色彩の魔術師マティスの生涯を超解説!

こんにちは!

今回は、色彩の魔術師マティスについて解説します。

早速見ていきましょう!

アンリ・マティス(1869-1954年)

アンリ・マティス《自画像》1918年

アンリ・マティスは、フランスの画家です。

緑&鳥が大好きすぎて、アトリエは植物園かと思うほど草花があり、300羽も鳥を飼っていました。何者(笑)

盲腸のおかげで画家へ?

フランスのル・カトー=カンブレジで、穀物商人の息子として生まれます。

父親の意向でパリの法律学校へ入学し、卒業後は法律事務所に務めました。

21歳のとき、盲腸炎になり、療養中の暇つぶしに母親が画材を渡したことで、マティスの人生が大きく変わります。

絵を描き始めたマティスは「画家になるぞ!」と決意し法律関係の仕事は辞めてしまいます。

父親は非常にがっかりしました。

モローが先生で、ルオー と友達

22歳のとき、パリの私立美術学校アカデミー・ジュリアンに入学し、そこで絵を学びながら、国立美術学校エコール・デ・ボザールへの入学を目指しました。

結局入学は出来ませんでしたが、熱意を評価した教官ギュスターヴ・モローから、特別に個人指導を受けることが出来ました。

このとき、ボザールに入学してモローの指導を受けていた画家のルオーと仲良くなります。

結婚

《緑のすじのあるマティス夫人の肖像》1905年

29歳のとき、アメリー・パレイルと結婚します。

上の絵は、彼女がモデルです。

アメリーはマティスの連れ子マルグリットと、2人の息子ジャンピエールを育てました。

お金がないのに絵を買う

30歳になっても絵は売れず、貧乏でしたが、ロダンの彫刻、ゴーギャン、ゴッホ、セザンヌの絵を買います…。

特にセザンヌの絵の構図や色彩感覚は、マティスに大きな影響を与えました。

シニャックとの出会い

《贅沢、穏やか、そして官能的な》1904年

34歳の夏、シニャックに招かれてサントロペに滞在し、絵を描いたことによって、色彩が明るくなります。

シニャックのマネをして点描で描いています。(すぐにこの技法に飽きますが)

ちなみに上の絵は、後にシニャックが購入しています。

フォーグ(野獣)

《帽子の女》1905年

サロンに10点出品しましたが、人物の顔を描く際に、肌色ではなく、赤や緑など、現実にはありえない大胆な色を用いたため、「フォーヴ(野獣)」と批評家たちから非難されてしまいます。

この出来事から、フォーヴィスムの先導者となりますが、フォーヴィスムと呼ばれたりそう思われることがとても嫌だったそう。

ちなみにフォーヴィスムとしての活動は3年間くらいで、それ以降は比較的穏やかな作品を描くようになります。

非難されつつも、この頃から、マティスの絵を購入するコレクターも増えていきます。

上の絵は、コレクターのガートルード&レオのスタイン兄妹が購入しています。(スタイン兄妹はマティスやピカソ、ヘミングウェイなどを支えた人物です)

ピカソとの出会い

36歳のとき、11歳年下のピカソとガートルードのパリのサロンで出会います。

2人は生涯の友人でありライバルとなりました。

ガートルードは土曜日の夜にサロンを開いており、そこでマティスやピカソを始めとする芸術家たちが集まっていました。(映画『ミッドナイト・イン・パリ』にもこのシーンが出てきます)

緑→青→赤と色が変わった絵

《赤のハーモニー》1908年

元々緑色で描いた絵を、ロシアのコレクターシチューキンの要望で青色で塗りつぶします。

しかし、仕上がりに納得いかなかったマティスが、最終的には自分の好きな赤色で塗りつぶしたという面白い作品です。

女性の首が青いのは、この絵が当初青かった名残だといわれています。

ダンス

《ダンスⅠ》1909年

マティスはダンスの絵を複数描いています。

邸宅の装飾

《ダンスⅡ》1910年

《音楽》1910年

41歳のとき、コレクターのシチューキンが、自分の邸宅の階段に飾るため、上の2つの作品を依頼します。

モロッコ旅行

《テラスのゾラ》1912-1913年

42歳のとき、モロッコへ旅行します。

《金魚》1912年

《アラブのカフェ》1913年

個人的にこの絵がとても可愛くて好きです。目玉焼きみたい。

戦争

45歳のとき、第一次世界大戦が勃発します。

マティスはパリと南仏を往復します。

51歳のとき、パリと南仏のニースに住みます。

61歳のとき、バーンズ財団からの依頼で《ダンス》を制作します。

《大きな青いドレスとミモザ》1937年

63歳のとき、病気がちな妻アメリーの付き添いとして、ロシア人のリディア・デレクトルスカヤを雇います。

その後彼女はマティスの愛人となってモデルを務めつつ、秘書として助手として、マティスが亡くなるまで支えました。

上下の絵は彼女がモデルです。

アンリ・マティス《青い胴着の女》1935年

マティスは、制作の進展の再考や完成度を高めるための手段として、制作段階ごとに作品を写真撮影していました。

リディアは、その写真をアルバムに貼り、日付を記す作業を担当していました。

上の絵の製作過程を撮影した写真が3点残っており、当初は写実的に描かれていた人物が、次第に単純化されていく様子が写真からわかります。

68歳のとき、癌で入院します。

この頃には妻のアメリーはマティスの元を去ってしまっていました。

71歳のとき、第二次世界大戦中、ニースへ移動します。

体力ないから切り絵でもしようかな

《偶像》1942年

72歳のとき、リヨンで腸閉塞の手術をし、成功したものの、深刻な合併症を引き起こし、3ヶ月間寝たきりの状態に、その後は車椅子で生活しました。

そんなマティスを看病したのが、後に修道女となるモニック・ブルジョワです。

上の絵のモデルは彼女です。

マティスは、油彩よりも体力を使わない切り絵で制作するようになります。

ちなみにマティスが切り絵で使用しているカラフルな紙は、水彩絵の具で色をぬった紙を切って作品を作っています。

ロザリオ礼拝堂

79歳のとき、南仏のヴァンスのロザリオ礼拝堂の装飾に着手します。

ここには、病院を去り、修道女となったモニックがいました。

ジャズ

《ジャズ》1945-1947年

82歳のとき、切り紙で制作した《ジャズ》などの作品を展示した個展が、ニューヨーク近代美術館で開かれました。

84歳のとき、ニースで亡くなります。

まとめ

マティスは、フォーヴィスムの先駆者