こんにちは!
今回は、ロセッティについてです。
早速見ていきましょう!
ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ(1828-1882年)
ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ《自画像》1847年
ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティは、イギリスの画家です。
インテリ
ロンドンで4人兄弟の長男として生まれました。
父親はイタリアの亡命詩人(死刑を逃れるため)で後にキングスカレッジのイタリア文学教授、母親はイタリアとイギリスのハーフでした。
16歳のときには、イタリア語も堪能で、自分の名前の由来でもあるイタリアの偉大な詩人ダンテの詩を英語に翻訳しました。
秘密結社を結成
17歳のとき、ロイヤル・アカデミー美術学校に入学しますが、その授業内容に嫌気がさします。
同級生のジョン・エヴァレット・ミレイとホルマン・ハントと仲良くなり、イギリス美術界の低迷について議論しました。
3人が特に嫌っていたのが、ナショナル・ギャラリーの壁にかけられていたラファエロの《変容》(複製)でした。
ロセッティはラファエロだけでなく、ルーベンスも大嫌いでした。
20歳のとき、3人は仲間を募り、7人で「P.R.B」という秘密結社をつくりました。
「Pre-Raphaelite Brotherhood(ラファエル前派兄弟団結成)」、通称「ラファエル前派」を結成しました。
これは、ルネサンスの巨匠で当時絵画のお手本だった画家ラファエロよりも前の時代に戻って自由に描こうというグループでした。
「P,R.B」の意味は7人だけの秘密でした。
幸薄リジー
22歳のとき、帽子屋の売り子だったエリザベス・シダル(愛称リジー)と出会いました。
背が高く赤毛だった彼女は、ミレイの《オフィーリア》や、ハントのモデルもしています。
貧しい刃物師の娘でしたが、その物腰は淑女のようだといわれていました。
生まれつき体が弱く、帽子屋での重労働でさらに体調が悪化し、痛み止めにアヘンチンキを服用していました。
アヘンチンキの毒性は、当時ほとんど知られておらず、あらゆる苦痛の緩和に効くとされ、さらに処方箋がなくても入手でき、安価だったことから、中毒になる危険がありました。
彼女も後にそうなります…。
ロセッティから教育をほどこされて読み書きができるようになり、彼の影響で絵も描くようになりました。
ロセッティと婚約しますが、結婚は約10年後でした…。
わがまま
ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ《聖母マリアの少女時代》1848-1849年
3人揃ってロイヤル・アカデミーに出品するはずが、ロセッティだけ別のギャラリーに出品しました。
ロセッティはデッサン力があまり無く、アカデミーには不利でした。
3人とも絵は売れ、来年はみんなでロイヤル・アカデミーに出品しようと約束します。
ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ《受胎告知(見よ、われは主のはした女なり)》1849-1850年
しかしロセッティは、またもやアカデミーには出品せず、その前に開かれた展覧会に出品しました。
さらに、P.R.Bの意味もバラしてしまい、周りから叩かれました。
25歳のとき、結成3年目にしてラファエル前派は解散しました。
ラファエル前派
26歳のとき、批評家のジョン・ラスキンと出会います。
彼は当時、オックスフォードの美学の教授でもあり、彼の批評は最大の影響力を持っていました。
彼が、美術界に敵視されていたラファエル前派を「過去にないイギリス発の高貴な立派が生まれた」と擁護したことから、風向きが一変します。
ミレイはアカデミーの準会員になることができました。
一方、ロセッティはアカデミーから離れ、独自路線を進んでいきます。
27歳のとき、ラスキンの勧めで大学で絵を教え始めました。
28歳のとき、ここでウィリアム・モリスやバーン=ジョーンズと出会いました。
ファム・ファタール
ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ《プロセルピナ》1874年
29歳のとき、ジェーン・バーデンと知り合い、思いを寄せます。
繊細で病気がちだったリジーにとって、彼女の存在が激しい心痛の種でした。
ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ《ヴェヌス・ヴェルティコルディア》1864-1868年
30歳のとき、元娼婦のファニー・コーンフォースと出会い、(リジーがいるのに)彼女を愛人にします。
他にもハントの愛人だったアニー・ミラーとも関係を持ちました。
31歳のとき、モリスとジェーンが結婚しました。
リジーの死
ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ《ベアタ・ベアトリクス》1864-1870年
32歳のとき、リジーと結婚しました。
しかし、彼女は女の子を死産したショックと、ロセッティがほかの女性に好意を抱いていることに悩み、薬(アヘンチンキ、クロラールという鎮痛麻酔剤の一種)をますます服用するようになります。
そして1年半後、遺書を残して、大量の薬を服用して亡くなってしまいます。
彼女の死を悼んで描いたのが上の作品です。
自殺者は教会墓地への埋葬を拒否されてしまうため、遺書を焼き、薬の服用ミスとしました。
リジーと共に、ロセッティが今まで書き溜めていた詩を棺桶に入れ、埋葬しました。
リジーの死後、引っ越した家では、ファニーを家政婦にしました。
ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ《レディ・リリス》1866-1868年
30代後半からはあまり絵を描かなくなり、ウォンバットや孔雀など珍獣を飼って愛でたり、骨董収集に熱中しました。
奇妙な三角関係と精神錯乱
ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ《白昼夢》1880年
40歳のとき、ジェーンへの恋が再熱します。
モリスは、妻とロセッティの中を知ってもどうすることもできず、複雑な関係が続きます。
41歳のとき、詩集刊行のため、埋めた草案を掘り起こして、42歳のときに詩集を出版しました。
43歳のとき、モリス夫婦と共同で屋敷を借りるという、奇妙な三角関係に。
44歳のとき、絵は売れていましたが、ジェーンへの思いと妻への罪悪感から大量の酒と阿片を常用するようになり、体も精神も蝕まれていき、自殺を図ります。
48歳のとき、ジェーンと破局します。
ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ《フィアメッタの幻》1878年
53歳のとき、前年の脳卒中で麻痺した左の手足の療養中に亡くなりました。
罪の意識からか、妻リジーの横に埋葬しないようにと遺言を残していました。
まとめ
・ロセッティは、ラファエル前派の代表的画家で、詩情漂う作品を描いた画家