アンニュイで甘い絵を描いた画家ヴァトー

こんにちは!

今回は、「雅宴画」という新しい絵画のジャンルを作った画家ヴァトーについてです。

早速見ていきましょう!

アントワーヌ・ヴァトー(1684-1721年)

《ヴェネツィアの祝宴》1718-1719年

アントワーヌ・ヴァトーはロココ時代のフランスの画家です。

フランドル地方のヴァランシエンヌで生まれます。

父親は喧嘩っ早い瓦職人でした。

11歳のとき、看板などを描く田舎画家に弟子入りします。

ヴァトーは、上の絵の右側で、ミュゼット(バグパイプの一種)を演奏している自分を描いています。

1人で全部出来る

17歳のとき、パリに出て、ノートルダム橋ら辺で絵描きのバイトを見つけます。

絵描きのバイトは分業制でしたが、ヴァトーは1人で仕上げまで任されました。

さらに、通常、注文が入ったら、お手本を取りに行って、それを元に絵を描くのですが、ヴァトーはお手本なしに描くことができました。

師匠を超える才能

アントワーヌ・ヴァトー《ピエロ》1712年頃

19歳のとき、コメディア・デラルテという即興喜劇が大好きな画家クロード・ジローに弟子入りします。

そんなジローの影響を受けて描いたのが、上の作品です。

ジローは、ヴァトーの才能に衝撃を受け、油絵を描くことをやめてしまったそう。

ジローとは5年間一緒に仕事をしましたが、喧嘩して離れ、当時一流の装飾家オードランに弟子入りします。

上流階級が喜ぶ、優美で繊細で曲線的な装飾を学びました。

ルーベンスの絵に感動

ある日、オードランの宮殿で、ルーベンスを見て、「これが本物か…」とショックを受けます。

そして、ルーベンスに影響を受け描いた絵をオードランに見せたところ、「そういう系は上手くいかないから辞めておけ」と言われてしまい、オードランの元を離れます。

翌年、アカデミーコンクールに出品し、1等は惜しくも逃し、2等。

その絵を昔のバイト先、ノートルダムの画商シロワに売って、そのお金で帰郷します。

26歳でパリに戻ると、当代一の実業家で美術コレクターのクロザが作品を気に入り、人気者になります。

美術アカデミーの準会員に

ラブフェスティバル

アントワーヌ・ヴァトー《愛の祝祭》1718-1719年

28歳のとき、アカデミーコンクールに再チャレンジし、美術アカデミー準会員となります。

正会員になるためには、作品を1つ提出する必要があるのですが、ヴァトーは個人の注文を優先していたため、提出に5年もかかりました。それが下の絵です。

この頃には、自分の死期を悟っていたヴァトーは、とにかく絵を描きます。

新しい絵のジャンルが生まれる

アントワーヌ・ヴァトー《シテール島の巡礼》1717年

33歳のときアカデミーに提出した作品は、「すばらしい!」と大評判。

しかし、この絵を既存の絵のジャンルに当てはめようとしても、「風景画」でもないし当てはまるものがない…!

ということで、ヴァトーのために新しい絵のジャンル「雅宴画(フェート・ギャラント)」が誕生しました。

上の絵についての詳細はこちら↓

ディズニーシーにパロディがある

アントワーヌ・ヴァトー《愛の音階》1717-1718年

若い男女が仲睦まじく、音楽を奏でている場面が描かれています。

男性の上にある石像は、ピタゴラスでは?といわれています。

ピタゴラスは、音階を発見した人です。

音楽にも愛にも段階があります。

もっというと音楽はその段階を早めることもあります。

ディズニーシーに、この絵の白雪姫パロディがあるので、是非探してみてください。

暗い影

アントワーヌ・ヴァトー《ピエロ(ジル)》1718-1719年

35歳のとき、ロンドンで結核の治療を受けますが、病気が治らないことを悟り、半年後に帰国します。

最後の傑作

Gersaint.jpg

アントワーヌ・ヴァトー《ジェルサンの看板》1720-1721年

駆け出しの時代に絵を買ってくれた、恩人のシロワの娘婿で、画商のジェルサンに看板を頼まれ、大作を8日間で描き上げます。

死に怯え、家を転々とし、最後は筆を握ったまま、36歳で亡くなります。

まとめ

ヴァトーはロココ時代を作った始まりの画家
・明るくて甘めで、でもちょっとアンニュイな作風
・ヴァトーのために「雅宴画」が出来た