虹色のパレットで幸せを描き続けた画家ルノワールについて解説!

こんにちは!

今回は、ルノワールについて解説します。

おなじみの喫茶店「ルノアール」の名前は、画家ルノワールからきています。

早速見ていきましょう!

ピエール=オーギュスト・ルノワール(1841-1919年)

ピエール=オーギュスト・ルノワール《自画像》1876年

ピエール=オーギュスト・ルノワールは、フランスの印象派の画家です。

フランス中西部の磁器産業で栄えた町リモージュで、貧しい仕立て屋の父親と、お針子の母親の間に、7人兄弟の6番目として生まれました。(内、上の2人は早世)

他の印象派の画家たちがブルジョワ階級出身だったのに対し、ルノワールは唯一労働者階級出身でした。

そして、印象派の画家の仲間の中で、最初に人気画家になったのもルノワールでした。

美声

3歳のとき、パリの中心地であるルーヴル美術館界隈へ引っ越しました。

当時は貧しい人たちが暮らす下町でした。

19世紀のパリには、ルーヴル美術館の近くに「パリの胃袋」と呼ばれた巨大な中央市場レ・アルがありました。

当時、その地区にあるサン=トゥスタッシュ教会の聖歌隊を指導していたのがオペラ『ファウスト』の作曲者シャルル・グノーで、9歳前後でルノワールも聖歌隊に入り、グノーから声楽を学び始めました。

幼少の頃から絵を描くことが得意だったルノワールは、一方でグノーが認めるほどの美声で歌唱の才能もありました。

ルノワールの両親は、グノーから「この子をパリのオペラ座の合唱団に入れたらどうか」と提案されましたが、知人からルノワールを磁器工場の徒弟として雇いたいと言われていたため、断り、聖歌隊も辞めさせました。

絵付け

13歳のとき、磁器絵付け職人に弟子入りします。

絵画や模様を磁器に絵付けしたことや、細かい装飾や色彩についての修業が、後の画家としての彼のキャリアに役立つ ことになります。

しかし、やっと一人前になった18歳頃には、産業革命で絵付けは機械化され、大量生産されるようになり職を失います。

そこで女性の扇子や窓の日よけ装飾品に、ヴァトーブーシェなどのロココ絵画を絵付けする仕事を始めました。

古典絵画に精通していた

修業時代のルノワールは、仕事の合間に無料のデッサン学校に通い、昼休みになると昼食を抜いてまでルーヴル美術館を訪れていました。

19歳のとき、ルーヴル美術館で模写する許可を得ました。

この許可証は23歳まで毎年更新されていて、「絵画を勉強する場所は美術館だ」と語ったほど、ルノワールは過去の名画から多くを学びました。

ルノワールは、数あるルーヴル美術館の所蔵品の中でも、色彩派のルーベンスや、同じく色彩派に分類されるロココ絵画のブーシェやフラゴナールを好みました。

彼の一番のお気に入りは、プーシェの《水浴のディアナ》(1742年)でした。

大成してからのルノワールは裸婦を好んで描きましたが、晩年にな ってもルーベンスの裸婦を理想像にしており、《水浴のディアナ》は生涯にわたり彼のお気に入りの絵でした。

ロココ絵画といえば、屋外での牧歌的な娯楽を描いた雅宴画です。

修業時代にロココ絵画を磁器や扇子に絵付けしていたルノワールは、後に画家としてもロココ絵画を現代化した、雅宴画的なテーマを好んで描くようになります。

また、モネやピサロと違い、ルノワールは過去の巨匠たちの作品に対して尊敬の念があったので、ルーベンスやロココ絵画から着想した作品も描き、彼らのような明るい色彩を好みました。

しかし、モネや他の印象派の画家のようにジャポニスムに興味を持つことはありませんでした。

陽気さと神経質さ

成人してからのルノワールは、気難しくて神経質で落ち着かないところがありましたが、下町育ちらしく性格は善良で陽気、飾らない人柄であると同時に理屈っぽいことが大嫌いで、時に無遠慮でお節介になりもしましたが、他者への気遣いにも長けていました。

女性に関しても、体型がぽっちゃりとした非知識階級出身の字が書けないような女性を好みました。

慰めとなる宗教を大衆から排除しようとする社会主義にも、労働者から搾取する産業革命にも反対しました。

科学も人間に害毒になるからと反対し、教育は神を信じなくなるため大衆には害になるとさえ信じていました。

そして、慎み深さをよしとするブルジョワ階級からすれば眉をひそめるような、明け透けな会話やきわどいユーモアに満ちたジョークは、終生ルノワールの特質となります。

そうした性格のルノワールは、それまで労働者階級の人々と親しく付き合う習慣のなかった当時のブルジョワ階級の人々を、しばしば戸惑わせ憤慨させることもありましたが、同時に魔法をかけたように彼らを魅了することもありました。

