ゴッホの生涯を超解説!嵐のような画家の短くも激しい人生とは?

こんにちは!

今回は、ゴッホについてです。

早速見ていきましょう!

フィンセント・ファン・ゴッホ(1853-1890年)


フィンセント・ファン・ゴッホ《麦わら帽子をかぶった自画像》1887年

フィンセント・ファン・ゴッホは、オランダの画家です。

超人的なペース

画家として活動したのは10年と短いながらも、2000点もの作品を残しました。

さらにゴッホと聞いて想像するような明るい色彩を用いた作品を描き始めたのは32歳から、死の5年前です。

2000点のうち油彩画は800点(860点とも)、デッサンは850点でした。

油彩画はおよそ4日に1枚のペースで仕上げていたことになり、これは。同時代の多作の画家たち(モネやルノワールなど)をはるかに凌ぐ超人的なペースでした。

仮にゴッホが長生きしたとしても、この制作ペースを維持することは難しく、画業を続けることは困難だったかもしれません。

エリートな一族

フィンセント・ファン・ゴッホ《吠える犬》1862年

オランダ、ブラバンド地方ズンデルト村で、6人兄弟の長男として生まれました。(テオは4歳年下)

ファン・ゴッホ家は、一族から大蔵大臣や有力な外交官、そして牧師を輩出した名門でした。(牧師は第一級の文化人)

ゴッホの祖父で、同じファーストネームをもつフィンセントは牧師でしたが、彼の子供たちは、海軍の将官や画商として成功しており、ゴッホの父だけが祖父と同じ牧師の道に進みました。(父は説教が上手くなく、牧師として出世せず)

ゴッホは、毎週日曜日に父親の説教を聞きに教会へ通っていました。

上の絵は、ゴッホ9歳のときに描いたスケッチです。

自分と同じ名前が刻まれた墓を見つける

ある日、その教会裏の墓地に、自分と同じ名前の小さなおを見つけました。

実は自分が生まれる1年前の同じ誕生日に、生まれてすぐ亡くなった兄がいたことを知ります。

自分はその兄の変わりなんだ…だとしたら自分ってなに??存在意義ってなに??と悩み続けます。

癇癪持ちなゴッホは、周りとうまくやれず小学校も退学になり、隣町の寄宿学校へ通うことになりました。

職を転々とする

フィンセント・ファン・ゴッホ《ラムズゲートのロイヤルロードの眺め》1876年

16歳のとき、入学して2年で学校を中退し、セント伯父のコネで画商グーピル商会で見習いとして働き始めました。

というのも、ゴッホの父親は、牧師が余っていた時代に、息子たちに貧しい生活をさせたくないと考え、画商として成功していた兄の元に、ゴッホを預けました。(ちなみに父親の兄弟のうち3人が画商)

この頃から弟テオと文通を始めました。

23歳のとき、グーピル商会から解雇され、学校の教師書店員を経て、牧師以外に自分の道はないと思い込みます。

上の絵は、無給の教師をしていたときの学校近くの風景を描いたものです。

牧師になるには大学受験があり、受験科目の多さに挫折します。

伝道師なら3か月の実習で仮免許が取得できるため、これなら!と思い挑戦しますが、うまくいかず…。

ゴッホ5つの失恋

フィンセント・ファン・ゴッホ《悲しみ》1882年

20歳のとき、下宿先の娘ユルシュラに告白をしましたが、婚約者がいると言われ断られます。(諸説あり)

28歳のとき、最近夫を亡くし、子供がいる7歳年上のいとこのケー(母の姉とストリッケル牧師との間の娘)に恋をし、求婚しますが、断られます。

彼女の家まで押しかけて、ランプの炎に手をかざしている間だけでいいから会ってほしい!と迫りますが、会えず…。

29歳のとき、シーンという子連れアル中病気で妊婦の娼婦をモデルとして使いながら、(テオからもらったお金で)金銭的な援助をしており、結婚しようとしていましたが、結局別れます。

