証券マンから画家へ?ロリコンなゴーギャンの夢みがちな生涯を解説!

こんにちは!

今回は、俺様タイプの画家ゴーギャンについて解説します。

早速見ていきましょう!

ポール・ゴーギャン(1848-1903年)

ポール・ゴーギャン《黄色いキリストのある自画像》1890-1891年

ポール・ゴーギャンはフランスのポスト印象派の画家です。

パリで生まれ、姉がひとりいます。

1歳のときに一家でペルーに移動中、共和主義者のジャーナリストだった父親が心臓麻痺で亡くなります。

ペルーのリマにいた叔父は裕福で、広い家で何不自由なく暮らすことができました。

6歳のとき、ペルーの政情悪化によってフランスに戻り、父方の祖父を頼ってオルレアンへ行きます。

祖母もすごい

ゴーギャンが生まれる4年前に亡くなった、母方の祖母フローラ・トリスタンは、女性社会主義活動家の先駆者で、活動的であり、大変教養のある人物でした。

彼女の夫は暴力的で粘着質な性格で揉めに揉め、最終的にはフローラを銃で撃ち、捕まります。

なんとか一命を取り留めた彼女は世間の注目を集め、有名に。

しかし、体内に残った銃弾による後遺症で苦しみ41歳で亡くなってしまいます。

バリバリの証券マンだった

17歳のとき、商船で働き、世界中の海を巡りました。

19歳のとき、母親が亡くなります。

20歳のとき、従軍し、希望通り海軍へ配属され、2年間勤めました。

23歳のとき、母の交際相手のお金持ちのギュスターヴ・アローザの紹介で、パリの一流証券会社に勤め、株式仲買人として働きながら、趣味で絵を始めました。

その後11年間にわたり実業家として成功し、31歳のときには、株式仲買人として年収3万フラン、副業の絵画取引でも同じくらいの収入を得ていました。

25歳のとき、デンマーク人女性メット・ソフィ・ガッドと結婚します。

ピサロと仲良くなる

株式仲介人として働きつつ、自分でも絵を描き、画廊を訪れて、新興の画家たちの作品を購入したりしていました。

ゴーギャンの住んでいたパリ9区は、印象派の画家たちが集まるカフェなどが多く、画家ピサロとも知り合い、日曜日にはピサロの家を訪れて、庭で一緒に絵を描いたりしていました。

印象派の画家たちのまとめ役だったピサロは、みんなにゴーギャンを紹介しました。

趣味で描いていた絵でしたが、28歳のとき、サロンに作品が1点入選したりと、それなりに評価されていました。

元々自信家のゴーギャンなので、「これなら絵でも簡単に成功できるぞ」と思ってしまったのかもしれません。

29歳のとき、都心を離れてパリ15区に引越し、初めて家にアトリエを持ちました。

近くには、元株式仲介人で画家を目指していた親友エミール・シェフネッケルも住んでいました。

31歳のとき、第4回印象派展に参加します。

以降8回目まで参加します。

ちなみに第8回は最後の印象派展で、このときにスーラが新しい技法点描で描いた《グランド・ジャット島の日曜日の午後》を出品し話題に。

ゴーギャンは、スーラの点描が気に食わなくて侮蔑します。

画家への転身

《水浴の女たち》1885年

1882年、34歳のとき、パリの株式市場が大暴落し、それに合わせて絵画市場も収縮しました。

ゴーギャンから絵を買い入れていた画商ポール・デュラン=リュエルも、絵の買い付けを停止し、ゴーギャンの収入は急減しました。

この出来事から、徐々に画家として生きて行こうかと考えるようになります。

ピサロとだけでなく、セザンヌとも一緒に絵を描くこともありました。

35歳のとき、ピサロ宛に「画家として生きる!」と決心を伝えつ手紙を送り、会社を辞め、画家として独立します。

翌年、家族と共に生活費の安いルーアンへ引越しますが、絵は売れず、極貧の生活のままでした。

この頃には5人も子供がいました。

妻メットは5人の子供を連れて、コペンハーゲンの実家に帰ってしまいます。

その後ゴーギャンもコペンハーゲンへ行き、防水布の外交販売を始めましたが、言葉の壁に阻まれて失敗、しょうがなく妻メットが外交官候補生へのフランス語の授業を持って、家計を支えていました。