モネたちとの出会い

《フォンテーヌブローの森を散歩するル=クール》1866年

20歳のとき、画家を目指すようになり、ルーヴル美術館での模写を続ける一方で、シャルル・グレールの画塾に通い始めました。

21歳のとき、エコール・デ・ボザール(官立美術学校)にも入学し、デッサンに基礎を置いた古典的な美術教育も並行して学びました。

グレールのアトリエでは、モネ 、バジール、シスレーと出会い、仲良くなりました。

4人はフォンテーヌブローの森へスケッチに出かけることもありました。

そこでバルビゾン派の画家ディアズに出会い、「なんでこんなに黒く塗りつぶしているんだい?」と言われ、それ以降、暗いところを描く場合でも黒を使わず表現するようになりました。

ディアズは、経済的に苦しいルノワールのために、画材代を支援したり、アドバイスをしました。

そんな彼のことをルノワールも尊敬していました。

サロンに入選した作品を破り捨てる

22歳のとき、初めてサロンに応募し落選しますが、翌年サロンに初入選します。

しかし、そのときの作品《エスメラルダ》(ヴィクトル・ユゴーの小説「ノート ルダム・ド・パリ」の主人公)をサロン終了後に自分で破棄してしまいます…。

《ロメーヌ・ラコー嬢》1864年

23歳のとき、磁器製造業者から、初めて9歳の娘の肖像画の依頼を受け、描いたのが上の作品です。

シスレーに助けられる

《ウィリアム・シスレーの肖像》1864年

23歳のとき、この頃一番親しかった友人シスレーの父親を描いた肖像画を含む2点がサロンに入選しました。

経済的に苦しんでいたルノワールを助けるために、裕福な商人の家庭に生まれたシスレーが像画を依頼し、買い取ったものでした。

さらにこの頃のルノワールは、シスレーのパリにあるアパートを間借りしていました。

シスレーは、ルノワールに父親の肖像画を描いてもらった頃、絵のモデルで花屋の店員をしていたマリー・レクーゼクとの交際を始めましたが、シスレーの父親が階級的に釣り合わない彼女との関係を認めませんでした。

かつての日本同様に、ブルジョワ階級の人間が、違う階級の人間と結婚することを恥と見なしていた時代でした。

しかし、労働者階級出身のルノワールは誰と付き合おうと問題はありませんでした。

恋人のリーズ

《白いショールのリーズ》1872年

24歳のとき、シスレーとともに、フォンテーヌブロー近くのマルロットに滞在しました。

ここで、画家ジュール・ル・クールと知り合い、滞在中は世話になります。

そして、ル・クールの恋人クレマンス・トレオの妹、17歳のリーズ・トレオと付き合います。

彼女は1年間ほどルノワールのモデルであり、恋人でもありました。

彼女は密かに娘ジャンヌを産んでおり、後の研究でルノワールの隠し子だと判明しています。

ルノワール31歳のとき、リーズは若い建築家と結婚します。

ルノワールは、お祝いに彼女の肖像画を送り、その後二度と会うことはありませんでした。

晩年のルノワールは、遺言状の中で小額ですが終生年金を、未亡人になったジャンヌのために定めています。

ジャンヌが生まれた頃のルノワールは、リーズと結婚したくても貧しすぎました。

そんな貧しいルノワールを経済的に助けてくれたのが、バジールでした。

ルノワールと、同じく経済的苦境に陥っていたモネのために、父親からの送金で経済的に余裕があったバジールは、ルノワール25歳のときからアトリエをルノワールとモネに開放し3人で同居を始めました。

翌年にはバティニョール地区にルノワールとともにアトリエを移し、近所のカフェ・ゲルボワにも頻繁に顔を出すようになりました。

カフェ・ゲルボワには、他にもマネ、モネ、バジール、ピサロ、セザンヌ、ラトゥールなどが集まっていました。

一方、ルノワールは1866年と67年のサロンに続けて落選してしまいました。

《狩りをするディアナ》1876

恋人リーズがモデルとなった上の作品を67年のサロンに応募しましたが、主題はサロン向けだったにもかかわらず、クールベの影響を受けたためか、 現実的で肉づきがよすぎる裸体は、女神というよりは労働者階級の娘そのままでした。