上の絵は彼女がモデルです。

31歳のとき、近くに住む10歳年上のマルホットと恋仲になりましたが両家から反対され、彼女は自殺未遂事件を起こします。

33歳のとき、お世話になったカフェの女店主セガトーリにに求婚して断られ、店の人間とトラブルになりました。

父との絶えない喧嘩

26歳のとき、ボリナージュ地方のクウェムへ行きました。

父親からの仕送りに頼って、デッサンの模写や坑夫のスケッチをして過ごしていましたが、家族からニート状態を非難されます。

27歳のとき、全てに絶望して、お金も食べ物も泊まるところもないのに、北フランスへ放浪の旅に出て、ひたすら歩いて回りました。

そしてついにエッテンの実家に戻りましたが、常軌を逸する行動が増えてきたゴッホの扱いに困った父親は、彼を精神病院へ入れようとし、口論になり、クウェムへ戻りました。

この頃からテオの生活費の援助が始まりました。

そして、周りの人々や風景をスケッチしているうちに、本格的に絵を描くことを決意しました。

画家を目指す

フィンセント・ファン・ゴッホ《種まき(ミレーの模写)》1881年

ブリュッセルに行き、ブリュッセル王立美術アカデミーに在籍していた画家のラッパルトと友達になります。

ゴッホも、アカデミーの「アンティーク作品からの素描」というコースに登録した記録が残っており、実際に短期間だけ出席しました。

また、ある画家(誰なのか不明)から短期間、遠近法や解剖学のレッスンを受けていました。

28歳のとき、金欠のゴッホはエッテンの実家に戻り、田園風景や、近くの農夫たちを素材に素描や水彩画を描きました。

わがまま

フィンセント・ファン・ゴッホ《桃の木(マウフェの思い出に)》1888年

ハーグに向かい、義理の従兄弟で、画家のモーヴ(マウフェ)から絵の指導を受けました。

彼は親身になってゴッホの面倒を見ましたが、ゴッホの激しすぎる性格に嫌気がさし、後に仲たがいします。

クリスマス前にエッテンの実家に帰省しましたが、クリスマスの日に教会に行くことを拒み、それが原因で父親と激しく口論し、その日のうちに実家を離れて再びハーグへ行きます。

月100フランのテオからの仕送りの大部分をモデル料に費やし、少しでも送金が遅れると自分の芸術を損なうものだと言ってテオをなじりました。

これが少ないのかというと、当時の平均的な労働者は週20フランの収入で家族を養っていたことから、十分すぎるくらいの金額でした。

それでもゴッホは増額を求め続け、テオは自分の給料の半分近くに当たる月150フランの送金に応じることにしました

29歳のとき、ゴッホのもとを訪れたコル叔父が、街の風景の素描を12点注文してくれたため、ハーグ市街を描きました。

しかしその素描を見たコル叔父は「こんなのは商品価値がない」と言って、ゴッホが期待したほどの代金は送ってくれませんでした。

フィンセント・ファン・ゴッホ《スヘフェニンゲンの漂白場》1882年

一時は、売れる見込みのある油絵の風景画を描くようにとのテオの忠告にしぶしぶ従い、スヘフェニンゲンの海岸などを描きましたが、上達が遅いことを自ら認め、挫折しました。

実家にアトリエを持つ

フィンセント・ファン・ゴッホ《泥炭湿原にいる女性》1883年

30歳のとき、ドレンテ州ニーウ・アムステルダムの泥炭地帯を旅しながら、ミレーのように農民の生活を描くべきだと感じ、馬で畑を犂く人々を素描しました。

父親が仕事のため移り住んでいたオランダ北ブラバント州ニューネンの農村に初めて帰省し、ここで2年間過ごしました。

2年前にエッテンの家を出るよう強いられたことをめぐり父と激しい口論になったものの、小部屋をアトリエとして使ってよいことになりました。

さらに、骨折のけがをした母の介抱をするうち、家族との関係は好転しました。

フィンセント・ファン・ゴッホ《織工》1884年

母の世話の傍ら、近所の織工たちの家に行って、上のような作品を描きました。

ゴッホの絵の多くは鉛筆やペンによる素描で、水彩、油彩も少し試みましたが、遠近法の技法や人物の描き方も不十分で、いずれも暗い色調のものでした。

マルホットの自殺未遂事件をめぐる周囲との葛藤や、友人ラッパルトとの関係悪化、ラッパルトの展覧会での成功などで追い詰められたゴッホは、再び父との争いを勃発させました。

父の死

フィンセント・ファン・ゴッホ《開かれた聖書の静物画》

ゴッホの誕生日の4日前、父親が発作を起こして急死しました。

妹アンナからは、父を苦しめて死に追いやったのは彼であり、彼が家にいれば母も殺されることになると言われ、家から追い出され、前からアトリエとして借りていた部屋に荷物を移しました。