妻から出て行って欲しいと言われ、37歳のとき、6歳の息子クローヴィスを連れてパリへ戻ります。

パリへ戻ったところで画家として生きていくことはできず、様々な雇われ仕事をこなし、生活は困窮していました。

息子のクローヴィスは病気になり、ゴーギャンの姉マリーの支援で寄宿学校へ行くことに。

1886年、第8回印象派展に出品します。

この年にピサロと不仲になり、ピサロはその後ゴーギャンを敵視するように…。

ちやほやされる

《ブルターニュの4人の女》1886年

38歳のとき、生活費の安いブルターニュ地方ポン・タヴァンへ移り、ベルナールセリュジェと出会います。

そこでは、若い画家たちから印象派の画家として「すごい!!!」と持ち上げられます。

ここでゴーギャン特有の、単純化した形を太い輪郭線で縁取り、平塗りというスタイルが出来上がりました。

この地で出会った仲間の影響を完全に受けている作風なのに、「これはオレが考えた!」と言い出し、周りを敵に回します。

年末にパリでゴッホと出会います。

39歳のとき、絵の制作に専念するために、パナマ、そしてマルティニークに滞在します。

原住民の小屋に住んで人間観察をしていましたが、病気になり、半年でパリへ戻ります。

ゴッホとの共同生活

ポール・ゴーギャン《自画像(レ・ミゼラブル)》1888年

40歳のとき、ゴッホに呼ばれて南仏アルルの「黄色い家」で共同生活を始めます。

これも、ゴッホの弟であり画商のテオ「作品を買うからアルルへ行ってほしい」と頼んだからでした。

上の自画像は、ゴッホから共同生活を始める前に、自画像の交換を求められて描いた作品です。

題名の通り、ユゴーの小説『レ・ミゼラブル』の主人公ジャン・バルジャンになりきった自画像です。渋い。

耳切り事件

《ひまわりを描くゴッホ》1888年

ゴッホとゴーギャン、個性も我も強すぎる2人の共同生活は上手くいくはずもなく、ある大事件をもってわずか2か月間で終了します。

それは1888年のクリスマスイブ、ゴッホがゴーギャンにカミソリを持って襲いかかってきたため怒ると、ゴッホが自分で自分の耳たぶを切り落としてしまったという事件です。

