こんにちは!
今回は、ヴェロネーゼについてです。
早速見ていきましょう!
目次
パオロ・ヴェロネーゼ(1528-1588年)
パオロ・ヴェロネーゼ《自画像》1558-1563年
パオロ・ヴェロネーゼは、イタリアの画家です。
センスよし
イタリア北部の町ヴェローナで、石工の息子として生まれました。
本名はカリアーリですが、出身地のヴェローナから「ヴェロネーゼ(ヴェローナ野郎)」と呼ばれるようになりました。
14歳の頃までには、ヴェローナの画家アントニオ・バディーレの工房に弟子入りし修行していました。
ヴェローナ出身の一流建築家サンミケーリの目にとまり、貴族の館の装飾を手掛け、腕を磨きました。
サンミケーリは、ヴェロネーゼのことを息子のように可愛がりました。
若くして注目度No.1
パオロ・ヴェロネーゼ《聖アントニウスの誘惑》1552年
24歳のとき、マントヴァ大聖堂のためを上の絵を制作しました。
25歳のとき、ヴェローナで自信を得たヴェロネーゼは、活動の場をヴェネツィアに移し、工房を持ち、若手画家として注目されました。
ヴェネツィアの貴族の邸宅、別荘の装飾をこなしました。
パオロ・ヴェロネーゼ《ダニエーレ・バルバロの肖像》1556-1562年
この頃、後にパトロンになるヴェネツィアの貴族ダニエーレ・バルバロが、ヴェロネーゼの腕に惚れ込みました。
公式デビュー作
パオロ・ヴェロネーゼ《ヴェネツィアで贈り物を分け与えるユノ》1553-1555年
パラッツォ・ドゥカーレ天井装飾「十人委員会の間」のフレスコ装飾を依頼されました。
これが公式のデビュー作でした。
コンペで巨匠から褒められる
パオロ・ヴェロネーゼ《音楽》1556-1557年頃
28歳のとき、サン・マルコ図書館装飾コンペに、当時ヴェネツィアで活躍していた画家の1人として推薦されました。
ちなみにその7人の画家の中に、同時代のライバルで7歳年上のティントレットは選ばれず、怒っていたとか…。
天井画完成後、ヴェネツィア派の巨匠ティツィアーノが審査し、ティツィアーノから「私の後継者は君だ」と言われ、金の首飾りをもらいました。
貴族の邸宅をだまし絵で装飾
32歳のとき、ダニエーレの邸宅ヴィラ・バルバロの室内装飾を制作しました。
これは、建築家パラーディオと彫刻家ヴィットリアとヴェロネーゼの共同制作でした。
壁画はトロンプ・ルイユ(だまし絵)の手法で描かれ、どこが本物のドアや壁で、どこが絵なのかわからないような遊び心のあるものに仕上がりました。
以降名声が高まり、ヴェロネーゼの名は不動のものとなり、注文が殺到しました。
ルーヴル美術館で1番大きい絵「カナの婚礼」
パオロ・ヴェロネーゼ《カナの婚礼》1562-1563年
34歳のとき、サン・ジョルジョ・マッジョーレ島のベネディクト会修道院の食堂に上の絵を描きました。
6.77×9.94メートルもある超巨大な作品で、所蔵先のルーヴル美術館で最大サイズの作品です。
白い服がヴェロネーゼ、その右の肩越しに顔を覗かせている緑の服がティントレット、赤い服がティツィアーノです。
タイトルを変更したレヴィ家の饗宴
パオロ・ヴェロネーゼ《レヴィ家の饗宴(最後の晩餐)》1573年
45歳のとき、サン・ジョヴァンニ・エ・パオロの食堂にあったティツィアーノが描いた《最後の晩餐》が火事で焼失してしまったため、ヴェロネーゼが新たに描くことになりました。
この絵はなんと13メートルもあります。
壮大なスケールの建造物と着飾った群衆は、オペラ舞台のように華やかで、ヴェネツィアで大ウケしました。
お気に入りの緑の服を着たヴェロネーゼが登場しています。
しかし、制作後、この絵のテーマである「最後の晩餐」に相応しくない表現だと宗教裁判にかけられ、題名を《最後の晩餐》から《レヴィ家の饗宴》に変更しました。
絶頂期
パオロ・ヴェロネーゼ《ヴィーナスとマルス》1570年代
48歳のとき、ティツィアーノが流行していたペストに感染し亡くなると、ティツィアーノが得意としていた神話画の外国からの注文もヴェロネーゼのところに来るようになりました。
パラッツォ・ドゥカーレの「コレッジョの間」の壁画を制作しました。
パオロ・ヴェロネーゼ《ヴェネツィアの黙示録》1582年
51歳のとき、パラッツォ・ドゥカーレ大評議会広間に上の壁画を制作しはじめました。
天井画計画中に肺炎になり、人気絶頂期に60歳で亡くなりました。
描くはずだった天井画は、ライバルのティントレットが引き受けました。
まとめ
・ヴェロネーゼは、巨匠の絵のいいとこ取りしつつ、アレンジがうまい画家