父親の死後、黒の使い方を実証するため、父の聖書と火の消えたろうそく、ゾラの小説本『生きる歓び』を描いた静物画を描き上げ、テオに送りました。

どうしてゾラの本が一緒に描かれているのかというと、ゴッホはフランス自然主義文学を、同時代の「聖書」と考えていたからです。

聖書に牧師だった父、ゾラの本に自分を重ねているのかもしれません。

初の本格的作品

フィンセント・ファン・ゴッホ《ジャガイモを食べる人々》1885年

32歳のとき、数年間にわたって描き続けた農夫の人物画の集大成として、最初の本格的作品である上の絵を完成させましたが、周りからは不評でした。

ゴッホは首都アムステルダムの国立美術館を訪れ、レンブラントハルス、ロイスダールなどの17世紀オランダの黄金時代の画家の絵を見ました。

そこで、素描と色彩を一つのものとして考えること、勢いよく一気に描き上げることといった教訓を得るとともに、近年の一様に明るい絵への疑問を新たにしました。

不摂生

フィンセント・ファン・ゴッホ《後ろから見た家》1885-1886年

ゴッホはベルギーのアントウェルペンへ移り、絵具屋の2階の小さな部屋を借りました。

アントウェルペン王立芸術学院で人物画や石膏デッサンのクラスに出ました。

ゴッホは、当初、街の娼婦をアトリエに呼んでヌードのデッサンをしようとしていましたが、テオに止められ、アカデミーならモデルのデッサンができると言って、今まで批判していたアカデミーに入学しました。

しかし、端正で明確なデッサンを求める教官と言い争い、他の生徒からも嘲笑され、1ヶ月も経たず脱落しました。

また、美術館やカテドラルを訪れ、特にルーベンスの絵に関心を持ちました。

金銭的には依然困窮しており、テオが送ってくれる金を画材とモデル代につぎ込み、口にするのはパンとコーヒーとタバコだけでした。

食費を切り詰め、体を酷使したため、歯は次々欠け、彼の体は衰弱していました。

また、医者で梅毒の治療を受けており、その治療のため投与された水銀の副作用にも苦しめられていたと考えられています。

また、アントウェルペンの頃から、アブサン(ニガヨモギを原料とするリキュール)を飲むようになりました。

唯一の理解者 弟テオの限界

フィンセント・ファン・ゴッホ《モンマルトルの小道》1886年

33歳のとき、ゴッホは、ブッソ=ヴァラドン商会(グーピル商会の後身)の支店を任されているテオを頼って、前ぶれなく夜行列車でパリに向かい、モンマルトルの弟のアパートに居候しました。

部屋は手狭でアトリエの余地がなかったため、ルピック通りのアパルトマンに2人で転居しました。

パリ時代には、この兄弟が同居していて手紙のやり取りがほとんどないため、ゴッホの生活についてほとんどわかっていません。

上の絵は、後に、テオの妻が部屋に飾り続け、さらにテオの息子も後に自宅に飾っていたお気に入りの1枚でした。

フィンセント・ファン・ゴッホ《石膏彫刻の女性トルソー》1886年

モンマルトルのコルモンの画塾に数か月通い、石膏彫刻の女性トルソーの素描などを残しています。

富裕なフランス人子弟の多い塾生の中では浮き上がった存在となり、長続きしませんでした。

ここで、ベルナールやロートレックと出会っています。

オーストラリア出身のラッセルとは数少ない交友関係を持ち、ラッセルはゴッホの肖像画を描いています。

パリに来て3ヶ月後にあった第8回印象派展は、スーラシニャックなど新印象派の画家たちで彩られ、この回をもって終了しました。

フィンセント・ファン・ゴッホ《チャイニーズアスターとグラジオラスの花瓶》1886年

画商ドラルベレットのところでモンティセリの絵を見てから、この画家に傾倒するようになりました。

上の作品は、モンティセリの花の絵に影響を受けて描いた作品で、描かれている花瓶は実際に残っており、ゴッホ 美術館のコレクションになっています。

34歳のとき、同居のテオとは口論が絶えず、テオは妹ヴィルに手紙で「フィンセントのことを友人と考えていたこともあったが、それは過去の話だ。彼には出て行ってもらいたい。」と苦悩を漏らしています。