この事件後、ゴッホはアルルの病院に送られ、ゴーギャンはパリへ戻りました。

その後二度と会うことはありませんでしたが、手紙のやりとりは続けており、

ゴッホが自殺した年でもある1890年、42歳のゴーギャンは、アントウェルペンでアトリエを設けようという提案までしていました。

即売会は大成功

43歳のとき、タヒチへ行くための資金を集めるために、即売会を開きます。

30点中29点が売れ、9,000フランを手に入れました。

即売会が成功したのは、友人や詩人たちが記事などを書いて宣伝してくれたおかげでした。

冷め切った関係

タヒチへ行く前にコペンハーゲンにいる家族の元を訪れます。

今さら会いにきたゴーギャンへの家族の視線は冷たいものでしたが、娘のアリーヌだけは、それでもゴーギャンを慕っていました。

地上の楽園タヒチへ

《死霊が見ている(マナオ・トゥパパウ)》1892年

政府から公式派遣の文書をもらい、タヒチへ向かいます。

当時のタヒチは、首都パペーテ以外は、前人未到の地というイメージでした。

そんな未開の地へ行きたいと思う時点で、かなり変わっていたことがわかります。

文明に毒されていない原始的な美を求めてタヒチに行ったはいいものの、想像以上に都会だったため、マタイエアという田舎の村へ行き、そこに竹を編んで小屋を建てます。

ここはゴーギャンが思い描いていた楽園そのものでした。

13歳のテハーマナと結婚し、幸せな日々を送っていました。

テハーマナは妊娠しましたが、子供についての記録がないため、流産したのでは?と考えられています。

45歳のときには、滞在資金も尽き、病気になり、泣いているテハーマナを置いてパリへ戻ります。

ノアノア

パリに戻ったゴーギャンは、『ノアノア』という半自伝的紀行文を執筆します。

「ノアノア」はタヒチ語で「かぐわしき香」という意味です。

タヒチでの体験半分、空想半分な旅行記です。

出版されるのは1901年ともう少し後ですが、この本に触発されてサマセット・モームが書いたのがベストセラー小説『月と六ペンス』です。

また少女を囲う

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《ジャワ女アンナ》1893-1894年

46歳のとき、画商ポール・デュラン=リュエルの画廊で個展を開き、40点中11点が高値で売れました。

なぜかその後、ゴーギャンはデュラン=リュエルとの取引を失っており、アメリカ市場への売り込みの機会を失います。

当時画家がよく訪れていたモンパルナス地区の外れにアパートを借り、毎週「サロン」を開いて画家仲間と集まっていました。

この頃、インド系とマレーシア系ハーフの10代の少女アンナと同棲していました。

上の絵は彼女がモデルです。

喧嘩っ早い

ポン=タヴァンで水夫と殴り合いの喧嘩をし、木靴で足を叩き潰されて入院します。

このとき治療にモルヒネを打たれ、そこから薬物依存になったと考えられています。

自分の家へ戻ると、アンナは金目の物を全て持ち出して消えていました…。

再度タヒチへ

《ネヴァーモア》1897年

47歳のとき、再度タヒチへ行きます。

タヒチへ行った理由の一つとして、エミール・ベルナールやカミーユ・モークレールに自分を批判する記事を書かれ、パリの美術界に居場所が無くなってしまったためだといわれています。

タヒチ行きの資金源は、叔父の遺産でした…。

妻メットとは関係は悪化したまま、金銭問題をめぐって争い続けていました。

ゴーギャンが叔父の遺産13,000フラン相続した時も、妻に少しも渡そうとしなかったというクズっぷり。(最終的に1,500フラン渡しています)

すっかり都会になってしまったタヒチで、テハーマナを呼び寄せましたが、1週間後にはゴーギャンの元を黙って去ってしまいます。

その後、今度は14歳のパウラと同棲します。

2人の子供ができ、娘は生まれてすぐ亡くなり、息子はパウラが育てました。

遺書代わりの大作

《我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか》1897-1898年

49歳のとき、妻から娘アリーヌの死を知らせる手紙を受け取った後、この作品を制作します。

完成後、ヒ素を飲んで自殺しようとしますが死にきれず。

快楽の館

《団扇を持つ少女》1902年

52歳のとき、パリの美術界がやっとゴーギャンに関心を持ち始め、画商ヴォラールと契約を結ぶことができ、毎月300フランと画材を提供してもらえるようになります。

生活が安定したことによって、53歳のとき、さらに未開の地を求めてマルキーズ諸島ヒヴァ・オア島へ行きます。

そこで「快楽の館」と名付けた2階建ての小屋に住みます。

壁にはゴーギャンが集めたポルノ写真が飾られており、それ見たさに多くの地元住民が詰めかけました。

当時のゴーギャンは病気の悪化と、住民とのトラブル続きでした。

今度は14歳の少女マリーを妻とします。

54歳のとき、妊娠中だったヴァエホがゴーギャンの元を去ってしまいます。

その後、健康状態がさらに悪化し、ほとんど絵を描くことができなくなってしまいます。

そして54歳で亡くなりました。

死因は薬の過剰摂取とも心臓発作ともいわれています。

まとめ

ゴーギャンは、カラフルで大胆でデザイン的な絵を描くロリコン画家