しかし、1868年のサロンは前衛的な若い画家たちに寛容だったため、リーズがモデルを務めた《日傘のリーズ》が入選し、好意的な批評を得ることができました。

伝統的に人物の顔には影を差さないことになっていたにもかかわらず、 日傘の影がリーズの顔から肩にかけて差しているところが斬新な表現でした。

1869年のサロンも、リーズがモデルを務めた《夏・習作》(1868年)が入選を果たしました。

この年の夏のルノワールは、ルーヴシエンヌに引っ越していた両親の家に滞在していたため、近所のブージヴァルのサン = ミシェル村で暮らしていたモネを毎日のように訪れていました。

この頃のルノワールにとって、共に貧しい日々を送るモネは心強い精神的な支えであり、芸術的な同志でもありました。

モネとの友情と印象派誕生

ピエール=オーギュスト・ルノワール《ラ・グルヌイエール》1869年

28歳の夏、モネと一緒に、セーヌ川の行楽池ラ・グルヌイエールへ行き、並んで絵を描きました。

この時に描いた絵こそ、印象派誕生の記念すべき作品でした。

ルノワールも決してお金に余裕があるわけではありませんでしたが、絶望的に貧しかったモネの家を訪れ、パンをあげたりしていた仲でした。

このときについての詳細はこちら↓

友人の死

《バジールの肖像》1867年

29歳のとき、普仏戦争が勃発し、召集され、ボルドー騎兵隊に入隊しましたが、赤痢にかかり、戦場に出ることなく翌年除隊となり、パリに戻り、セーヌ川左岸に部屋を借りました。

ルノワールは、発足したばかりの第三共和政に対して蜂起し、パリの民衆によって樹立された革命政府パリ・コミューンによる動乱の真っただ中にパリに帰還しました。

戦争物発前まで一緒に暮らしていたバジールは、前年11月20日に戦死していました。

上のバジールの肖像画をマネが称賛し、ルノワールはマネにこの絵をプレゼントしています。

 バリの下町で育ったルノワールには、パリ・コミューンの参加者に多くの友人がいました。

しかし、政治的な運動に興味がなかったうえに思慮深かったルノワールは、パリ・コミューン側にも第三共和政側にもつきませんででした。

そんなパリ・コミューンの動乱のさなか、セーヌ河岸で制作中だったルノワールは、 第三共和政政府に雇われたスパイとして見取り図を描こうとしていたと勘違いされてしまい、パリ・コミューンの兵士に逮捕されてしまいました。

連行される途中、幸運にも知り合いだったパリ警視総監ラウル・リゴーが通りかかったおかげ で身元が判明し、無事に釈放されました。

テュイルリー宮殿への放火を命じたリゴーはパリ・コミューンの指導者の1人として、同年5月24日に裁判もなしに第三共和政政府ヴェルサイユ正規軍によって銃殺されました。

それも、リゴーに間違えられた男が銃殺されそうになっていたときに、名誉を重んじる気高い精神を持つリゴー自らが 駆けつけて名乗り出ました。

そして、「パリ・コミューン、 万歳!」と叫んでパリの街角で果てました。

もし、リゴーが通りかからなかったら、ルノワールも間違いなくこの恩人と同じ運命を辿っていました。

しかし、幸運なルノワールは、リゴーに通行許可証を出してもらったおかげで、パリ・コミューンの時期にも防衛線を越えてルーヴシエンスの両観の元へ自由に行き来することができました。

サロンへのこだわり

《ブーローニュの森の朝の乗馬》1873年

ルノワールはあくまでもサロンでの成功にこだわり、何度も応募し、入選、落選、入選、落選…を繰り返していました。

当時のサロンは、一般大衆にとって作品の評価を保証する存在で、経済的に苦しかったルノワールにとって、サロンに入選して、作品が売れることが何よりも大切でした。

サロンは、第三共和政になってから保守性を増し審査が厳しくなったためか、1872年も73年も続けて落選しました。

1873年には10年ぶりに落選者展が開かれ、ルノワールは出品を決意しました。

ドガの友人の実業家で画家だったアンリ・ルアールが、ルノワールが落選者展に出品した上の作品を購入してくれました。

さらにドガが、日本美術の収集家でもある裕福な批評家テオドール・デュレに《日傘のリーズ》を強く勧めてくれたおかげで、デュレが1200フランで購入してくれました。

当時の階級社会だったフランスにおいて、労働者階級出身のルノワールと上層ブルジョワ階級出身のドガとは、古典美術に対する敬意の持ち主である以外に接点がないように見えます。

