こんにちは!
今回は、印象派を代表する画家モネについて解説します!
彼はその生涯で2000作以上の油彩画を残しました。
早速見ていきましょう!
目次
クロード・モネ(1840-1926年)
クロード・モネはフランスの印象派の画家です。
パリで生まれ、5歳のとき港町ル・アーヴルに引っ越し、幼少期をここで過ごしました。
勉強より外で遊び回ることが大好きでした。
おこづかい稼ぎの似顔絵
絵が上手かったモネは、15歳頃には、描いたカリカチュアを地元の文具屋に置いてもらっていました。
運命の出会いと初めてちゃんと描いた絵
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クロード・モネ《ルエルの眺め》1858年
18歳のとき、モネのカリカチュアが、先輩画家ブーダンの目にとまります。
彼はモネを外でのスケッチに誘いましたが、モネは全く乗り気ではなく、いやがります。
ブーダンの熱意に負け…しぶしぶ彼に同行して外で絵を描いてみることにしました。
運命の出会い
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クロード・モネ《シャイイへの道(フォンテーヌブローの森)》1865年
本格的に画家を目指すようになったモネは19歳のとき、父親の反対を押し切り、パリに出ました。
ここでピサロ(長老)、シスレー(貧乏)、ルノワール(親友で貧乏)、バジール(お金持ち)と出会い、仲良くなり、戸外で一緒に絵を描くようになりました。
モネとマネはややこしい
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クロード・モネ《オンフルールのセーヌ河口》1865年
25歳のとき、サロンで作品が初入選しました。美術界デビューです。
サロンに入選しないと、絵が売れません。画家としては死活問題です。
当時の画家にとっては、サロンこそが全てでした。
しかし、マネとモネの絵が同じ展示室にあり、モネの絵をマネの絵だと勘違いする人が出てきて、マネがキレます(のちに和解、めちゃモネを気に入る)。
お金持ちのバジールにどこまでも頼る
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フレデリック・バジール《病床のモネ》1865年
27歳のとき、パリのバジールのもとへ身を寄せ、ルノワールと3人で暮らしていました。
前からモネはバジールのアトリエで絵を描いたりと、彼に頼りっきりです。
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クロード・モネ《庭の女たち》1866年頃
上の絵をサロンに応募しましたが、落選…。この後3年連続で落選します。
生活に困窮したモネを助けるため、お金持ちのバジールがこの絵を買ってくれました。
この年のサロンの審査がとても厳しく、同じく落選したルノワール、バジール、シスレー、ピサロ、セザンヌらと自分たちだけのグループ展を企画しようとしましたが、質金不足のために計画は頓挫しました。
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クロード・モネ《サン=タドレスのテラス》1867年
モネとカミーユの長男ジャンが生まれました。
しかしモネの実家はカミーユのことを認めず、援助もしてもらえず、モネは経済的に困窮しました。
友人たちにも何度も借金をし、なんとか絵を売ろうと制作するも思うようにいかず、金銭的に行き詰まります。
一番仲良しなルノワール
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クロード・モネ《ラ・グルヌイエール》1869年
29歳のとき、近所に住むルノワールと一緒に、行楽池ラ・グルヌイエールで絵を描きました。
このときに描いた絵こそ、「色彩分割(筆触分割)法」という印象派の画風が誕生した記念すべき絵です。
結婚と戦争、ロンドンでの出会い
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クロード・モネ《トルヴィルの浜辺》1870年
30歳のとき、カミーユと結婚し、新婚旅行として、海辺のリゾート地トルーヴィルに行きました。
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クロード・モネ《国会議事堂下のテムズ川》1871年頃
その後すぐ、普仏戦争が勃発し、兵役を逃れるためロンドンに渡りました。
モネはここで後にパトロンとなる画商ポール・デュラン=リュエルと出会いました。
11月、バジールが29歳の誕生日を目前に戦死しました。
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《アルジャントゥイユの画家の家》1873年
