虹色のパレットで幸せを描き続けた画家ルノワールについて解説!

こんにちは!

今回は、日本での人気も高いルノワールについて解説します!

ちなみに喫茶店「ルノアール」は画家ルノワールからきています。

早速見ていきましょう!

ピエール=オーギュスト・ルノワール(1841-1919年)

ピエール=オーギュスト・ルノワール《自画像》1876年

ピエール=オーギュスト・ルノワールは、フランスの印象派の画家です。

フランス中部のリモージュで、貧しい仕立て屋の父親と、お針子の母親の間に、7人兄弟の6番目として生まれました。(内、上の2人は早世)

他の印象派の画家たちがブルジョワ階級出身だったのに対し、ルノワールは1人労働者階級出身でした。

美声

3歳のとき、パリへ引っ越します。

9歳前後で聖歌隊へ入り、美声を評価され、「この子をパリのオペラ座の合唱団に入れたらどう?」と提案されます。

しかし、ルノワールの両親は、知人からルノワールを磁器工場の徒弟として雇いたいと言われていたため、断り、聖歌隊も辞めさせています。

絵付け

13歳のとき、磁器絵付け職人に弟子入りします。

しかし、やっと一人前になった18歳頃には、産業革命で絵付けは機械化され、職を失います。

そこで扇子や日よけ装飾品に絵を描く仕事を始めます。

ヴァトーブーシェの有名な作品を複製した扇子をたくさん描きいたことによって、ロココ絵画に興味を持つように。

19歳のとき、ルーヴル美術館で模写する許可を得て、ルーベンス、ブーシェ、フラゴナールをよく描きました。

モネたちとの出会い

《フォンテーヌブローの森を散歩するル=クール》1866年

20歳のとき、画家を目指すようになり、エコール・デ・ボザール(官立美術学校)とシャルル・グレールの画塾に通い始めます。

そこでモネ 、バジール、シスレーと出会い、仲良くなります。

4人はフォンテーヌブローの森へスケッチに出かけることもありました。

そこでバルビゾン派の画家ディアズに出会い、「なんでこんなに黒く塗りつぶしているんだい?」と言われ、それ以降、暗いところを描く場合でも黒を使わず表現するようになります。

