モネの制作旅行 ルノワールとの旅(モネの生涯18)

こんにちは!

今回は、モネの制作旅行についてです。

早速見ていきましょう!

モネの制作旅行

前回のおさらい

モネはいつも金銭面でお世話になっていた画商デュラン=リュエルを助けるため、第7回印象派展に参加しました。

モネがデュラン=リュエルを助ける?第7回印象派展とエトルタ(モネの生涯17)

2022.08.25

終の住処ジヴェルニーへ

クロード・モネ《ポール=ヴィレの風景》1883年

モネ43歳のとき、再びデュラン=リュエルに引っ越し資金を出してもらい、モネとアリスと子供たちは人口300人ほとの小さな村だったジヴェルニーに移りました。

セーヌ川と支流のエプト川の合流地点に位置する、パリから3キロメートルほど西にあるジヴェルニーはモネの終の住処となりました。

デュラン=リュエルは、ロンドン・ボンド・ストリートのダウデスウェル画廊でモネを含む印象派の展覧会を開きましたが、ロンドンの批評家の多くは無関心だったため、モネは落胆しました。

この年、貧乏時代のモネを支えてくれたマネが亡くなりました。

ルノワールとの制作旅行

クロード・モネ《イタリア、ボルディゲラ》1884年

モネは40代、エトルタなどヨーロッパ各地を頻繁に旅行して制作しました。

モネにとって着想源を得るための旅行は大事な仕事の一部でした。

そして、同じ場所で天気や時間などの違った状況の下で描き、後の連作群の予兆のような作品を制作し始めました。

12月、ルノワールと地中海沿岸を巡り、マルセイユからサン=ラファエル、モンテカルロを経由して、リグーリア海岸(リヴィエラ)のボルディゲラを訪れ、帰りにエスタックにいるセザンヌを訪ねました。

やっぱり1人で…

クロード・モネ《マントン近郊のマルタン岬》1884年

いったんパリに戻ったあと、44歳のとき、再び1人で地中海沿岸へ旅行に出かけました。

上の絵は、もっとも美しい場所と感じたイタリアのボルディゲラを1人で再訪したときに制作した作品です。

モネは、1人での再訪を決めた理由について、デュラン=リュエルに「ルノワールとの楽しい旅は、なかなか素晴らしかったのですが、制作するには落ち着きませんでした」と述べています。

この言葉から、以前のように共同制作から成果を得ることが難しくなったことがわかります。

さらに、当時、ルノワールは印象主義を離れ、明確な輪郭線の絵に回帰していました。

クロード・モネ《ボルディゲラの別荘》1884年

モネは、ボルディゲラから、デュラン=リュエルに「あらゆる物が玉虫色にきらめき、パンチ酒のような赤色の炎を上げている。素晴らしい風景だ」と感嘆する手紙を送っています。

ボルディゲラとマントン滞在中に約50点を制作しました。

クロード・モネ《ボルディゲラの別荘》1884年

この作品はひとつ上の作品をもとにジヴェルニーのアトリエで描いたもので、こちらの方がサイズが大きいです。

違う画商とも

45歳のとき、ジョルジュ・プティ画廊で開かれた第4回国際絵画彫刻展に風景画を10点出品しました。

クロード・モネ《マンヌポルト(エトルタ)》1883年

9月から12月までエトルタに滞在し、上の絵を制作しました。

クロード・モネ《エトルタの海岸(浜辺とポルト・ダモン)》1883年

このころモネは、デュラン=リュエルと、その競争相手ジョルジュ・プティの2人と取引をするようになっていました。

苦境の中で印象派を支えてきたデュラン=リュエルは国際絵画彫刻展への出品に猛烈に抗議しましたが、モネは複数の画商と関係を築くことによって大衆からの信用も得られるものと考え、ルノワールたちもこれにならいました。

次回は、モネの絵がアメリカで大人気に?!?!

続きはこちら↓

モネの絵がアメリカで人気になったきっかけとは?(モネの生涯19)

2022.08.27

モネの生涯をノンストップ解説↓

モネの生涯を超解説!うつろう光を色彩で表現した画家の戦いとは?

2020.06.05