33歳のとき、ルノワール、シスレー、ピサロらとグループ展の企画を立て、「画家、彫刻家、版画家など、芸術家の共同出資会社」を作りました。
第1回印象派展
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クロード・モネ《印象、日の出》1872年
1874年、34歳のとき、第1回印象派展を開催しましたが、大失敗に終わります。
36歳のとき、第2回印象派展に参加しました。
パトロンとなる実業家のエルネスト・オシュデからパリ近郊のロッタンブール城に招かれて制作を行いました。
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クロード・モネ《サン=ラザール駅》1877年
37歳のとき、第3回印象派展に参加しました。
愛しのカミーユ
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クロード・モネ《散歩、日傘をさす女性》1875年
38歳のとき、次男ミシェルが生まれましたが、カミーユの体調は悪化していきます。
ドロドロの昼ドラ…
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1880年頃の写真 緑がモネ家、紫がオシュデ家
ヴェトゥイユに引っ越し、破産して住むところを失ったオシュデ夫妻と、彼らの6人の子供たちと共同生活を送ることになりました。
エルネストの妻アリスとモネはお互いに惹かれあっていたようで、オシュデ家の子供の1人はモネの子では?ともいわれています…。
エルネストは家族を残してベルギーに行ってしまいます…。
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クロード・モネ《モントルグイユ街、1878年6月30日の祝日》1878年
39歳のとき、参加を拒んでいましたがカイユボットの勧めで第4回印象派展に参加しました。
妻カミーユの死
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クロード・モネ《死の床のカミーユ》1879年
この年、病気のカミーユは32歳という若さで世を去りました。
その際、モネは死にゆくカミーユの変化していく顔を描きました。
妻に対する愛情と画家としての業(ごう)が同時に表れている作品です。
10年ぶりのサロン
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クロード・モネ《ラヴァクール》1880年
40歳のとき、サロンへの復帰を決意し、第5回印象派展には参加しませんでした。
というのも、前年のサロンで親友ルノワールが大成功していたからです。
10年ぶりにサロンに出品し、入選しました。
その後、「ラ・ヴィ・モデルヌ」誌の画廊で初の個展を開催しました。
次世代の若い画家たちを惹きつけただけでなく、個展は評判となり、新しい顧客もつき始めたおかげで借金を無事に返すことができました。
こうしてモネの運勢も、40代になってから徐々に好転していきました。
41歳のときの第6回印象派展は不参加でした。
デュラン=リュエルが危機を脱し、再びモネの作品を購入するようになり、生活が好転しました。
42歳のとき、モネは、経済危機に陥っていたデュラン=リュエルを助けるため、第7回印象派展に35点を出品しました。
多くの作品が売れ、デュラン=リュエルは持ち直しました。
終の住処ジヴェルニーへ
再びデュラン=リュエルに資金を出してもらい、モネ一家はジヴェルニーに引っ越しました。
ルノワールとの旅行
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クロード・モネ《マントン近郊のマルタン岬》1884年
ルノワールと地中海沿岸を旅行し、翌年、再び1人で地中海沿岸を再訪し、作品を制作しました。
風景画家としての道を歩んでいたモネにとって、着想源を得るための旅行は大事な仕事の一部で、頻繁に旅行に出かけるようになりました。
そして、同じ場所で天気や時間などの違った状況の下で描き、後の連作群の予兆のような作品を制作し始めました。
アメリカでの人気
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クロード・モネ《マンヌポルト(エトルタ)》1883年
46歳のとき、最後のグループ展だった第8回印象派展にはルノワールやシスレーとともに不参加でした。
ニューヨークのデュラン=リュエル画廊でモネの作品48点を含む印象派の展覧会が開催されました。
アメリカを中心にモネの絵は大人気となり、国内でもモネの作品は1点約3000フランにまで高騰していました。
マネへの恩返し
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クロード・モネ《舟遊び(ノルヴェジエンヌ号で)》1887年頃