そして、理屈っぽいことが嫌いだったルノワールに対して、論理的で皮肉屋だったドガ、2人は何度も喧嘩や絶交をしながらも親しい間柄になりました。

モネのところで絵を描く

ピエール=オーギュスト・ルノワール《モネ夫人と息子》1874年

戦争中ロンドンへ避難していたモネがパリに戻り、アルジャントゥイユに住みます。

ルノワールは、モネの家をしばしば訪れていました。

モネの元へ、ルノワールだけでなく、ピサロやマネ、シスレーがよく遊びに来ていました。

画商デュラン=リュエルは風景画を投機対象にしていたため、人物画と肖像画が得意なルノワールの作品を本格的に購入し始めるのはルノワールが40歳になってからのことでしたが、ルノワール31歳のとき、初めてルノワールの作品2点(静物画と風景画)を購入しています。

この頃はモネ同様に、少しずつルノワールの愛好家が増え始め、モネがアトリエ船を購入したように、ルノワールも32歳の秋にはパリ9区のサン=ジョルジュ街に新たに広いアトリエ兼住居を借りることができました。

ドガのアトリエにも近い場所でした。

そして、このルノワールのアトリエに芸術家の仲間たちが集まり、会合が開かれ、「画家、彫刻家、版画家などの合資会社」が結成されました。

第1回印象派展 7点出品

《踊り子》1874年

1874年、33歳のとき、第1回印象派展に7点出品します。

ルノワールが展覧会の構成を考え、ルノワールのアトリエで一緒に暮らしていた弟のエドモン=ヴィクトールが、兄の作品のモデルを務めただけでなく、ジャーナリスト志望だったので展覧会のカタログを編集しました。

第1回のグループ展に、上の絵や《桟敷席》(1874年)のように人物を描いた風俗画を5点と、風景画と静物画をそれぞれ1点だけ出品したルノワールは、モネのようには酷評されませんでした。

当時は風景画よりも人物画のほうがジャンルとして格上だっただけでなく、作品の持つ物語性が評価される時代だったためです。

つまり、「どのように描くのか」という造形性ではなく、「何を描くのか」という主題性が重視されていました。

たとえば、このグループ展に出品した3点の絵の関係性を考えてみるとわかります。

バレリーナの少女を描いた《踊り子》、堅気の女性にしてはけばけばしい格好をしているため高級娼婦と思われる女性と、弟のエドモン=ヴィクトールがモデルを務めた男性が描かれた《桟橋席》、そして、当時はまだオデオン座の端役女優だったアンリエット・アンリオがモデルを務めた《青衣の女(パリの女)》(1874年)。

パリに出てきたある女の一生(貧しい踊り子から高級娼婦へ、そしてパトロンを捕まえて良い生活を手に入れる…けれどもこの後どうなるかわからない)といった、当時の「フランス社会の陰」を象徴するような物語を感じ取ることができました。

第1回グループ展の翌年にはルノワールが中心となりモネ、シスレー、モリゾの4人の作品の競売会が開かれました。

当時としては珍しい画家たちによるものでした。

販売の結果は芳しくありませんでしが、このときにルノワールの作品を3点購入したのが、ゾラなどの小説を出版していた出版業者のジョルジュ・シャルパンティエでした。

以後、ジョルジュとマルグリットのシャルパンティエ夫妻は、パトロンとして、ルノワールを画家として商業的成功に導いていくことになります。

34歳のとき、シャルパンティエ夫妻や税務官吏ヴィクトール・ショケなど徐々に順客が増え始めていたこともあり、ルノワールはサン=ジョルジュ街のアトリエを継持したままで、パリ8区のモンマルトルの丘に庭付きの小さな一軒家をアトリエとして借りることができました。

現在のモンマルトルで庭付きの家など考えられませんが、まだこの頃のモンマルトルは、農村風景が残るパリ市の近郊でした。

ワインを造るためのブドウ畑が住宅化されつつある時代でした。

現在、歓楽街で知られるモンマルトルですが、もともとお酒に縁のある土地でした。

ナポレオン3世とオスマン男爵によるパリ市内の近代都市化は、家賃の安いパリ近郊への人口流出を促し、その波がモンマルトルの農村風景も変えていきました。

第2回印象派展 18点出品

《習作(陽光の中の裸婦)》1876年

1876年、35歳のとき、第2回印象派展に向けて熱心に働き、1875年のサロンに落選していたカイユボットをグループ展に誘いました。

モネやルノワールは、資産家だったカイユボットから資金援助も受けています。

デュラン=リュエル画廊を会場にして開かれた第2回のグループ展に、ルノワールは上の作品を出品し、保守的な批評家からは、女性の胴体が腐敗した死体みたいだと酷評されました。

