踊り子の画家ドガは超気難しい性格?その生涯を解説!

こんにちは!

今回は、踊り子の画家ドガについて解説します。

早速見ていきましょう!

エドガー・ドガ(1834-1917年)

エドガー・ドガ《自画像》1855年

エドガー・ドガは、フランスの印象派の画家です。

ブルジョワ

フランス、パリのサン・ジョルジョ街で、銀行家の父親と、ニュー・オリンズの裕福な実業家の娘だった母親との間に、長男として生まれます。(5人兄弟でした)

ちなみに「ドガ」が名字で、貴族を連想させる名字でもありました。

ドガ家もブルジョワですが、ドガが生まれたときには、そこまで裕福ではなかったようです。(とは言っても一般家庭なんかより裕福ですが。)

父親は芸術愛好家だったので、家にはコレクターや音楽家が出入りし、芸術に囲まれて育ちました。

13歳のとき、母親が亡くなっています。

アングル大尊敬

両親は法律家になって欲しいと考えていていましたが、パリ大学の法律学科を中退して、21歳のとき、エコール・デ・ボザールに入学します。

そこで巨匠アングルの弟子ルイ・ラモートに師事します。

22歳から3年間(両親のお金で)イタリアへ行き、ミケランジェロなどのルネサンスの巨匠の作品を模写して、敬愛するアングルからもらったアドバイス通り「線」を勉強します。

印象派の画家にしては珍しく、きちんとした古典的な絵画技法を学んでいた画家でした。

何年も後になって完成

《ベレッリ家の肖像》1858-1867年

ドガの叔父と叔母とその子供たちを描いた作品です。

パッと描いてサロンに出品するはずが、完成したのは9年後でした。(笑)

馬好き

エドガー・ドガ 《競馬場、1台の馬車とアマチュア騎手たち》1876-1887年

27歳のとき、ノルマンディーに住んでいる幼なじみのポール・ヴァルピンコンの元へ行き、にハマります。

競馬場の楽しさではなく、馬の動きの美しさに惚れたドガは、馬の絵を多数描いています。

マネとの出会い

エドガー・ドガ《マネとマネ夫人》1868-1869年

28歳のとき、ルーヴル美術館でベラスケスの絵を模写していたところ、マネと出会い、仲良くなります。

マネとのエピソードについてはこちら↓

サロンに毎回入選

《中世の戦争のシーン》1863-1865年

31歳のときから、5年間毎年サロンに作品を出品し、落選ばかりのマネとは対照的に毎回入選しています。

上の作品は、1865年、初めてサロンに出品し入選した作品です。

サロンが好む「歴史画」を描いたにも関わらず、ほとんど注目されることはなく、それにムカついたのか、以降歴史画を出品することはありませんでした。

その後、ドガの興味は、バレエや競馬場、サーカスなど、都市生活を象徴するような場所へと移ります。

33歳のとき、パリ万博が開催され、そこで北斎の絵を見ます。

ドガの絵は、主役を中央から外して、左右非対称的に描いたりと、浮世絵の影響を受けています。

この頃、ドガはマネに誘われて、カフェ・ゲルボワに行き、常連に。

そこでは将来印象派と呼ばれるモネなどの画家たちと出会います。

右目の異変

36歳のとき、普仏戦争が勃発し、国民衛兵として従軍した際、ライフル訓練中に目が悪いことが判明しました。(あるいは寒さで右目を悪くしたともいわれています)

網膜の病気で、人よりも光に敏感になり、まぶしさを強く感じるようになります。

バレエシリーズ

《オペラ座のオーケストラ》1870年

戦後、バレエシリーズを描き始めます。

ドガの作品の半分以上がバレエに関するものだったりします。

彼は、ステージ上での踊り子よりも、舞台裏やリハーサルなど、踊り子たちの裏側をよく描いています。

《エトワール》1876年

当時のバレリーナは、娼婦的な側面が強く、露出度の高い衣装を着て踊り、お金持ちのパトロンを探すことが目的でした。

なので必然的に身分の低い少女たちが多かったそう。

現在のように芸術性を高く評価され、お金持ちの子が習うイメージとは違います。

アメリカ時代

《ニューオーリンズの綿花取引所》1873年

38歳のとき、弟のいるニュー・オリンズへ行き、クレオールの叔父の家に居候します。

そのときに描いた上の作品が、初めて美術館買い上げとなります。

これが生涯唯一美術館が購入してくれた作品でもありました。

貧乏に

40歳のとき、父親が不振の事業を残し亡くなります。

さらに、弟のルネが膨大な事業債務を積み上げていたことが明らかになりました。

ドガは家を守るため、美術コレクションを売却し、借金を返済します。

このとき初めて、生活のために自分の絵を売る必要にかられ、後の10年間でたくさん絵を描きました。

印象派ではない

第1回印象派展が開催され、10点以上出品し、第7回を除く、全ての回で出品しています。

というのも、ドガは、印象派展を企画するリーダーでした。

しかし、ドガ自身は「印象派ではなく、自分は写実主義だ」と主張していることからもわかるように、他の印象派の画家たちとよくケンカし、自分が印象派だと呼ばれることを非常に嫌いました。(現在印象派の画家として有名ですが。笑)

屋外で絵を制作したモネやルノワールなどの印象派の画家たちとは異なり、ドガは人工的な光を好み室内のアトリエで制作し、彼らのことをバカにしていました。

とはいえ、美術コレクターだったドガは、マネやピサロなど印象派の画家の作品も多数収集しています。

プラトニックラブ?

メアリーカサット

《メアリー・カサットの肖像》1880-1884年

43歳のとき、第3回印象派展にメアリー・カサットを誘います。

カサットはアメリカ出身の画家で、ドガを師匠として慕っていました。

周りからは2人は恋人同士だと思われていましたが、奥手なドガと、自立したカサットが結婚することはなく、2人とも生涯独身のままでした。

写真への興味

ドガ撮影 マラメルとルノワール 1895年

1880年代後半、当時最新技術だった写真映写機に強い興味を持っていました。

その影響もあって、ドガの作品には、人物が画面に収まりきらないような構図の作品も多く、リアルな瞬間を切り取ったような雰囲気があります。

上の写真は、立っているのが友人で詩人のマラメル、座っているのが画家ルノワール、鏡にカメラと写っているのがドガです。

ちなみにこの時代の写真撮影では、撮りたいポーズで15分間動かずにじっとしている必要がありました。大変。

視力の低下と離れていく友人

47歳のとき、視力が低下し、油彩より絵に目を近づけて描けるパステル画や、彫刻、リトグラフの制作が増えていきます。

《浴槽》1886年

52歳のときの最後の印象派展以降、作品の発表がほとんどなくなります。

エドワード・マイブリッジ 疾走中の馬の連続写真

54歳のとき、マイブリッジの写真集「動物の運動」に影響を受けます。また馬…。

64歳のとき、ほぼ盲目となります。

プライドが高く、皮肉屋だったため、歳を取れば取るほど、ドガの元から友人たちが去って行きました。

78歳のとき、アトリエの立ち退きを強制され、絵を描くこともままならなくなります。

そして83歳で亡くなりました。

まとめ

ドガは、踊り子の画家
・印象派と呼ばれるのを嫌った