49歳のとき、モネは同い年の彫刻家ロダンと展覧会を開き、好評を博しました。
マネの《オランピア》をルーヴル美術館へ寄贈するための運動を主導しました。
奇跡の連作
40代から晩年にかけて、モネは連作を描くようになりました。
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クロード・モネ《積みわら、夏の終わり》1891年
世間での印象派に対する風当たりが弱まっていく中、モネの顧客や取引先も増え始めていき、経済的な成功に伴い、私生活も充実していきました。
51歳のとき、デュラン=リュエル画廊で開催された個展に『積みわら』の連作を出品し、大成功を収めました。
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クロード・モネ《陽を浴びるポプラ並木》1891年
『ポプラ並木』連作は、『積みわら』連作の3倍以上の高値で売れました。
52歳のとき、事実婚状態を長く続けてきたアリスと正式に結婚しました。
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クロード・モネ《ルーアン大聖堂、ファサード(日没)》1892年
睡蓮の池を造る
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クロード・モネ《ジヴェルニーの日本の橋と睡蓮の池》1899年
53歳のとき、「水の庭園」造りに着手しました。
池には日本風の太鼓橋を建造しました。
57歳のとき、ジヴェルニーに第2のアトリエを建設し、『睡蓮』を描き始めました。
3年連続ロンドン旅行
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クロード・モネ《国会議事堂》1900-1901年
59歳から3年連続でロンドン旅行に出かけ、『国会議事堂』や『ウォータールー橋』の連作を制作しました。
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クロード・モネ《ウォータールー橋、ロンドン》1902年
視力の低下と最後の夫婦旅行
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クロード・モネ《黄昏、ヴェネツィア》1908年
68歳のとき、モネの視力が落ち始めました。
アリスと水の都ヴェネツィアへ行きました。
これが夫婦最後の旅行となりました。
睡蓮の池が水没
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クロード・モネ《睡蓮》1908年
69歳のとき、デュラン=リュエル画廊で開催された展覧会で、『睡蓮』の連作48点が展示されました。
70歳のとき、セーヌ川の大洪水で、ジヴェルニーの「水の庭園」が水没しました。
池を再び拡張工事しました。
71歳のとき、妻アリスが世を去りました。
72歳頃、白内障との診断を受けました。
74歳のとき、長男ジャンが世を去りました。
睡蓮の「大装飾画」に着手しました。
ルーヴル美術館に現存画家として初の収蔵
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クロード・モネ《ポール=ヴィレのセーヌ川》1890年頃
ルーヴル美術館に現存画家として初めて作品が収蔵されました。
睡蓮の「大装飾画」をフランスへ!
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クロード・モネ《睡蓮の池》1917-1919年
78歳のとき、第一次世界大戦の勝利を記念して、「大装飾画」のフランス政府への寄贈を友人で当時の首相クレマンソーに打診しました。
79歳のとき、親友ルノワールが世を去りました。
82歳のとき、白内障が進行し、制作が難しくなりました。
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クロード・モネ《日本橋》1918‐1924年
83歳のとき、白内障の手術(2度目)を受けました。
これにより視力が回復しましたが、左目は失明に等しい状態でした。
85歳のとき、「大装飾画」の制作が難航しました。
メガネをするようになり、色彩感覚が改善され、モネはとにかく描き続けました。
印象派最大の巨匠となっていたモネは、肺の病のため愛するジヴェルニーの自宅で86歳の生涯を閉じました。
除幕式
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クロード・モネ《睡蓮:緑の反射》
モネの死から約5ヶ月後の1927年5月17日、オランジェリー美術館で大壁画8点の除幕式が行われました。
「睡蓮の絵だけで部屋を飾りたい」というモネの夢は実現し、現在もオランジェリー美術館で見ることができます。
オランジュリー美術館に行ったときの話はこちら。