音楽用語をタイトルに?ホイッスラーを超解説!

こんにちは!

今回は、ホイッスラーについてです。

早速見ていきましょう!

ジェームズ・マクニール・ホイッスラー(1834-1903年)

ジェームズ・マクニール・ホイッスラー《自画像》1872年頃

ジェームズ・マクニール・ホイッスラーは、アメリカの画家です。

アメリカ人ですが、パリで美術を学び、画家としての生涯の大半をロンドンとパリで過ごしました。

アメリカ出身

マサチューセッツ州ローウェルで、鉄道技師の息子として生まれました。

9歳のとき、父親が鉄道建設の仕事のため、一家でロシアのサンクトペテルブルクに移住しました。

早くから画家を志し、11歳のとき、ロンドンへ留学し、帝国アカデミーで素描を学びました。

ロンドンには異母姉のヘイデン夫妻がいて、音楽などの芸術にもふれました。

14歳のとき、父親がコレラで急死し、アメリカへ帰国しました。

わざと落第点を取る

17歳のとき、エリート校ウエスト・ポイント陸軍士官学校へ入学しました。

20歳のとき、軍人になるのが嫌で、化学のテストでわざと落第点を取り、退学になりました。

これが自作自演の退学だと言われているのは、一番難しいテストは合格しているのに、一番簡単な化学で落第しているからです。

ちなみにこの士官学校には、父親が製図の教官として務めていました。

職を転々とし、国土測量局地図制作のバイト中にエッチングを覚えました。

パリへ

異母兄のジョージが資金を出してくれることになり、21歳のとき、画家を志してパリへ出ました。

22歳のとき、シャルル・グレールのアトリエに通い、色の使い方を学びました。

ちなみに、後にグレールのアトリエには、モネルノワールシスレーバジールが入っています。

24歳のとき、友人とライン地方にスケッチ旅行に出かけました。

ジェームズ・マクニール・ホイッスラー《フレンチセット》の表紙絵 1858年

パリに戻って版画集「フレンチ・セット」を出版しました。12枚セット売りでした。

ファンタン=ラトゥールと知り合い、リアリズム宣言で話題を集めていたクールベを紹介してもらいました。

クールベの写実主義に影響を受けました。

ロンドンへ

25歳のとき、ロンドンにもアトリエを構え、ロセッティと知り合いました。

ロンドンには妹夫婦が住んでおり、子供の頃行った場所でもありました。

以降、ロンドンとパリを往復しつつ、制作活動を続け、翌年からはロンドンのロイヤル・アカデミーに出品しました。

「フレンチ・セット」はロンドンでも出版されました。

ジェームズ・マクニール・ホイッスラー《ピアノにて》1858-1859年

上の作品は、パリのサロンでは落選しましたが、ロンドンのアカデミーでは評判になり、買い手もつきました。

白のシンフォニー

ジェームズ・マクニール・ホイッスラー《白のシンフォニー第1番:ホワイト・ガール》1962年

28歳のとき、上の作品がイギリス・ロイヤルアカデミーにも、パリのサロンにも落選しました。

しかし、落選展で話題となりました。(この時同じくマネ《草上の昼食》も一大スキャンダルに)

モデルは、当時恋人だったジョアンナ・ヒファーナンでした。

話題とはいっても、酷評の方で、何が問題だったかというと、彼女が持つ白ユリの花の表現でした。

西洋では、白ユリは聖母マリアのアトリビュート(持ち物)で、純潔を表すモチーフでした。

その白ユリがしおれていること、女性がまるで寝室で目覚めたばかりのような姿で描かれていたことから、「処女喪失」を描いたスキャンダラスな絵だと批判されました。

エッチングの評判はどれも良かった一方、油絵となると賛否両論でした。

ジェームズ・マクニール・ホイッスラー《白のシンフォニーNo.2:小さなホワイト・ガール》1864年

ジャポニズムの影響

ジェームズ・マクニール・ホイッスラー《ローズと銀:陶器の国の姫君》1863-1865年

ロセッティと同じ街に住むようになり、親しくなり、日本の工芸品着物などに興味を持ち始めました。

上の絵は、後ほど登場する《ピーコック・ルーム》に飾られています。

ジェームズ・マクニール・ホイッスラー《灰色と黒のアレンジメント:画家の母の肖像》1871年

ジェームズ・マクニール・ホイッスラー《ノクターン:青と金色ーオールド・バターシー・ブリッジ》1872-1875年

ホイッスラーは、タイトルに音楽用語を使い、絵の内容から物語性を排除しました。

上の絵は、ロンドンのテムズ川に架かる平凡な橋を描いたものですが、橋全体のごく一部を下から見上げるように描いた風変わりな構図単色に近い色彩水墨画のようなにじんだ輪郭線などに日本美術の影響が見られます。

また、ホイッスラーの用いる色彩は地味で、モノトーンに近い作品も多く、光と色彩の効果を追い求めた印象派の作風とはまた違う、独自の絵画世界を展開しました。

好き勝手に装飾

ジェームズ・マクニール・ホイッスラー《ブルーとゴールドのハーモニー:ピーコックルーム》1876-1877年

42歳のとき、富豪レイランドのロンドン邸の装飾をし、これは《ピーコック・ルーム》と呼ばれています。

壁面に孔雀を大きく描いた食堂の内装は、現在は部屋ごとワシントンDCのフリーア美術館に移されています。

ピーコック・ルームは、注文主の意向を無視して完成したため、支払いで揉めます…。

勝訴したけど破産

ジェームズ・マクニール・ホイッスラー《黒と金色のノクターン:落下する花火》1875年

45歳のとき、上の作品を批評家のラスキンに、「無教養な画家の、これはほとんど詐欺と言っていい。まるで公衆の顔をめがけて絵具壷を投げつけたようなものだ」と酷評され、怒ったホイッスラーは、名誉毀損で告訴しました。

裁判には勝ちましたが、賠償金はなんと銅貨1枚(約20円)だけでした。

弁護代が高くつき、破産し、自邸を売却、コレクションを売ることに…。

確固たる地位

ジェームズ・マクニール・ホイッスラー《赤のハーモニー:ランプライト》1886年

美術家協会の依頼で、エッチング制作のためヴェニスへ行き、翌年帰国しました。

作品は国や美術館が買い上げるようになり、画家として認められました。

53歳のとき、ベアトリクスと結婚しました。

上の絵のモデルは彼女です。

58歳のとき、レジオン・ドヌール勲章を受章し、ロンドンで回顧展が開かれました、

69歳のとき、亡くなりました。

まとめ

ホイッスラーは、日本美術に影響を受け、印象派とも違う独特の絵を描いた画家