戸外における人物像を裸婦で描き、光の影を「紫色がかった緑色の斑点」として表した箇所が腐敗した死体のように映っりました。

この展覧会には、亡き親友バジールの父親も観にやってきました。

そこで彼が目にしたのは、ルノワールがバジールのアトリエで暮らしていた時に描いた亡き息子の肖像でした。

マネが購入していたものを、ルノワールが借りて出品していました。

バジールに対するオマージュであり、友情の証しでした。

情に厚かったルノワールらしい行動です。

そしてバジールの父親のために動いたのが、ファンタン = ラトゥールの《バティニョール街のアトリエ》の中で、バジール、モネ、ルノワール、そしてゾラとともにマネを囲んで描かれているエドモン・メートルでした。

バジールの親友だったメートルは、バジール同様に上層ブルジョワ階級出身の音楽評論家でした。

メートルは、経済的に困窮していたモネを救済するためにバジールが購入していた《庭の女たち》と、マネが所有していたルノワールの《フレデリック・バジールの肖像》とを交換するよう働きました。

こうして愛しい息子の肖像を、バジールの父親は譲り受けることができました。

第3回印象派展 21点出品

《ムーラン ・ド・ラ・ギャレットの舞踏会》1876年

1877年、36歳のとき、3回目のグループ展からは、印象主義の画家ではないドガの反対を押し切り「印象派の画家たちの展覧会」という名称になりました。

ルノワールは、この展覧会開催の準備に尽力し、カイユボットも資金を出して会場を手配しました。

そして、ルノワールが出品した大作である上の絵は、展覧会で一番の話題作で、カイユボットが購入しました。

しかし全体的に見れば、3回目のグループ展も経済的な成功からは程遠いものでした。

それゆえ、ルノワールはシャルバンティエ夫妻の強い勧めで翌年からサロンに復帰することにしました。

風景画も描いたルノワールでしたが、ジャンルとしては人物画の画家でした。

ルノワールを流行画家に押し上げたのも肖像画でした。

しかし一方で、伝統的に肖像画のほうが風景画や静物画よりも格が高いにもかかわらず、画家の間では肖像画家を「似顔絵描き」と見下す傾向もありました。

しかし、パリの下町で育ち、少年時代から働いてきたルノワールは、ブルジョワ階級出身の仲間たちと違って貧困の現実を誰よりも知っており、誰よりも貧しさを恐れていました。

その出自から、彼は人一倍社会的向上心が強く、顧客獲得も他の印象派の画家たちの誰よりもうまく、誰よりもハングリー精神がありました。

1878年からサロンに復帰し、1879年のサロンにも出品したため、1879年の第4回のグループ展には出品していません。

グループ展に出品する画家はサロンに応募してはならないという前提があったためだけでなく、ルノワール自身も前衛的と見なされた印象派と距離をおいて、再び社会に対して絶対的な権威を誇っていたサロンでの成功を目指しました。

上流階級からの注文

《シャルパンティエ夫人とその子どもたち》1878年

37歳のとき、1879年のサロンで、パトロンのシャルパンティエ夫人と2人の子供を描いた上の絵を出品しました。

この絵はサロンに入選し、シャルパンティエ夫人の知名度の高さから目立つ場所に展示され、称賛を受けました。

この作品が画期的だったのは、伝統的な上流階級の肖像画と違い、わざとらしい道真立てや演出がなく、普段どおりの生活の一部を切り取ったように描かれていたことでした。

ただし、世俗的なブルジョワ心理が満足されるよう、顧客が描いてもらいたいディテールはしっかりと、しかも大事なこととして、あくまでもさり気なく描き込まれていました。

たとえば、すだれなど流行の日本趣味で設えられた自慢の部屋の内装、流行のファッションと宝石、高価な愛大、そして実物以上に可愛らしく描かれた子供たちなどに、顧客を満足させるよう培われたルノワールの職人気質が表れています。

ルノワールの作品は現代感覚にあふれており、芸術家的創造性よりも、顧客満足度を重視していました。

王侯貴族の肖像画は様々な演出が施されていましたが、ブルジョワ階級がそれを真似するとどうしても俗物的になりがちでした。

旧体制時代、ヴェルサイユ宮殿で国王が自分の生活を宮廷人や見学人に公開したり、美術コレクションを民衆にも公開しようとしたことには、政治的もしくは啓蒙的な目的がありました。

