こんにちは!
今回は、ギネスに載るほど多作な画家ピカソについてです。
早速見ていきましょう!
目次
パブロ・ピカソ(1881-1973年)
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《自画像》1901年
パブロ・ピカソは、スペイン生まれのフランスで活動した画家です。
最も多作な画家としてギネスに
ピカソは、最も多作な画家としてギネスブックに登録されています。
生涯に約1万3500点の油彩と素描、10万点の版画、3万4000点の挿絵、300点の彫刻と陶器を制作しました。
本名がすごく長い
スペイン南部の港町マラガで生まれます。
本名は、「パブロ・ディエゴ・ホセ・フランシスコ・デ・パウラ・ホアン・ネポムセーノ・チプリアーノ・デ・ラ・サンティシマ・トリニダード・ルイス・ピカソ」です。
父親のドン・ホセは美術教師でした。
神童
8歳のとき、油彩画や素描を描き始めます。
10歳のとき、ラ・コルーニャへ引っ越します。
11歳のとき、ラ・コルーニャの美術学校に入学します。
13歳のとき、父親が「もう絵は描かない」と画材道具一式をピカソに譲ります。
諸説ありますが、自分よりも息子のピカソの方が、圧倒的に絵の才能があると思ったからだそう。
14歳のとき、妹のコンチータがジフテリアで亡くなります。
バルセロナに移住し、1か月かけて描く入学審査のデッサンを1日で仕上げ、バルセロナの美術学校に入学します。
父親は、ピカソのために自宅近くにアトリエを用意します。
賞を受賞
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《科学と慈愛》1897年
16歳のとき、父親の指導のもとで描いた古典的な様式の上の作品が、マドリードで開催された全国展で入選し、佳作を受賞し、約2週間展示されます。
後に、マラガの地方展で金賞を受賞します。
マドリードの王立美術学校に入学しますが、授業の内容も今までと変わらず、新しいことやそれ以上のことを学べないことに失望し、「無意味すぎる!」と中退します。
そしてプラド美術館へ通い、ベラスケスの名画を模写し、勉強しました。
17歳のとき、猩紅熱にかかり、静養のためにオルタという村で8か月間過ごしました。
初めての個展
18歳のとき、バルセロナに戻り、カフェ「四匹の猫」に通い、芸術家たちと交流しながら絵を描きました。
このときに初めて個展を開き、ラ・バングアルディア紙に好意的に評価され、注目が集まり始めます。
初めてのパリ
19歳のとき、パリ万博に出品します。
再び個展を開き、約150点を展示しました。
カサヘマスたちと一緒に初めてパリを訪れます。
その後もバルセロナとパリを行ったり来たり。
昼は展覧会巡り、夜はカフェや劇場へ足を運びました。
20歳のとき、雑誌「若い芸術」の編集に関わります。
パリで個展を開きます。
友人の自殺と「青の時代」
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《人生》1903年
ピカソはマドリードで絵を制作し、カサヘマスはパリへ引っ越しました。
その1か月後、恋人のジェルメーヌとの関係に悩み、カサヘマスは自殺します。
モテモテの彼女は、カサヘマスだけでなく、複数の男性と親しくしていました。
この出来事に衝撃を受け、嘆き悲しんだピカソは、作品の基調が青っぽくなっていきます。
このときにピカソが描いた作品たちは「青の時代」と呼ばれるようになります。
デッサンを燃やして暖をとる
21歳のとき、パリで貧乏だったため、マックス・ジャコブと一緒に暮らします。
本当に貧乏だったので、時にはデッサンを燃やして暖をとったり…
あまりにも寒く、耐えられなくてバルセロナに戻ります。
バラ色の時代
22歳のとき、パリのモンマルトルにある共同アトリエ「洗濯船」に住みます。
この辺りから、画面がかなり明るくなったことから、「バラ色の時代」と呼ばれています。
この時代の作品はよく売れ、ガートルード兄妹がパトロンになります。
作品を売ったお金でスペインに旅行に行きます。
アヴィニョンの娘たち
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《アヴィニョンの娘たち》1907年
26歳のとき、《アヴィニョンの娘たち》を描きますが、周りからは不評でした。
このことがショックだったのか、この作品は公表せず、10年間もアトリエで裏返しの状態で放置されていました。
ブラックと出会います。
「モナ・リザ」を盗んだ犯人だと間違えられる
30歳のとき、ルーヴル美術館から《モナ・リザ》が盗まれ、容疑者の1人として逮捕されます。(もちろん無実なので1週間で釈放されています)
多くの死を経験する
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《マ・ジョリ》1911-1912年
エヴァと出会い、翌年、《マ・ジョリ》を描きますが、3年後に彼女は亡くなってしまいます。
「マ・ジョリ」というのは、「私の可愛い人よ」という意味で、エヴァの愛称でした。