ディアズは、経済的に苦しいルノワールのために、画材代を支援したり、アドバイスをしました。

そんな彼のことをルノワールも尊敬していました。

シスレーのパリにあるアパートを間借りし、バジールのアトリエでよく制作しました。

ルノワールは、バジールのアトリエ近くにあったカフェ・ゲルボワの常連客でしたが、他にもマネ、モネ、バジール、ピサロ、セザンヌ、ラトゥールなどが集まっていました。

サロンに入選した作品を破り捨てる

22歳のとき、初めてサロンに応募し落選しますが、翌年サロンに初入選します。

が、なんと!そのときの作品《エスメラルダ》をサロン終了後に自分で破棄してしまいます…。

初めての注文

《ロメーヌ・ラコー嬢》1864年

23歳のとき、磁器製造業者から、初めて9歳の娘の肖像画の依頼を受け、描いたのが上の作品です。

恋人のリーズ

《白いショールのリーズ》1872年

24歳のとき、シスレーとともに、フォンテーヌブロー近くのマルロットに滞在しました。

ここで、画家ジュール・ル・クールと知り合い、滞在中は世話になります。

そして、ル・クールの恋人クレマンス・トレオの妹、17歳のリーズ・トレオと付き合います。

彼女は1年間ほどルノワールのモデルであり、恋人でもありました。

彼女は密かに子供を産んでおり、後の研究でルノワールの隠し子だと判明しています。

ルノワール31歳のとき、リーズは若い建築家と結婚します。

ルノワールは、お祝いに彼女の肖像画を送り、その後二度と会うことはありませんでした。

シスレーに助けられる

《ウィリアム・シスレーの肖像》1864年

サロンに出品したシスレーの父親を描いた肖像画を含む2点が入選します。

経済的に苦しんでいたルノワールを助けるため、シスレーが肖像画を依頼し、買い取ったものでした。

モネとの友情と印象派誕生

ピエール=オーギュスト・ルノワール《ラ・グルヌイエール》1869年

28歳の夏、モネと一緒に、セーヌ川の行楽池ラ・グルヌイエールへ行き、並んで絵を描きました。

この時に描いた絵こそ、印象派誕生の記念すべき作品でした。

ルノワールも決してお金に余裕があるわけではありませんでしたが、絶望的に貧しかったモネの家を訪れ、パンをあげたりしていた仲でした。

このときについての詳細はこちら↓

友人の死

《バジールの肖像》1867年

29歳のとき、普仏戦争が勃発し、招集され、ボルドー騎兵隊に入隊しますが、赤痢にかかり、戦場に出ることなく翌年除隊となり、パリに戻りました。

その後、友達のバジールが戦死したことを知ります。

南仏の裕福な家の息子だったバジールは、ルノワールやモネなど仲間の画家を経済的に支援してくれていました。

上のバジールの肖像画をマネが称賛し、ルノワールはマネにこの絵をプレゼントしています。

サロンへのこだわり

《ブーローニュの森の朝の乗馬》1873年

ルノワールはあくまでもサロンでの成功にこだわり、何度も応募し、入選、落選、入選、落選…を繰り返していました。

当時のサロンは、一般大衆にとって作品の評価を保証する存在で、経済的に苦しかったルノワールにとって、サロンに入選して、作品が売れることが何よりも大切でした。

32歳のときのサロンで落選した上の作品を、ドガの友人アンリ・ルアールが購入してくれています。

また、27歳のときのサロンに入選した《日傘のリーズ》は、ドガが批評家テオドール・デュレに勧めてくれたおかげで、デュレが1200フランで購入してくれました。

モネのところで絵を描く

ピエール=オーギュスト・ルノワール《モネ夫人と息子》1874年

戦争中ロンドンへ避難していたモネがパリに戻り、アルジャントゥイユに住みます。

モネの元へ、ルノワールだけでなく、ピサロやマネ、シスレーがよく遊びに来ていました。

第1回印象派展

《踊り子》1874年

1874年、33歳のとき、第1回印象派展に7点出品します。

ルノワールが展覧会の構成を考え、弟エドモンが展覧会カタログを制作しました。

第2回印象派展

《習作(陽光の中の裸婦)》1876年

1876年、35歳のとき、第2回印象派展に18点出品します。

上の絵を批評家に「腐敗した死体みたい!」と酷評されてしまいます…。

今では絶大な人気を誇る印象派ですが、当時は全く人気がありませんでした。

そんな中でも、ルノワールは肖像画の注文を取ることができていました。

第3回印象派展

《ムーラン ・ド・ラ・ギャレットの舞踏会》1876年

1877年、36歳のとき、第3回印象派展には、21点を出品します。

上の絵は画家カイユボットが購入しています。

上流階級からの注文

マダムジョルジュシャルパンティエ(マルゲライトルイーズレモニエ、1848〜1904年)と彼女の子供たち、ジョルジュベルト(1872〜1945年)、ポールエミールシャルル(1875〜1895年)、オーギュストルノワール(フランス、リモージュ1841〜1919年カーニュシュルシュール) Mer)、キャンバスに油彩

《シャルパンティエ夫人とその子どもたち》1878年

37歳のとき、パトロンの出版社社長シャルパンティエから肖像画の注文を受けます。

この絵はサロンに入選し、シャルパンティエ夫人の知名度の高さから目立つ場所に展示され、称賛を受けました。

この頃には、上流社会の肖像画家として生計を立てていました。

ルノワールを支え続けたアリーヌ

ピエール=オーギュスト・ルノワール《田舎のダンス》1883年

39歳のとき、お針子のアリーヌ・シャリゴと出会い、2年後に結婚します。

当初は、労働者階級出身のアリーヌとの交際を周囲には隠していました。

第7回印象派展

ピエール=オーギュスト・ルノワール《舟遊びをする人々の昼食》1880-1881年

1882年、41歳のときに上の絵を含む、25点を出品します。

上の絵の解説はこちら↓

ダンス3部作

ファイル:Dance-At-Bougival.jpg - Wikipedia

ピエール=オーギュスト・ルノワール《ブージヴァルのダンス》1883年

《ブージヴァルのダンス》《田舎のダンス》《都会のダンス》のダンス3部作を制作します。

詳細はこちら↓

本命と愛人を同時期にダンスの絵として描いた画家ルノワール

2020.04.26

画家としての名声が高まる

44歳のとき、長男ピエールが生まれます。

51歳のとき、デュラン・リュエル画廊個展を開き、作品が政府買い上げになったりと、成功を収めます。

53歳のとき、次男のジャンが生まれます。

56歳のとき、自転車から落ちて右腕を骨折し、これが原因でリウマチを発症、年々悪化していきます。

神経質だった

明るくて幸せそうな絵ばかり描いていましたが、ルノワール自身は、気難しくて神経質な性格で、いつも落ち着きがなかったそう。

子供たちを可愛がる

《ピエロ姿のクロード・ルノワール》1909年

60歳のとき、三男クロードが生まれます。

ルノワールは子供たちをとても可愛がり、特にクロードの絵を多数残しています。

66歳のとき、南仏カーニュにコレット邸を購入します。

71歳のとき、リウマチで手足がマヒし、車椅子での生活となります。

動かない手に絵筆を縛りつけ、制作を続けました。

74歳のとき、最愛の妻アリーヌが糖尿病の悪化で56歳で亡くなります。

アリーヌはルノワールに心配をかけないように、病気のことは隠していました。

念願のルーヴル美術館に飾られる

《シャルパンティエ夫人の肖像》1876-1877年

78歳のとき、レジオンドヌール勲章を受章します。

同じ年に、ルーヴル美術館が上のを購入し、自分の作品が憧れの美術館に展示されているのを見ることができました。

その年の12月、いつものように絵を描き、夜遅くに亡くなりました。

ルノワールの訃報を聞いたモネはショックを受け、「とても辛い。私だけが残ってしまったよ。仲間たちの唯一の生き残りだ。」と手紙に書いています。

まとめ

ルノワールは、明るくて幸せな絵を描いた画家
・印象派の画家の中では、人物をより多く描いていた