裸の女性ばかり描いている画家だと思われていた?農民を描いたミレーの生涯を解説!

こんにちは!

今回は、日本人に人気の画家ミレーについてです。

早速見ていきましょう!

ジャン=フランソワ・ミレー(1814-1875年)

ジャン=フランソワ・ミレー《自画像》1840-1841年頃

ジャン=フランソワ・ミレーは、フランスの画家です。

フランスのノルマンディー地方のグリュシーの、比較的大きな農家の8人兄弟の長男として生まれます。

貧乏でしたが家には本がたくさんありました。

ミレーを応援する家族

長男だったので、農家の後継として期待されていましたが、ミレーが18歳のときに描いたに両親が感動し、19歳のとき、シェルブールの画家ムシェルの画塾に連れていき、絵の修行を始めます。

これだけを読むと、「ふ〜ん、そうなんだ」って思ってしまいますが、当時、農家の長男が農家を継がずに好きな道へ進むことを応援してサポートする親っていうのは非常にレアです。

21歳のとき、父親が亡くなったため家業を継ぐため実家に戻るも、祖母の強い勧めで再びシェルブールに出て、画家ラングロワの下で修行を続けました。

学校よりも…

《尼僧のオウム(ヴェル・ヴェル)》1839-40年

22歳のとき、奨学金を得てパリへ行き、エコール・デ・ボザールに入学します。

いくら奨学金があるとはいえ、父親を亡くし、成人した男子がミレーしかいなかった大家族ミレー家は、財産を犠牲にする覚悟で彼をパリに送り出しています。

パリでは歴史画家ドラローシュのアトリエに入りますが、彼のアカデミックな授業に違和感を感じ、あまり出席しませんでした。

どちらかというと、ルーヴル美術館で巨匠の絵を模写し、勉強しました。

25歳のとき、画家の登竜門であるローマ賞コンクールに応募するも落選。

学校を去ります。

奨学金も打ち切られてしましました。

サロンに初入選

26歳のとき、サロンに出品した、親友マルロの父親を描いた《ルフランの肖像》が初入選します。

これを機に、パリを去りシェルブールに戻ります。

ポーリーヌと結婚

ジャン=フランソワ・ミレー ≪ポーリーヌ・V・オノの肖像≫ 1841-42年頃

27歳のとき、洋服仕立屋の娘ポーリーヌと結婚します。

肖像画家

《ジャヴァン氏の肖像》1841年

シェルブールで肖像画家としての名声を得たミレーは、肖像画の注文を次々と受け、3年間で50点以上制作しています。

その中で、シェルブール市議会から亡くなったばかりの前市長ジャヴァン氏の肖像画の依頼が来ます。

しかし、ミレーはジャヴァン氏を知らなかったので、写真を見て肖像画を見て描くしかありませんでした。

出来上がりは不評で、市議会から3分の1に支払いを値切られてしまいます。

妻の死

《部屋着姿のポーリーヌ・オノの肖像》1843-44年

28歳のとき、妻ポーリーヌと一緒にパリへ行きます。

しかしポーリーヌは、貧困や不健康な都市生活から結核にかかり、ミレーが30歳のとき、亡くなります。

カトリーヌとの出会い

ジャン=フランソワ・ミレー《眠れるお針子》1844-45年

31歳のとき、シェルブールに戻り、家政婦をしていた当時18歳のカトリーヌと出会い、付き合います。

上の絵は、カトリーヌがモデルです。

彼女の実家が貧農だったこともあり、母と祖母は大反対。

実家に頼らずパリで生活するための資金を集めるため、売れるための絵を描きます。

どういう絵かというと、ロココ風の軽やかな絵です。(ミレーはロココ風の絵を馬鹿にしていました)

ミレーは母と祖母の反対を押し切って彼女と駆け落ちし、再びパリへ行きます。

32歳のとき、長女マリーが生まれます。

カトリーヌは、3男6女を産み育てました。

女性の裸体画の画家

《2人の浴女》1848年

ロシュシュアール通りに住んでいたミレーは、テオドール・ルソーコンスタン・トロワイヨンなど後のバルビゾン派の同士と出会います。

この時代のミレーは、女性の裸体画をたくさん制作し収入源としていました。

ミレーの後援者でミレーの伝記を書いたサンシエによると、世間はミレーを「裸の女ばかり描いている画家」だと思っていたんだとか…。

それを聞いたミレーは、「二度と裸は描かない!本当に描きたいものだけを描く!」と決意し、田園をテーマにした作品に向かったのだそう。(伝記なのでいい感じに誇張してそう)

