モネが描いた妻カミーユとその儚い人生について超解説!

こんにちは!

今回は、モネが描いた、幸薄すぎる妻カミーユの絵と生涯についてです。

早速見ていきましょう!

最初の妻カミーユ

フランスの商人の家に生まれたカミーユは、読み書きが充分ではなかったものの、その美貌を生かし、10代半ばから絵画モデルとして仕事を始め、パリで人気を得ました。

身分違いの恋

18歳のとき、7歳年上のモネと出会い、数多くの絵画のモデルを務めていく内にに落ち、同棲しました。

この頃のモネは、まだ売れていないので、2人は貧乏暮らしでした。

モネの父親叔母は2人の関係に猛反対し、モネは資金援助を断たれてしまします。

なぜなら、モネの家は中産階級、カミーユの家は労働者階級身分違いの恋だったからです。(当時、モデルは娼婦同然と思われていた)

《バジールとカミーユ》1865年

《カミーユと小型犬》1866年

《緑衣の女》1866年

《庭の女性》1866年頃

カミーユが全員分のポーズをとったといわれている作品です。

この絵は、3×2メートルあり、戸外で描くにしてはあまりに大きいキャンバスでした。

そこでモネは、穴を掘ってキャンバスを降ろし、滑車で吊るして上下させることで、視点を変えることなく縦長のキャンバスに絵を描けるようにしました。

偽装工作

カミーユが長男ジャンを妊娠したとき、モネはカミーユとは関係がないように見せかけて、家族から再び資金援助してもらうため、彼女を無一文のままパリに残しました。

モネは、田舎の叔母の家に留まることで、家族から毎月小切手を受け取りました。

1人残されたカミーユはどうしたのかというと、モネの裕福な友人バジールが経済援助をしてくれたおかげで、なんとか生活できていたそう…。

モネの自殺未遂

21歳のとき、カミーユからしてみれば、出会った時から貧乏で、貧困の中妊娠して、「ツラいのはこっちだよ!!!」と言いたいところですが、経済的苦境で、なんとモネの方がセーヌ川に身を投じ、自殺を図ります。

これは失敗に終わり、生き延びます。

《セーヌ川、ベヌクール》1868年

《夕食》1869年

《インテリア、夕食後》1868‐1869年

続く貧困生活

《昼食》1868‐1869年

座っているのがカミーユと息子のジャンです。

モネはジャンを溺愛し、度々絵に描きました。

上の絵を1869年のサロンに出品しますが、落選します。

この頃のモネは、本当にお金がなく、電気暖房もない生活をしていました。

《ボート》1869年

反対されつつ結婚

《トルヴィルの浜辺で座っているカミーユ》1870年

1870年、モネとカミーユは結婚しました。カミーユは23歳、息子ジャンは3歳になっていました。

画家クールベが証人となり、モネの父親は結婚を認めなかったので欠席、カミーユの両親は出席しました。

《トルヴィルの浜辺》1870年

モネとカミーユと息子のジャンは、新婚旅行トルヴィルへ行きます。

モネがそこで描いた作品が、上の2枚です。

白い衣装がカミーユ、黒い衣装は画家ブーダンの妻です。

モネとブーダンは一緒に絵を描きました。

強風の中制作したため、絵具の表面に、海岸の砂や、貝殻の破片が付着していることがわかっています。

《瞑想、ソファの上のモネ夫人》1871年頃

《春》1872年

《太陽の下、ライラック》1872‐1873年

《ライラック、灰色の天気》1872‐1873年

《赤いハンカチ》1868‐1873年

《庭のベンチに座るカミーユ》1873年

《ひなげし》1873年

《アルジャントゥイユの画家の家》1873年

新居の庭でフラフープで遊ぶジャンと、そっと見守るカミーユが描かれています。

《アルジャントゥイユの牧草地を歩く》1873年

マネの紹介で、パリ郊外のアルジャントゥイユに新居を構えたモネは、画商のデュラン=リュエルの定期的な作品購入にも支えられ、つかの間の平穏な時期を家族と共に過ごしました。

