マルタンを超解説!幻想的な新印象派の画家

こんにちは!

今回は、マルタンについてです。

早速見ていきましょう!

アンリ・マルタン(1860-1943年)

アンリ・マルタン《自画像》1912年頃

アンリ・マルタンは、フランスの画家です。

明るい陽光のもと風景や人物像を象徴主義的な雰囲気で描き、大画面の装飾画も得意で、多くの公共建築の壁画を手がけました。

画家の道へ

フランスのトゥールーズで生まれました。

家具職人の父親をなんとか説得し、画家の道へ進みました。

17歳のとき、トゥールーズの国立高等美術学校で、ドラクロワの弟子のジュール・ガリピュイから学びました。

19歳のとき、故郷の奨学金を得てパリに出て、ジャン=ポール・ローランスから学びました。

息子も画家に

アンリ・マルタン《詩人》1881年

21歳のとき、パリの美術学校で知り合ったマリー=シャルロットと結婚しました。

2人の息子、クロード=ルネ・マルタンとジャックは後に画家になりました。

後輩の画学生、アンリ・ドゥーセを指導しました。

イタリア旅行

アンリ・マルタン《夕暮れ時のミューズ》1895年

24歳のとき、パリのサロンで初めてメダルを受賞しました。

25歳のとき、メダル受賞の特典として、エドモン=フランソワ・アマン=ジャンやエルネスト・ローランと共にイタリアに留学し、ジョットやマザッチョなど巨匠の作品から学びました。

イタリア留学の後、マルタンのスタイルはアカデミック絵画のスタイルから、友人のアマン=ジャンやローランを通してスーラの新印象主義の技法を取り入れるようになり、そしてより象徴的なスタイルに変わっていきました。

26歳のとき、初の展覧会を開催しました。

アンリ・マルタン《悪徳と美徳の間の男》1892年頃

32歳のとき、アマン=ジャンらとジョゼファン・ペラダンの主宰する「薔薇十字サロン展」に参加しました。

その後、象徴的な題材から離れていきました。

公共建築の壁画

アンリ・マルタン《トゥールーズ市役所のアンリ・マルタンホールの装飾画「夏」》1903年

多くの公共建築物の装飾絵画を描きました。

アンリ・マルタン《トゥールーズ市役所のアンリ・マルタンホールの装飾画「ガロンヌ川のほとり、歩行者または夢想家」》1906年

上の壁画には、マルタンの家族と友人が描かれています。

評価

アンリ・マルタン《静けさ》1899年

新印象派の画家としてのマルタンの作品は、画期的なものとは見なされていませんでしたが、かなり好評でした。

36歳でレジオンドヌール勲章のシュヴァリエを、45歳でオフィシエを、そして54歳のときコマンドゥールを受勲しました(どんどん等級が上がっていったということ)。

アンリ・マルタン《美しさ》1900年

40歳のとき、パリ万博で大賞を受賞しました。

アンリ・マルタン《庭で》1900年

彼は、彫刻家のロダンとも仲が良かったそう。

アンリ・マルタン《野を歩く少女》1900年

57歳のとき、アカデミーの絵画部門の名誉会員に選出されました。

アンリ・マルタン《縫い物をする女性》1913年

晩年

アンリ・マルタン《画家の家の庭》1902年

晩年、フランス南部の小さな町ラバスティド・デュ・ヴェールに移り住みました。

アンリ・マルタン《太陽の下の庭》

町が見渡せる小高い丘に大きな邸宅を構え、美しい花々が咲き香る自宅の庭園や、そこから望む自然の美しい風景を描きました。

アンリ・マルタン《画家のアトリエからの眺め》1902年

そして、83歳のとき亡くなりました。

まとめ

・マルタンは、印象派風の絵を象徴主義的な雰囲気のなかに描いた画家