31歳のとき、モンパルナスに引っ越します。
32歳のとき、父親が亡くなります。
35歳のとき、パリ郊外のモンルージュに引っ越します。
36歳のとき、バレエ『パラード』の装置と衣装を製作します。
最初の妻オルガ
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《ソファに座るオルガの肖像》1918年
最初の妻オルガと結婚し、パリ8区ラ・ボエジーに住みます。
37歳のとき、ロンドンで『三角帽子』の装置と衣装を製作します。
39歳のとき、『プルチネルラ』の衣装を製作します。
この時のピカソの作品は、「新古典主義の時代」と呼ばれています。
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《道化師に扮したパウロ》1924年
40歳のとき、息子パウロが生まれます。
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《海辺を走る二人の女性》1922年
41歳のとき、コクトーの『アンティゴーヌ』の装置と衣装を担当します。
43歳のとき、バレエ『メルキュール』(ディアギレフ)の装置と衣装を製作します。
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《夢》1932年
45歳のとき、マリー・テレーズと出会います。
ドラ・マール、フランソワーズ・ジロー、ジャクリーヌと付き合います。
47歳のとき、彫刻に専念します。
49歳のとき、《ピカソ夫人像》がカーネギー賞を受賞します。
50歳のとき、『変身譚』の挿絵を制作します。
51歳のとき、マリ・テレーズと共同生活を始めます。
53歳のとき、スペインを旅行し、連作《闘牛》を描きます。
54歳のとき、娘マハが生まれます。詩を作るようになります。
55歳のとき、人民戦線政府の依頼によりプラド美術館長に就任します。
パリ6区グラン=ゾーギュスタン河岸7番地に住みます。
56歳のとき、エッチング《フランコの夢と嘘》を出版します。
ゲルニカ
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《ゲルニカ》1937年
反戦の意を込めて《ゲルニカ》を制作します。
これは1937年にあったゲルニカ爆撃へのピカソなりの抗議でした。
58歳のとき、ニューヨーク近代美術館で個展を開きます。
59歳のとき、ナチス・ドイツ占領下のパリへ戻ります。
ナチにより解放されるまで、パリを離れることができなくなります。
60歳のとき、戯曲『尻尾をつかまれた欲望』を書きます。
63歳のとき、パリ解放後最初のサロン・ドートンヌに戦争中に製作した、80点の作品を特別展示します。
フランス共産党入党します。
64歳のとき、ロンドン、ブリュッセルで個展を開きます。
フランソワーズ・ジロー
65歳のとき、フランソワーズ・ジローと共同生活を始めます。
66歳のとき、息子クロードが生まれます。
陶器製作をするようになります。
68歳のとき、娘パロマが生まれます。
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《朝鮮の虐殺》1951年
70歳のとき、《朝鮮の虐殺》を製作します。
71歳のとき、《戦争と平和》のパネルを制作します。
72歳のとき、リヨン、ローマ、ミラノ、サンパウロで個展を開きます。
ジャクリーヌ・ロック
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《手を組み合わせたジャクリーヌの肖像》1954年
73歳のとき、ジャクリーヌ・ロックと共同生活を始めます。
カンヌ「ラ・カルフォルニア」に住みます。
妻オルガが亡くなります。
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© Succession Picasso 2012 – Photo: UNESCO/J.-C. Bernath
《イカルスの墜落》1958年
77歳のとき、《イカルスの墜落》を製作します。
パリ、ユネスコ本部にあります。
80歳のとき、ジャクリーヌと結婚します。
晩年も精力的に活動
83歳のとき、日本、カナダで回顧展を開きます。
85歳のとき、パリ グラン・パレ、プティ・パレで回顧展を開きます。
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《シカゴ・ピカソ》1967年
86歳のとき、シカゴで巨大彫刻『シカゴ・ピカソ』公開します。
87歳のとき、版画に専念し、半年で347点製作します。
89歳のとき、アヴィニョン教皇庁で140点の新作油絵展を開きます。
バルセロナのピカソ美術館が開館します。
91歳のとき、フランスのムージャンの自宅で肺水腫により亡くなります。
ヴォーヴナルグ城に埋葬されました。
まとめ
・ピカソは、どんどん作風が変化し、どの作風でも優れた作品を残している天才