《窓際のカミーユモネ、アルジャントゥイユ》1873年

《アルジャントゥイユの庭にいるカミーユとジャン・モネ》1873年

《ジャンと庭にいるカミーユ》1873年

《夏》1874年

カミーユとジャンが描かれています。

《ベンチに座っている女性》1874年

《マダム・モネの刺繍》1875年

クロード・モネ《散歩、日傘をさす女性》1875年

カミーユと、長男のジャンが描かれています。

工場生産されるようになった日傘は、軽量化が進み、大流行していました。

《花の中の2人の女性》1875年

《庭のモネ一家》1875年

《アルジャントゥイユのモネの庭にいるカミーユと子供》1875年

モネの不倫

《牧草地で》1876年

カミーユが29歳くらいのときには、モネとアリス(モネのパトロンの妻)が親密な関係になっていました。つらい。

なんでパトロンの妻横取りしてるの?って話はこちら↓

《丸みを帯びた花壇》1876年

《アルジャントゥイユの庭園にいるカミーユ・モネ》1876年

《庭にいる女性》1876年

《牧草地で》1876年

ジャポニズム

《ラ・ジャポネーズ》1876年

1860年代以降、フランスは日本ブームで、和服を着たヨーロッパの女性の絵の人気がありました。

金髪のかつらのカミーユが、着物風の服を着て描かれています。

この絵は、第2回印象派展で好評で、2000フランで売れていますが、経済的困窮は解消されたわけではありませんでした。

《スミレの花を持つカミーユの肖像》1877年

30歳頃から、カミーユの体調はどんどん悪化していきました。

モネは相変わらず借金に追われ、悲惨な状況に…。

《庭、、ホリーホックス》1877年

31歳のとき、次男のミシェル出産後、カミーユの健康状態はさらに悪化しました。

不倫相手の家族と一緒に住む

モネは、破産したパトロンエルネスト・オシュデとその家族、つまり不倫してるアリスと同居しました。(エルネストは数年後に病死)

アリスは病気のカミーユを看護しながら、カミーユの子供の面倒も見ました。

カミーユからしたらアリスが最大のストレスだろうに…。

モネが絵画の販売で得たお金の多くは、カミーユの医療費に使われていました。

なのでこの大家族は、暖房どころか、食べるものすらない生活を強いられていました。

そのときのカミーユの気持ち考えるとツラいな…。

モネの残酷な面が一番出ている作品

《死の床のカミーユ》1879年

1879年、32歳という若さで、カミーユはこの世を去りました。

死因については、結核、子宮癌など、諸説あります。

この絵、モネの狂気が一番出ている絵です。

なぜなら、カミーユが死んで悲しいとか、愛しいカミーユの最後の姿を描き留めておきたいとか、そういう気持ちで描いたわけではないからです。

モネは、死にゆくカミーユの色の変化に強い興味を持ち、刻々と変わっていく肌の色に魅せられて、どうしても描かずにはいられませんでした。

最期のカミーユを見る画家の目は、冷静でした。

後年、モネはこの時のことを友人クレマンソーへの手紙に「永久に別れることになる人の最後のイメージを残しておきたいと思うのは、ごく自然なことでしょう。しかしながら、深い愛着を覚えていた顔立ちを描きとめようという考えが浮かぶ前に、まず色彩のショックに対して体が自ずとざわめき始めました。そして私の意思に反して、自分でも無意識のうちに描いていた。描かずにはいられなかった。」と書いています。

モネはこの絵だけは、生涯手放すことなく、手元に置いていました。

この絵以降、モネが人物の顔を描くことはなく、2度目の妻となったアリスの肖像画を残すこともありませんでした。

人物を描いた作品自体も少なくなりました。

カミーユは、モネが大成功する手前で亡くなってしまったため、貧乏な生活しか知らないまま亡くなりました。

カミーユの大切なペンダントすら質草となり、モネが友人に「どうしても亡き妻の首にかけてやりたいので出してほしい」と頼む手紙が残っています。

でもそんなカミーユにアリスは嫉妬していたといわれています。(亡くなった者には敵わない)

モネも豊かな生活を手に入れたからこそ、苦しい時代だけを一緒に生きたカミーユが忘れられなかったのでしょう。

番外編 マネとルノワールが描いたカミーユ

エドゥアール・マネ《ボート》1874年

マネは時々、貧困のモネに対して財産支援していました。

この絵では、モネとカミーユを描いています。

結婚して郊外に家を構えたモネ、そこを訪れた 独身の友人ルノワール、そして近所に住む裕福な彼らの先輩のマネが、お互いのカメラで撮り合ったアルバムのようでした。

エドゥアール・マネ《アルジャントゥイユの庭にいるモネ家》1874年

ピエール=オーギュスト・ルノワール《モネ夫人と息子》1874年

モネの1番の画家友達はルノワールです。

ピエール=オーギュスト・ルノワール《読書するカミーユ》1872-1874年頃