レオナルド・ダ・ヴィンチが溺愛した愛弟子サライを超解説!

こんにちは!

今回は、レオナルドが溺愛したイケメンで超不良な弟子サライについてです。

早速見ていきましょう!

ジャン・ジャコモ・カプロッティ(1480-1524年)

レオナルド・ダ・ヴィンチ《サライの素描》15世紀末

ジャン・ジャコモ・カプロッティは、ルネサンス期のイタリアの芸術家です。

あだ名は「サライ」「小悪魔」という意味です。

レオナルド・ダ・ヴィンチの弟子だったことで有名です。

秘密の花園

レオナルド・ダ・ヴィンチ《洗礼者ヨハネ》の素描 部分 1515年頃

父親のピエトロは、レオナルドが所有していたワイン畑で働いていました。

10歳のとき、住み込みの徒弟として、38歳のレオナルドのもとに入門しました。

レオナルドは、自分の工房に多くの美少年たちを集めていました。

才能よりも顔です。

なので、レオナルドの工房から有名になった画家というのは特にいません。(笑)

レオナルドといえば、あのおじいさんの自画像のイメージが強いかと思いますが、若い時はものすごい美少年だったそう。

美少年を集めて囲うっていうのはなんか危険な香りがしますね…。

そんなところからレオナルドは同性愛者だったのでは?ともいわれています。(24歳のときに2度も同性愛者として告発されています。キリスト教の倫理観では同性愛は罪

集めた美少年の中でも、特にお気に入りだったのがサライです。

美術史家のヴァザーリ(いろんな画家の伝記を書いたすごい人。でもかなり誇張しているから信憑性は微妙)が、サライについて「優雅で美しい若者で、レオナルドは(サライの)巻き毛を非常に好んでいた」と記しています。

上の絵はサライがモデルで、下半身の描写があまりにもハレンチなので切り取りました…気になる方は探してみてください(笑)

小悪魔、貢がせる

レオナルド・ダ・ヴィンチの弟子《サライの肖像》1502-1503年頃

「サライ(小悪魔)」というあだ名の通り、サライはレオナルドの金銭や貴重品を少なくとも5回は盗んだり、嘘をついたり、ものすごく欲張りで、大食い(大食漢は悪という文化)の超問題児でした。

でもそんなところが(も?)可愛かったのでしょうか。

レオナルドは、サライに好かれようと、おこづかいプレゼントをたくさん贈りました。もう完全にヒモ。泣ける。

出会って最初の1年間だけでも、靴を24足、上着を3着、コートを1着プレゼントしています。

レオナルドはサライを、20年以上自宅に住まわせて、絵画技法を教え込み続けました。溺愛。

上の絵を見ると、女の子みたいで可愛らしい顔してますよね、サライ。

モデル

レオナルド・ダ・ヴィンチの工房《バッカス》1510-1515年

サライはレオナルドの《バッカス》(下絵のみレオナルドが制作)と《洗礼者聖ヨハネ》のモデルとなったと考えられています。

レオナルド・ダ・ヴィンチ《洗礼者ヨハネ》1513-1516年

洗礼者ヨハネというのは、イエスに洗礼を施した(水をかける儀式)聖人です。

通常は、原始人みたいな野性味あふれる姿で描かれる人物なのですが、レオナルドは、中性的でセクシーなヨハネを描いています。

こういう描き方から同性愛者っぽいといわれていたりもします。

ちなみになんで人差し指を天に向けたポーズ決めポーズなのかというと、「イエス到来!」という匂わせです。

画面が暗くてわかりにくいのですが、反対の手で毛皮と十字架を持っていて、指差した手の後ろあたりに十字架が見えています。

この2つは洗礼者ヨハネの持ち物です。

画家としてはそれなり

ジャン・ジャコモ・カプロッティ《洗礼者ヨハネ》1510-1520年

レオナルドが画家としての技量を見込んで弟子にしたわけではないので、特にものすごく絵がうまかったわけでも、下手だったわけでもなく、それなり…な感じでした。

上のレオナルドの《洗礼者ヨハネ》を複製した作品です。

モナリザのヌード

ジャン・ジャコモ・カプロッティ《モナ・ヴァナ》1500年頃

実は、レオナルドは《モナ・リザ》のヌードバージョンを描いていたようですが、残念ながら現存していません。

しかし、その絵をサライが模写した《モナ・ヴァナ》が残っていたことで、レオナルドがどんな絵を描いていたのかがわかります。

そういった意味では、サライの功績は大きいですね。

陰り

レオナルドは2度目のミラノ滞在中に、ロンバルディアの貴族の子弟フランチェスコ・メルツィを弟子にしました。

レオナルドは1513年にローマ、1516年にフランスを訪れているが、どちらにもサライとメルツィが同行しています。

成長したメルツィはレオナルドの秘書兼主席助手となります。

レオナルドの膨大な手稿の整理を任せられ、後に『レオナルド・ダ・ヴィンチ手稿』として出版。

ヴァザーリはメルツィについて「当時のレオナルドがもっとも愛した美しい若者」と記しています。

フランスで、25歳のメルツィは「巨匠レオナルドと暮らしているイタリア紳士」として歓迎され、400エキュ与えられました。

一方36歳のサライは「召使い」と呼ばれ、100エキュだけ与えられました。

モナ・リザをもらった

レオナルド・ダ・ヴィンチ《モナ・リザ》1503-1506年

38歳のとき、レオナルドのもとを去り、フランスを後にしました。

ミラノに戻ったサライは、父親が働いていたレオナルド所有のワイン畑で芸術活動を続けました。

1519年にレオナルドが死去したときに、このワイン畑の半分を遺言によってサライが相続しています。

さらに、《ラ・ジョコンダ》(モナ・リザの別名)という題名の肖像画も同時に相続したことが、サライの個人的覚書に記されていました。

しかし、この《ラ・ジョコンダ》が現在ルーヴル美術館にある《モナ・リザ》と同じものなのかはよくわかっていません。

ちなみに《モナ・リザ》のモデルもサライなのでは説もあります。

サライが相続した絵画作品多くは、後にフランス王フランソワ1世の所有となりました。

43歳のとき、ビアンカ・コロディローリ・ダンノと結婚しました。

しかし、結婚した翌年に決闘で負った矢傷がもとで亡くなっています。(暗殺説もあり)

世界で1番高い絵のモデルもサライ?

レオナルド・ダ・ヴィンチ《サルバトール・ムンディ》1500年頃

2017年に約4億5030万ドル(508億円)で落札された作品です。

世界で一番高い金額で売買された絵画です。

一応、レオナルドの真筆ということになっていますが、贋作疑惑もある作品です。

サルバトール・ムンディというのはイエス・キリストのことで、この絵のモデルもサライでは?といわれています。