他方、その頃から、ゴッホは印象派や新印象派の画風を積極的に取り入れるようになり、パリの風景を明るい色彩で描くようになりました。

テオもこれを評価する手紙を書いています。

しかし、ゴッホ自身は印象派ではモネしか認めていませんでした。

日本への憧れ

フィンセント・ファン・ゴッホ《タンギー爺さん》

彼が絵具を買っていたジュリアン・タンギー(タンギー爺さん)の店も、若い画家たちの交流の場となっていました。

展覧会を開く

ゴッホはクリシー大通りのレストラン・シャレで、自分のほかベルナール、アンクタン、ロートレック、A.H.コーニングといった仲間の絵の展覧会を開きましたが、全く注目されずに終わります。

ゴーギャンがカリブ海のマルティニークからフランスに帰国し、ファン・ゴッホ兄弟はゴーギャンと交流するようになりました。

南仏の日本、アルルへ

フィンセント・ファン・ゴッホ《アルルの跳ね橋》1888年

35歳のとき、テオのアパートを去って南フランスのアルルに行きました。

これは、ゴッホがミレーの生き方に共鳴しているのを知ったロートレックが、温暖なアルルへ移住してバルビゾン派のようなグループ生活の中で新しい芸術を追求してはどうかと提案したからでした。