しかし、ブルジョワ階級のそれには意味がなく、ただ「ブルジョワ的」な俗物的な自己満足だけです。

ピアノに向かうプルジョワの令嬢しかり、貴族的なイメージを与える狩猟姿の御曹司しかり、ルノワールの肖像画や人物画はブルジョワの虚栄心を満足させる魅力に満ちていました。

人物を愛らしく描くことや、衣装を美しく描く技巧に長けていたのは、少年時代の職人修業の賜物です。

こうしてルノワールは、社会に台頭してきた新興ブルジョワ階級の間で人気肖像画家となり、商業的成功を収めることができました。

しかし同時にそのことで、ルノワールは悩み始めました

印象主義の技法を象徴する色彩分割法が、風景を描く際には効果的であっても、フォルムが大切な人物を描くには限界があると考え始めました。

そして、経済的に余裕が出てきたルノワールは、肖像画家に徹することに嫌気がさしてきていました。

新興ブルジョワ階級が多いルノワールのファンは、シャルパンティエ夫妻でさえ代金を値切ってきました。

新たに獲得した顧客ルイ・カーン・ダールヴェール伯爵は大富豪のユダヤ人銀行家でしたが、ルノワールに対する支払いが遅れに遅れたため、ルノワールはユダヤ人顧客たちの態度にも嫌気がさすようになります。

1879年のサロンでの成功以来、ルノワールへの制作依頼は増えるばかりで、高級娼婦まで彼の元に押しかけてきて自分の肖像を描いてもらおうとしてルノワールをいら立たせました。

40歳のときからはデュラン=リュエルも、彼の作品を定期的に購入し始めていました。

ルノワールを支え続けたアリーヌと初めての旅行

ピエール=オーギュスト・ルノワール《田舎のダンス》1883年

12歳から働きづめに働いてきて、やっと経済的な安定を得たルノワールは、1881年2月末から3月にかけて40歳にして初めて外国へと旅に出ることにしました。

崇拝するドラクロワの足跡を辿るように、北アフリカのアルジェリアを訪れました。

ピエール=オーギュスト・ルノワール《ヴェネツィアのパラッツォ・ドゥカーレ》1881年

そして同年10月には芸術の国イタリアを訪れ、2年前に知り合った18歳年下のアリーヌ・シャリゴと合流しました。

上の絵は、イタリアのヴェネツィアで完成させた唯一の作品です。(他は数枚の素描のみ)

この眺めは非常に人気があり、ルノワールは「少なくとも6人が列を作って絵を描いていた」と冗談を言っています。

シャンパーニュ地方のエッソワで生まれ、モンマルトルでお針子として暮らしていたアリーヌは、ルノワールの未来の妻となる女性でした。

しかし、ルノワールはアリーヌの存在を周囲にひた隠しにしていました。

労働者階級出身のアリーヌの存在は、ブルジョワ階級出身の周囲の人々を戸惑わせるだけだと思ったからでした。

ルノワール最愛の妻アリーヌを描いた絵を紹介!

2020.08.09

フィレンツェやローマでラファエロの作品に感嘆した後、ナポリに向かいポンペイの壁画に感動を覚えたルノワールは、新しい造形性を探究し始めました。

第7回印象派展 25点出品

ピエール=オーギュスト・ルノワール《舟遊びをする人々の昼食》1880-1881年

1882年、41歳のときに上の絵を含む、25点が出品されましたが、デュラン=リュエルが所有していたもので、ルノワール自身がグループ展に参加したわけではありませんでした。

上の絵の解説はこちら↓

ダンス3部作

ピエール=オーギュスト・ルノワール《ブージヴァルのダンス》1883年

旅行の影響で、1883年頃から88年頃までドライな色調と、しっかりしたフォルムで写実性の強い画風で作品を発表しました。

「アングル風」の時代、またはルノワール自身曰く「酸っぱい様式」の時代と呼んでいる時期です。

印象主義に限界を感じたうえの、造形上の新しい試みでした。

この新しい様式を象徴する作品に、1883年4月にデュラン=リュエル画廊で開かれた個展に出品された対絵《都会のダンス》と《田舎のダンス》があります。

詳細はこちら↓

本命と愛人を絵に?ルノワール 「都会のダンス」「田舎のダンス」「ブージヴァルのダンス」を超解説!