政府お気に入り

《箕をふるう人》1847-1848年

1848年、34歳のとき、フランス2月革命が起こり、王→民衆中心のムードに変わりつつありました。

上の絵はその年のサロンに出品した作品で、好評を得ます。

この絵は内務大臣が500フランの高値で作品を買い上げます。

この絵の成功から、政府から注文を受けるようになります。

35歳のとき、第3子フランソワが生まれます。

バルビゾン派の誕生

パリでコレラが大流行&政情不安から、ミレー家はパリから60キロ離れたバルビゾン村に引っ越します。

この村に、バルビゾン派と呼ばれる、ルソーやコローなどの画家たちが集まるようになります。

バルビゾン派と名前が付いていますが、「流派」のように、彼ら独自の技法を確立したというわけではなく、バルビゾン村の近くの風景を描いた画家たちのことを表しています。

種をまく人

《種をまく人》1850年

36歳のとき、第4子マルグリットが生まれます。

当時のフランスは、政治的発言力を増した農民や労働者階級と、その脅威を抑え込もうとするブルジョワ階級との対立が高まっていました。

そんなとき、サロンに《種をまく人》を出品し、農民の悲惨な生活を訴える政治的メッセージのある絵だと受け取られ、激しい論争の的となります。

実際には、《種をまく人》は、父親の働く姿を思い出して描いた作品でした…。

37歳のとき、幼いときにミレーの世話をしたり、絵の道へ行くことを強く勧めてくれた祖母が亡くなります。

39歳のとき、母親が亡くなり、遺産相続のため8年ぶりに故郷へ帰ります。

そしてカトリーヌと正式に結婚します。

持つべきものは友

《接ぎ木をする農夫》1855年

41歳のとき、サロンに上の作品が入選します。

評判は悪くありませんでしたが、買手がつきませんでした…。

そこで友人の画家テオドール・ルソーが、「4000フランで購入を希望するアメリカ人を見つけたよ!」と言って、取引を仲介してくれました。

実際には、ルソーがミレーの尊厳を守るためにアメリカ人コレクターを装って、自分の資金で購入していました。

42歳のとき、第5子エミリーが生まれます。

アメリカでの人気と経済的安定

《落穂拾い》1857年

43歳のとき、サロンにこの作品を出品します。

貧しい農民よりもさらに貧しい農民が、空腹を満たし、生活の糧にするために落ち穂を拾う姿を描いた作品でしたが、これもブルジョワからしたら、「貧しさを強調し、社会秩序を乱そうとする危険な絵」でした。

フランスよりもアメリカで絵が売れるようになります。

第6子シャルルが生まれます。

《晩鐘》1857-1859年

ボストンのコレクターアップルトンからの注文で上の絵を描きますが、アップルトンは引き取りに来ませんでした…。

46歳のとき、ベルギーの画商アルチュール・ステヴァンスエヌモン・ブラン長期契約し、やっと貧乏から抜け出すことができました。

47歳のとき、第8子ジョルジュが生まれます。

一気に評価が高まる

《羊飼いの少女(大)》1863年

50歳のとき、サロンにこの作品を出品し、絶賛され、これを機にミレーの評価は一気に高まりました。

51歳のとき、ルソーの紹介でパリの実業家エミール・ガヴェから、パステル画の注文を大量に受け、数多くの風景画を明るい色彩で描き始めました。その数なんと95枚

52歳のとき、妻の病気治療のため、温泉地ヴィシーに滞在します。

これも貧困を抜け出せたからこそ出来たことでした。

パリ万博で一室与えられる

ファイル:Shearing Sheep, Jean-François Millet.jpg

《羊の毛を刈る女》1852-1853年

53歳のとき、パリ万博では、一室を与えられて9点の作品を出品し、巨匠としての名声を確立しました。

親友ルソーの死と病

親友テオドール・ルソーが亡くなります。

54歳のとき、レジオン・ドヌール勲章を授与されます。

59歳のとき、注文もとても増えてきましたが、体調はどんどん悪化していきます…。

異様な雰囲気の絶筆

《鳥の巣狩り》1874年

上の作品が、ミレーの絶筆です。

しんみりとした静的な絵を描くミレーが最後に残したのが、こんなに動的な作品ということに驚きます。

この絵についてアメリカ人画家W・ロウが、ミレーにインタビューしたところ、実際にミレーが幼少期に一度だけ見た光景を描いたのだそう。

なにをしている場面かというと、真夜中、低木にとまっている鳩の群れに向かって松明をかざして驚かせ、パニック状態で飛び立てない鳥を棍棒で叩き殺すという狩りのシーンです。

60歳のとき、妻カトリーヌと教会で結婚式を挙げ、17日後に亡くなります。

シャイイにある墓地の、親友ルソーの隣に埋葬されました。

先輩画家のコローは、ミレーの遺族の生活を心配し、残された妻に多額の弔慰金を送っています。

まとめ

ミレーは、農民を描いた写実主義の画家