ゴッホにはアルルが、日本版画に見る風景のように、光があふれているように見えました。

黄色い家

フィンセント・ファン・ゴッホ《黄色い家》

9月、芸術家共同体を夢見て、「黄色い家」を借ります。

部屋を6点のひまわりの絵で飾るつもりだったゴッホは、4点続けて制作しました。

フィンセント・ファン・ゴッホ《夜のカフェ》1888年

ゴーギャンが到着する前に自信作を揃えておかなければという焦りから、テオに費用の送金を度々催促しつつ、次々に制作を重ねました。

ゴーギャンが来る

フィンセント・ファン・ゴッホ《アルルの寝室》1888年

10月、ゴーギャンがやってきて、共同生活が始まりました。

ゴーギャンはゴッホの芸術家共同体については興味がなく、テオの援助で安定した収入を得られるから来ただけでした。

フィンセント・ファン・ゴッホ《夜のカフェテラス》1888年

2人は一緒に出かけて制作したり、美術館に行ったり、絵について議論したりしました。

しかし、クセの強い2人がうまくいくはずもなく関係は悪化していきます。

耳切り事件

フィンセント・ファン・ゴッホ《包帯をしてパイプをくわえた自画像》1889年

12月23日、ゴッホが自らの左耳を切り落とす事件が発生しました。

翌日の12月24日、ゴーギャンは電報でテオをアルルに呼び寄せました。

ちょうどヨーとの婚約を決めたばかりだったテオは、12月24日夜の列車でアルルに急行し、翌日兄を病院に見舞うとすぐにパリに戻りました。

ゴーギャンも、テオと同じ夜行列車でパリに戻りました。

その後も発作を起こすゴッホに対し、近所の住民が「ゴッホは危険人物だから病院に収容してほしい」という署名活動をし、再び病院に収容されることに…。

「黄色い家」の大家が発起人だったことから、他の人に部屋を貸したかったから署名を集めたのでは?といわれています。

サン=レミ療養所へ

フィンセント・ファン・ゴッホ《星月夜》1889年

36歳のとき、サン=レミの療養所に入院しました。

療養所の一室を画室として使う許可を得て、庭や病室の鉄格子の窓のから見える風景を描きました。

ゴッホはヨーが妊娠したことを知らされ、お祝いの手紙を送りましが、テオがどんどん遠くへ行ってしまうように感じ、複雑な心情も覗かせています。

ゴッホの病状は、一時は改善しているかのように見えましたが、その後発作を繰り返します…。

テオに息子が生まれたお祝いに

フィンセント・ファン・ゴッホ《花咲くアーモンドの木の枝》1890年

テオとヨーの間に息子ゴッホと同じ名前のフィンセント・ヴィレムと名付けられた)が生まれたのを祝って、2月に上の絵を描いて贈りました。

息子フィンセント・ヴィレムが、後にゴッホ美術館を設立しています。

評価され始める

フィンセント・ファン・ゴッホ《赤い葡萄畑》1888年

一方、ゴッホの絵画は少しずつ評価されるようになっていました。

評論家のアルベール・オーリエが『メルキュール・ド・フランス』誌1月号にゴッホを高く評価する評論を載せました。

さらに、ブリュッセルで開かれた20人展ではゴッホの《ひまわり》《果樹園》など6点が出品されて好評を博しました。

この展覧会で上の絵が、初めて400フランで売れ(買い手は画家で20人展のメンバーのアンナ・ボック)ました。

パリで開かれたアンデパンダン展に《渓谷》など10点がテオにより出品され、ゴーギャンやモネなど多くの画家から高い評価を受けているとテオが兄に書き送っています。

最期の地オーヴェル

フィンセント・ファン・ゴッホ《糸杉と星の見える道》1890年

体調が回復したゴッホは、ピサロと親しい医師ポール・ガシェを頼って、パリ近郊のオーヴェル=シュル=オワーズに転地することにしました。

最後に上の作品を描いてから、サン=レミの療養所を退所しました。

翌朝5月16日にパリに着き、数日間テオの家で過ごしました。

このときに、テオの妻ヨーとこの年の1月に生まれた同じ名前の甥(テオ夫婦の息子)フィンセントと初めて会いました。

しかし、パリの騒音と気疲れを嫌って早々にオーヴェルに向かって発ちました。

ガシェ医師との友情

フィンセント・ファン・ゴッホ《医師ガシェの肖像》1890年

ゴッホはオーヴェルの農村に着き、ガシェ医師を訪れました。

ガシェ医師は、ホメオパシーを用いる医師であり、マネルノワールセザンヌ、ピサロ、ギヨマンらと親交を持つ美術愛好家でもありました。

ゴッホによると、ガシェ医師は、非常に神経質でとても変わった人だけれども、体格の面でも、精神的な面でも、とても似ていて親しい兄弟のような感じがしたそう。

ゴッホは村役場広場にある1階がレストランのラヴー旅館に滞在することにしました。

1泊3.5フラン(およそ3500円)で、ゴッホの部屋は屋根裏部屋でした。

現在、観光施設として開放されており、6ユーロで見学可能ですが、写真撮影はできません。

1階のレストランは、ミシュランガイドにも掲載されている店で、美味しいと評判なんだとか。

ガシェ医師の家を訪れて絵画や文学の話をしつつ、その庭、家族、ガシェの肖像などを描きました。

フィンセント・ファン・ゴッホ《オーヴェルの教会》1890年

テオには、都会ではヨーの乳の出も悪く子供の健康に良くないからと、家族で田舎に来るよう訴え、オーヴェルの素晴らしさを強調する手紙をしきりに送りました。

最初は日曜日にでもと言っていましたが、1か月の休養が必要だろうと言い出し、さらには何年も一緒に生活したいと、ゴッホの要望は膨らんでいきました。

ある日曜日、パリからテオとヨーが息子を連れてオーヴェルを訪れ、ゴッホとガシェの一家と昼食をとったり散歩をしたりしました。

ゴッホは2日後「日曜日はとても楽しい思い出を残してくれた。……また近いうちに戻ってこなくてはいけない。」と書いています。

最期の手紙

フィンセント・ファン・ゴッホ《荒れ模様の空の麦畑》1890年

6月30日、テオは、ヨーと息子が体調を崩していることや、仕事についても悩んでおり、ゴッホ宛に悩みを打ち明けた長い手紙を書きました。

7月6日、ゴッホはパリを訪れ、テオに会いに行きましたが、すぐに帰ってしまいます。

というのも、いつまでもテオを頼りっぱなしのゴッホと、自分たちの生活を守りたいヨーとで口論になったことがひとつ。

もうひとつは、夏休みに実家に帰省する予定だったテオ一家に対し、自分の住む場所に来てほしいということでもめたからともいわれています。

ゴッホの最後の手紙となる7月23日の手紙では、「君の家庭の平和状態については、平和が保たれる可能性も、それを脅かす嵐の可能性も僕には同じように納得できる。」と書いています。

37歳で生涯を閉じる

フィンセント・ファン・ゴッホ《カラスのいる麦畑》1890年

7月27日、オーヴェルのラヴー旅館に、ピストルで胸を撃って帰宅しました。

ガシェは、この日のうちにテオに手紙を出し、翌朝駆けつけました。

テオが着いた時点ではゴッホまだ意識があり話すことが出来たものの、深夜、息を引き取りました。37歳でした。

7月30日、葬儀が行われ、テオのほかガシェ、ベルナール、その仲間シャルル・ラヴァルや、タンギー爺さんなど、12名ほどが参列しました。

半年後、テオも兄の後を追うように亡くなりました。

現在、ゴッホとテオの墓は並んで立っています。

まとめ

ゴッホは、嵐のように短くも激しい人生が伝説となり、うねるタッチで描いた画家
・27歳から絵を描き始め、10年間で2000点描いた