2020.04.26

画家としての名声が高まる

44歳のとき、長男ピエールが生まれました。

1890年代に入ると、モネの連作「積みわら」が大ヒットになるなど、印象派に対する拒絶反応はかつてのように激しいものではなく、世間でも認知され始めていました。

47歳のとき、顔面神経痛の症状が現れ始め、リウマチの発作にも襲われました。

49歳のときにレジオン・ドヌール勲章の授与を結局辞退しましたが、打診されるほどの画家になっていました。

そしてこの年、アリーヌと正式に結婚しました。

またルノワールは、1890年の出品を最後にサロンからも引退しています。

もう世間からの認知を必要としないほどの画家になっていました。

そして、画風も徐々に「アングル風の時代」から脱却し、 古典的な調和のとれた構図とデッサンに、印象主義的な暖かい色彩と柔らかな筆触を融合させたルノワール独自の円熟した様式を完成させていきました。

51歳のとき、デュラン=リュエル画廊で回顧展も開かれ好評を博しました。

この年、詩人のマラルメなど友人たちの働きかけもあり、《ピアノに寄る娘たち》(1892年)が国家に買い上げられ、リュクサンブール宮殿で展示されました。

53歳のとき、後に映画監督として知られるようになる次男のジャンが生まれました。

53歳の1894年2月、カイユボットが45歳で世を去りました。

遺言の執行人に指名されていたのはルノワールでした。

遺言状には、カイユボットが遺したマネや印象派の作品68点を、当時は近代美術館だったリュクサンブール宮殿に、そして後にルーヴル美術館に収めるよう寄贈したい旨が明記されていたため、面倒なことが大嫌いだったにもかかわらず、その実現のためにルノワールは奔走しました。

