男装の女性画家ローザ・ボヌールを超解説!困難な時代に生きたいように生きた画家

こんにちは!

今回は、ローザ・ボヌールについてです。

早速見ていきましょう!

ローザ・ボヌール(1822-1899年)

エドゥアール・ルイ・デュビュフ、ローザ・ボヌール《ローザ・ボヌールの肖像画》1857年頃(雄牛はボヌールが描いた)

ローザ・ボヌールは、フランスの画家です。

男尊女卑の時代に男装で好きな絵を描き、女性を愛し、生前から絵が評価されるという、稀有な生涯をおくった画家です。

ナポレオンはすでに没していましたが、彼が強化した男尊女卑のさまざまな規定はまだ生きていたし、芸術創造において女性は劣っているとの考えも根強くありました。

そのため、当時女性が画家になるというのは非常に珍しいことでした。

父親も画家

ボヌールは、フランスのボルドーで生まれました。

父親は画家で、絵の教師をしており、母親はピアノ教師でした。

ボヌールには弟2人と妹がおり、3人とも画家や彫刻家になっています。

貧しい一家はやがてパリへ引っ越しました。

父親は子供たちに絵を教えました。

父は、ローザの画才に気づいて基礎技術を教えましたが、それは単に自分の画塾を手伝わせるのが目的でした。

とはいえ、当時、女性は美術学校へ入れなかったため、父親から絵を学べたことは彼女にとってはラッキーなことでした。

幼少時からお転婆で、いくつもの小学校を退学処分となっています。

ボヌール11歳のとき、母が亡くなり、その後父が再婚しました。

自立したいのにできない

自作が父より売れるようになったボヌールは自立を目指すも、家父長的権威をふりかざす父がそれを許しませんでした。

19歳のとき、何とか半自立することができ、昼だけ自分のアトリエで仕事をして、夜は帰宅という生活を送っていました。

売った絵のお金の大部分を父に渡していましたが、それでもボヌールにとってはやりがいのある充実した日々でした。

ナタリーというソウルメイト

ローザ・ボヌール《ローバックの頭部》1845年?

アトリエでの食事の世話など家事いっさいは、14歳のときから近所づきあいのあった2歳下のナタリーとその母がやってくれました。

意志が強く、早くから自分の道を見定めていたボヌールでしたが、因習に強く縛られていた時代だったこともあり、なかなか自立することが許されませんでした。

この年、父の生徒として、初めてサロンで展示を行いました。

23歳のとき、サロンで3位のメダルを、26歳のときには金メダルを獲得しました。

27歳のとき、父がコレラで急死し、やっと自由を手に入れました。

ようやくにして実家を離れた彼女は、ナタリーとその母との3人暮らしを始めました。

ナタリーとはおそらく恋人関係だったと考えられており、彼女も画家となっています。

彼女が亡くなるまで、40年も仲良く暮らしました。

大好きな動物を描く

ローザ・ボヌール《耕作 ニヴェルネ地方にて》1849年

新たな家族を得たボヌールは、心置きなく好きなテーマである「動物」を描くことができるようになりました。

子どもの頃から大の動物好きだった彼女は、リス、ウサギ、アヒルなどを飼い、大型の家畜は本や博物館、牧場などで観察を続けていました。

しかしリアルさを追求するには、 動物の体の内部構造を知る必要があります。

男装の理由

ローザ・ボヌール《リミエブリケットハウンド》1856年頃

解剖学的知識を得たいけれども、当時、女性は美術学校へ入れなかったため、ボヌールは食肉処理場へ通って実地で身につけようと考えました。

ここから彼女の男装は始まりました。

当時のフランスでは、女性の男装(特にズボン)は禁じられていました。

これは1800年に発布された警察令をもとに、1804年のナポレオン法典(妻は夫に絶対服従、妻の稼ぎは夫のもの等々…)で明文化された法律で、違反者には罰金や禁固刑が科せられました。

例外は健康上の理由など特殊な場合のみで、警察に申請して「異性装許可証」を取得する必要がありました。

1850年代の取得女性はわずか12人のみという、とてもハードルの高いものでした。

そうした逆風の中、ボヌールは比較的すんなり許可証をもらうことができました。

サロンでの入賞経験もある優れた画家が、職業上の必要にかられて男の職場たる危険な馬市などへ出入りする、やむなき理由と認められたからです。

ただし劇場など公共の場での男装は相変わらず不可、また許可証は半年という期限付きなので、死ぬまで何度も更新し直さなければなりませんでした。

短髪、青いスモック、ビロードのズボンが、ボヌールのお気に入りのスタイルとなりました。

小柄だったので若い頃は少年のように見えたといわれています。

荒くれ者の多かった職場の労働者らは、最初こそ彼女をからかったり嫌がらせをしたようですが、次第にスケッチの見事さに感銘を受ける者も出てきて、仕事ははかどっていきました。

