとき、ニューヨークのデュラン=リュエル画廊で個展を開催しました。

パリのベルネーム=ジューヌ画廊でピサロと二人展を開催しました。

20世紀になるとモネの名声は、アメリカをはじめ世界各国へ広がっていきました。

そして母国フランスでも大家扱いを受けるようになっていました。

作品はモネ自身も驚くほどの高額で取引され、前衛的で革新的と見なされていたモネも確固たる古典になっていました。

63歳のとき、ベルネーム=ジューヌ画廊で開催された印象派の展覧会に参加しました。

『睡蓮』の連作に着手しました。

ピサロが世を去りました。

64歳のとき、『テムズ川』の連作がデュラン=リュエル画廊で展示されました。

妻アリス、次男ミシェルとともに、スペイン・マドリードへ車で旅行しました。

65歳のとき、ロンドンのグラフトン・ギャラリーでデュラン=リュエルが大規模な印象派の展覧会を開催しました。

モネの作品も55点展示されました。

66歳のとき、セザンヌが亡くなりました。

68歳のとき、モネの視力が落ち始めました。

アリスと水の都ヴェネツィアへ行きました。

これが夫婦最後の旅行となりました。

《黄昏、ヴェネツィア》を制作しました。

69歳のとき、デュラン=リュエル画廊で開催された「睡蓮:水の風景連作」展で、『睡蓮』の連作48点が展示されました。

晩年のモネの着想源となった庭の池の睡蓮を、それまでの植物カタログや図鑑から発展したボタニカル・アート以外では西洋美術ではあり得ない構図で描いていきました。

かつては伝統的な静物画のように壺に生けた花を描いていたモネでしたが、ジヴェルニーの池を描いていくうちに周囲の庭から離れて、水面の睡蓮のクローズアップという画期的な構図で描くようになりました。

花鳥風月を主題にした美術に親しんできた日本人にはお駅染みの構図ですが、西洋美術では独創的で画期的でした

70歳のとき、セーヌ川の大洪水で、ジヴェルニーの「水の庭園」が水没しました。

池を再び拡張工事しました。

71歳のとき、妻アリスが世を去りました。

ボストン美術館でモネ回顧展が開催されました。

72歳のとき、パリのベルネーム=ジューヌ画廊で開催された個展でヴェネツィア風景を展示しました。

この頃、白内障との診断を受けました。

73歳のとき、次男ミシェルと、亡き義娘シュザンヌの子供たちと、スイスのサン・モリッツへ旅行に出かけました。

74歳のとき、長男ジャンが世を去りました。

睡蓮の「大装飾画」に着手しました。

ルーヴル美術館に現存画家として初めて作品が収蔵されました。

75歳のとき、「大装飾画」のために大型のアトリエをジヴェルニーに建て、制作しました。

白内障による視力の衰えから、対象はいっそう抽象化していき、図らずも前術性が強調される結果となりました。

印象主義が古典になっていた20世紀において、新たに現代性の強い作品を最晩年に生み出すことになりました。

視力の衰えさえも、生涯自分の視覚に忠実であろうとしたモネにとって、新しい造形性を生み出す手段となりました。

77歳のとき、ドガが世を去りました。

ノルマンディー地方を旅行しました。

78歳のとき、第一次世界大戦の勝利を記念して、「大装飾画」のフランス政府への寄贈を友人のクレマンソーに打診しました。

79歳のとき、親友ルノワールが世を去りました。

80歳のとき、大原孫三郎の依頼で画家の児島虎次郎がモネを訪問しました。

81歳のとき、実業家の松方幸次郎がモネを訪問しました。

モネはのちに松方に「睡蓮」の巨大な習作と壁画を譲りました。

ベルネーム=ジューヌ画廊で回顧展が開催されました。

82歳のとき、白内障が進行し、制作が難しくなりました。

「大装飾画」の国家寄贈が正式契約となりました。

すでに動き始めていたプロジェクトに対して、白内障が悪化したからといって制作を放棄できなくなっていました。

83歳のとき、友人であるクレマンソー首相と交わした約束を守るため、嫌がっていた白内障の手術(2度目)を受けました。

これにより視力が回復しましたが、左目は失明に等しい状態でした。

85歳のとき、「大装飾画」の制作が難航します。

メガネをするようになり、色彩感覚が改善されました。

こうして最晩年のモネに、母国フランスは最大の敬意を払うことになります。

晩年のモネが描き続けた睡蓮の集大成ともいうべき大壁画のために、政府はテュイルリー公園内のオランジェリー(オレンジの温室)を美術館として生まれ変わらせました。

印象派最大の巨匠となっていたモネは、肺の病のため愛するジヴェルニーの自宅で86歳の生涯を閉じました。

クロード・モネ《睡蓮:緑の反射》

1927年5月7日、オランジェリー美術館で大壁画8点の除幕式が行われました。

「睡蓮の絵だけで部屋を飾りたい」というモネの夢は実現し、オランジェリー美術館で見ることができます。

オランジュリー美術館に行ったときの話はこちら

まとめ

・モネの描いた《印象、日の出》が印象派の名前の由来
・睡蓮を描くために庭を造り、専用アトリエも作った