しかし、このカイユボット・コレクションの受け入れをめぐり、「反・印象派」の 保守的な美術界や世間も巻き込んだ論争が起こってしまいました。

そして結局、カイユボットの死から2年後の1896年2月に、コレクションの中から40点が選ばれてフランス政府が受け入れました。

当時のフランス社会および美術界の保守層に根強く残っていた印象派に対するアレルギーがうかがえるエピソードです。

現在、オルセー美術館の礎となっているカイユボット・コレクションも、当初は渋々受け入れられていたのでした。

56歳のとき、自転車から落ちて右腕を骨折し、これが原因で慢性関節リウマチを発症し、年々悪化していきます。

これ以降、 療養のために冬場を南フランスで過ごすことが多くなりました。

59歳のとき、ルノワールはレジオン・ドヌール5等勲章を受章しました。

最初のグループ展から、四半世紀以上がたっていました。

この頃になるとモネ同様にルノワールの作品の値段も高騰するようになりました。

子供たちを可愛がる

《ピエロ姿のクロード・ルノワール》1909年

60歳のとき、三男クロードが生まれます。

ルノワールは子供たちをとても可愛がり、特にクロードの絵を多数残しています。

上の絵は、クロードが8歳のときに描いたものでしたが、クロードはこの白くて長い木綿の靴下が「チクチクしてかゆくなる!」といってなかなかはいてくれませんでした。

そこでルノワールは、鉄道セットと絵の具箱というご褒美で釣り、なんとかこの絵を完成させることができたんだとか。

子供好きのルノワールは、自分の子供だけでなく、パリ・モンマルトルの乳幼児の死亡率が高いことに心を痛め、福祉施設の建設にも協力しています。

66歳頃には、ルノワールの持病はいっそう悪化していたため、気候の温暖な南仏カーニュ=シュル=メールに広大な地所レ・コレットを購入しました。

この年、出世作となった《シャルパンティエ夫人と子供たち》をメトロポリタン美術館が購入しました。

69歳頃には、リウマチで手足が麻痺し、歩くこともできなくなり、車椅子での生活を送ることになりました。

ルノワールは動かない手に絵筆を縛りつけ、制作を続けました。

愛する人々との別れ

そしてカイユボットだけでなく、ルノワールには愛する人たちとの別れも待っていました。

51歳のとき、マネの末弟でモリゾの夫であるウジェース・マネが世を去りました。

そして後を追うように、3年後には親しかったモリゾが娘ジュリーを残して54歳の生涯を終えました。

以後ルノワールは、後見人としてジュリーのことを何かと気にかけ、温かい愛情を注ぎました。

55歳のときには母がルーヴシエンスで89歳の生涯を終えました。

57歳のときにはマラルメが、そして翌年には長年、疎遠になってしまっていたシスレーが世を去りました。

かつてはシスレーの冷たい態度に傷ついたこともあったルノワールでしたが、若き日の親友の死は深く彼を悲しませました。

63歳のときには恩人のシャルパンティエ夫人が、そして1年後には夫のジョルジュ・シャルパンティエが亡くなりました。

そして65歳のときには親しかったセザンヌが世を去りました。

74歳のときには、最愛の妻アリーヌが糖尿病の悪化で56歳で亡くなりました。

アリーヌはルノワールに心配をかけないように、病気のことは隠していました。

ドガの画家としての技術を高く評価していたルノワールでしたが、友人として彼は傍若無人で気難しい性格だったため、喧嘩を繰り返しました。

しかしそのドガも、76歳のときに、83歳で世を去ってしまいました。

しかし、不幸に見舞われることが続いても、元来が真面目な職人気質のルノワールの創作意欲はその命が燃え尽きる時までなくなることはありませんでした。

念願のルーヴル美術館に飾られる

73歳のときには、ルノワールの作品3点がルーヴル美術館に展示されました。

 特にその近所で育ち、少年時代には昼食も食べずに通ったあの憧れのルーヴル美術館に自分の作品が展示されたことは、フランス絵画史に残る画家であることが証明されたこととなり、ルノワールをひどく喜ばせました。

《シャルパンティエ夫人の肖像》1876-1877年

78歳のときにはルーヴル美術館友の会が上の作品を購入し、ルノワールは美術総監に招かれて自分の作品が展示されているのを目にすることができました。

フランス・ルネサンス様式やロココ様式の彫刻、そしてルーベンスやロココ絵画着想源とした彼の作品群からもうかがえるように、自分が前衛的という意識がくなく、常に古典絵画に敬意を表していたルノワール自身も、ルーヴル美術館やメトロポリタン美術館といった世界的に有名な美術館に所蔵されるようになりました。

晩年

ピエール=オーギュスト・ルノワール《浴女たち》1818-1819年

上の絵は、ルノワールが死の寸前まで描いた絶筆とされる1枚です。

息子ジャンの妻になるアンドレ・へスリング(通称デデ、後の女優カトリーヌ・へスリング)がモデルです。

裸婦と風景が調和した素晴らしい作品に仕上がっています。

現在、ルノワールといえば誰もが彼の「裸婦」を思い浮かべるくらいですが、生前の彼は肖像画および人物画で人気を博し、名声を確立した画家でした。

当初、ルノワールの裸婦像は肉感的すぎて彼の顧客たちにも受けがよくありませんでした。

しかし、ルノワールが名実共に大家となった晩年にはとても人気が出ました。

ルノワールにとって裸婦像は、公私共に生活が安定した1890年代半ば頃から最晩年にかけてライフ・ワークとなりました。

若い頃、師のグレールに向かって「楽しくなかったら絵なんか描かない」と言い放ったルノワールでしたが、その陽気な性格どおり、常に人生の喜びを描こうとした彼は、今度は自分の喜びのために、色彩を帯びて生命感にあふれる豊麗な裸婦像を描きました。

「楽しい絵画」を描き続けたルノワールにとって、彼女たちは自分自身が観ていて楽しくなるような、そして彼の視覚に喜びを与える裸婦でした。

常に技術を磨いておかなくてはならない職人気質が染み込んでいたルノワールは、50歳を過ぎても絵の勉強を心がけ、今の自分に満足しないように注意していました。

そし て、風景と人物を溶け合わせるように描くことを終生の課題とし探究し続けました。

取引があった画商ヴォラールの強引な勧めもあり、20世紀に入ると彫刻の制作も手がけ、絵画同様に豊満な裸婦像に挑戦しました。

59歳のときに授与されたレジオン・ドヌール5等勲章に続き、70歳のときにはレジオン・ドヌール4等勲章を、そして78歳のときにはレジオン・ ドヌール3等勲章を授与されました。

レ・コレットで過ごした人生最後の日々も、花の絵を描きたいと筆とパレットを所望しました。

そして、アネモネを水彩で描いた後に「やっと何かがわかり始めたような気がする」と呟いたそう。

ピエール=オーギュスト・ルノワール《ヤマシギ》1919年

78歳のルノワールは、いつものように絵を描き、夜遅くに亡くなりました。死因は肺充血でした。

上の絵は死去する数時間前に完成したとされる作品で、2013年のニューヨークのオークションで、予想落札価格を上回る12万5000ドル(約1250万円)の値が付きました。

ルノワールの訃報を聞いたモネはショックを受け、「とても辛い。私だけが残ってしまったよ。仲間たちの唯一の生き残りだ。」と手紙に書いています。

まとめ

ルノワールは、明るくて幸せな絵を描いた画家
・印象派の画家の中では、人物をより多く描いていた