人気画家に

ローザ・ボヌール《馬市》1852-1855年

『馬市」は完成までに1年半かかりました。

この大作で彼女は国際的な名声を獲得し、各国を巡り、イギリス女王ヴィクトリアなど多くの人物に紹介されました。

特にイギリスとアメリカで人気を博し、注文が殺到して富裕層の仲間入りもしました。

動物王国を作る

ローザ・ボヌール《ハイランドレイド》1860年

38歳の時、フォンテーヌブローの禁猟区域の一角にある城付きの土地を購入し、アトリエを構え、多くの動物を飼育し、その姿を描きました。

ローザ・ボヌール《キングウォッチ》1887年

そこには、犬、猫、イタチ、リス、ウミガメ、トカゲ、カワウソなど小さな生き物から、各種の馬、ヤク、サル、カモシカ、イノシシ、鹿、 ヤギ、牛、羊など大きなもの、そしてライオンなどの野獣までいました。

スキャンダルにはならなかった

ローザ・ボヌール《仔牛たち》1879年

次第にほとんどの時間を男装で通すようになり、酒を飲み、煙草を吸い、時に男の女装と間違えられ、ナタリーと同棲し続けましたが、奇妙なことに、スキャンダルにはなりませんでした。

動物画家であり、動物たちとの特殊な暮らしも知れ渡っていたので、「男装は仕事上必要に迫られてのもので、 レズビアンのようなよくわからない性癖のためではない」と世間は納得していたようです。

ローザ・ボヌール《休憩中の鹿》1867年

それでも「フォンテーヌブローのディアナ」というあだ名は付けられていたそう。

月と狩猟の女神ディアナは、処女神にして男嫌いで、周りには女性しか侍らせなかったことで知られています。

生前から評価されていた

ローザ・ボヌール《狩りの中継》1887年

美術界は画家も購入者も批評家もほとんどが男性という男社会だったことを考えると、ボヌールは例外中の例外でした。

彼女は生前から評価されていました。

皇后直々に授与

オーギュスト・ビクター・デロイ、フレデリック・リックス《ローザ・ボヌールのアトリエを訪れた皇后ウジェニー》1863年

43歳のとき、レジオンドヌール勲章のシュヴァリエを授与されました。

この時、ナポレオン3世妃ウジェニーがわざわざボヌールの城までやって来て、手ずから勲章を渡しながら、「才能に男女差はありません」と言ったそうで、彼女がどれだけ嬉しかったことか…。

ローザ・ボヌール《海辺の羊》1865年

上の絵は、ウジェニーが依頼した絵です。

しかしこの数年後には普仏戦争が勃発し、ナポレオン3世はプロイセンの捕虜となり、ウジェニーは亡命して二度とフランスの土地は踏めなくなりました。

女性初の栄誉

72歳のとき、女性で初めてレジオンドヌール勲章のオフィシィエを授与されました。

この時には、当時のカルノー大統領が訪れて、ウジェニーと同じく直々にボメールに叙勲しました。

ボヌールはこれを、フランス女性が解放される第一歩と言って喜んでいます。

ところがその2カ月後、カルノー大統領はイタリアのアナーキストに刺されて殺されてしまいました

推しへの熱い想い

ローザ・ボヌール《バッファロー・ビルの肖像》1889年

67歳のとき、アメリカから有名なバッファロー・ビル一座が渡仏して、「ワイルド・ウェスト・ショー」の興行を打ちました。

つい2年前にはイギリスでヴィクトリア女王臨席のもとに行われ、大評判になっていたから、ボヌールもわくわくしながら見に行きました。

伝説のガンマン、バッファロー・ビルは、自身の体験をもとにした駅馬車強盗の寸劇を始めとして、ロデオや早撃ち、インディアン・ショーを組み合わせ、さらに本物のバッファローやロングホーン牛なども登場させるスペクタクルで喝采を浴びました。

感激したボヌールは早速ビルを城へ招待し、2頭の馬を進呈したばかりか、小型の肖像画まで制作してプレゼントしています。

白馬をゆっくり進めながら視線を遠くへ向ける壮年のビルは、ボヌールの憧れる西部の男そのものでした。

彼女のファン気質が可愛らしくも微笑ましいエピソードです。

2度目の恋

アンナ・クランプク《ローザ・ボヌールの肖像》1898年

功成り名を遂げたボヌールは、ナタリー亡き後、アメリカ人の肖像画家アンナ・クランプクと同居し、ボヌールがなくなるまでの10年間を共に暮らしました。

77歳のとき、亡くなりました。

まとめ

ボヌールは、困難な時代に自分で道を開き、動物画家として大成功した画家