モネの人生のフィナーレ 睡蓮の大装飾画全8点を紹介!(モネの生涯29)

こんにちは!

今回は、モネの睡蓮の「大装飾画」を紹介します。

早速見ていきましょう!

モネの人生のフィナーレ

前回のおさらい

モネは、睡蓮の「大装飾画」を国へ寄贈するぞ!と意気込みましたが、あまりにも目が見えなくて嫌になってきました。

モネは睡蓮の大装飾画をなぜ作ったの?どうして国に寄贈したの?(モネの生涯28)

2022.09.05

生存中最大の回顧展

クロード・モネ《積みわら、夏の終わり》1891年

モネ84歳のとき、ジョルジュ・プティ画廊で、生存中最大の回顧展が開催されました。

モネのための美術館

クロード・モネ《アイリスのある睡蓮の池》1920‐1926年

85歳のとき、「大装飾画」の制作が難航しました。

メガネをするようになり、色彩感覚が改善されました。

モネの「大装飾画」のために、政府はテュイルリー公園内のオランジェリー(オレンジの温室)を美術館として生まれ変わらせました。

肺の病

クロード・モネ《バラに囲まれた家》1925年

86歳の夏の終わり、モネは肺の病で病床につきます。

モネには病名は肺硬化症と伝えていましたが、レントゲン写真には肺癌が写っており、クレマンソーは本当の病名をモネには伝えなかったといわれています。

そしてこの年の冬、印象派最大の巨匠となっていたモネは、肺の病のため愛するジヴェルニーの自宅でその生涯を閉じました。

息子のミシェルや、ブランシュ、クレマンソーが彼を看取りました。

除幕式

クロード・モネ《睡蓮:柳の朝》1914‐1926年

クロード・モネ《睡蓮:木の反射》1914‐1926年

クロード・モネ《睡蓮:雲》1914‐1926年

クロード・モネ《睡蓮:柳のある晴れた朝》1914‐1926年

クロード・モネ《睡蓮:2つの柳》1914‐1926年

クロード・モネ《睡蓮:夕日》1914‐1926年

クロード・モネ《睡蓮:緑の反射》1914‐1926年

クロード・モネ《睡蓮:朝》1914‐1926年

モネの死から約5ヶ月後の1927年5月17日、テュイルリー公園内のオランジェリー美術館で「大装飾画」8点の除幕式が行われました。

『睡蓮』の部屋は、モネの考えに従って、楕円形の2つの部屋からなり、それぞれ4点の大画面作品で構成されています。

「睡蓮の絵だけで部屋を飾りたい」というモネの夢は実現しました。

おもちがオランジュリー美術館に行ったときの話はこちら

忘れられ、再発見されたモネ

クロード・モネ《睡蓮》1919‐1920年

モネの晩年には、フォーヴィスム、キュビスムなど、次々と新しい芸術表現が生まれており、当時『睡蓮』に注目する人はあまりいませんでした。

クレマンソーは、1927年6月、「昨日、オランジュリー美術館を訪れたが、誰一人としていなかった」と書いています。

しかし、1950年代になると、ジャクソン・ポロックなど抽象表現主義の画家・批評家がモネを引き合いに出すようになり、改めて注目を浴びるようになりました。

画家アンドレ・マッソンは、睡蓮の「大装飾画」を「印象主義のシスティーナ礼拝堂」と呼び、すべての現代人に見ることを勧めました。

モネの生涯をノンストップ解説↓

モネの生涯を超解説!うつろう光を色彩で表現した画家の戦いとは?

2020.06.05