こんにちは!
今回は、エルンストについてです。
早速見ていきましょう!
マックス・エルンスト(1891-1976年)
マックス・エルンスト《自画像》1909年
マックス・エルンストは、ドイツの画家です。
幻想にとらわれる
ドイツのケルン近郊ブリュールで生まれました。
父親は、聾唖学校の教師でアマチュアの画家でした。
父親は、厳格なクリスチャンで信仰深く、エルンストをモデルに宗教画も描いています。
15歳のとき、愛犬が死んだ同じ日に妹が生まれました。
16歳のとき、はしかで高熱を出し、幻想を見てから、日常的に幻想を見るようになりました。
その体験が後の制作の主題になりました。
ゴッホに影響を受けて画家へ
19歳のとき、ボン大学の哲学科に入学し、哲学と精神病理、美術史を学びました。
「青騎士」で活躍する画家、マルク、マッケ、ドローネと出会いました。
21歳のとき、ゴッホ展を見て影響を受け、画家を志すようになりました。
23歳のとき、第一次世界大戦が勃発し、従軍しました。
砲兵隊技術者をしながらも、絵を描き続けました。
表現主義から離れ、ハンス・アルプとダダに出会いました。
マックス・エルンスト《水没》1919年
この頃、イタリアではデ・キリコが注目されており、エルンストも彼の作品が掲載された本を見ました。
デ・キリコの形而上絵画は、ありふれたモチーフの配置によって非現実を表現しており、その絵に影響を受けて、雑誌やカタログを切り抜いて作ったコラージュ作品を制作しました。
27歳のとき、美術館副管理長のルイーゼ・シュトラウスと結婚しました。
マックス・エルンスト《動物のいる街》1919年頃
28歳のとき、クレーと知り合いました。
デ・キリコに捧げたコラージュ・アルバム『流行は栄えよ、芸術は滅ぶとも』を出版しました。
ヨハネス・バーゲルとと「ケルン・ダダ」を結成しました。
29歳のとき、息子が生まれました。
奇妙な三角関係
マックス・エルンスト《セレベスの象》1921年
30歳のとき、パリで個展を開催しました。
パリ・ダダの中心人物ブルトンが詩人のエリュアールを連れてケルンへ来ました。
マックス・エルンスト《明快な最初の言葉に》1923年
31歳のとき、エリュアールのパスポートでパリに不法入国し、エリュアールの家に居候しました。
このときのエリュアールの妻ガラは、後のダリの妻です。
エルンストは、妻と離婚する前に、ガラと急速に親しくなり友情を越えた関係を持つようになり、2年間、ガラ、エリュアール、エルンストの奇妙な三角関係が始まりました。
上の絵は、エリュアール邸の壁にエルンストが描いた作品です。
マックス・エルンスト《男性はこれにつて何も知らない》1923年
32歳のとき、アンデパンダン展に出品しました。
マックス・エルンスト《ナイチンゲールに脅かされるふたりの子供》1924年
33歳のとき、突如エリュアールが失踪しました。
数ヶ月後、エリュアールがサイゴンで発見され、連れ戻しました。
シュルレアリスム
ブルトンの『シュルレアリスム宣言』に共感し、シュルレアリスム・グループの仲間入りをしました。
マックス・エルンスト《大いなる森》1927年
34歳のとき、フロッタージュ、グラッタージュの手法で制作しました。
シュルレアリスム・グループ展に参加しました。
35歳のとき、『博物誌』を出版しました。
パリで初の大規模な作品展を開催しました。
画家ミロとともに、セルゲイ・ディアギレフのバレエのための衣装と装置を制作しました。
マックス・エルンスト《森と鳩》1927年
36歳のとき、映画監督ジャン・オーランシュの妹マリー=ベルト・オーランシュと結婚しました。
この後も、多くの著名人、画家と浮名を流しました。
38歳のとき、『百頭女』を出版しました。
ブニュエルの頼みで、彼とダリの映画『黄金時代』の簡単な役を引き受けました。
39歳のとき、『カルメル修道会に入ろうとしたある少女の夢』を出版しました。
40歳のとき、アメリカで初の作品展を開催しました。
43歳のとき、ジャコメッティとスイスで過ごし、彫刻作品を制作しました。
『慈善週間』を出版しました。
マックス・エルンスト《都市の全景》1935-1936年
45歳のとき、画家レオノール・フィニと親密になり、2年ほど交際しました。
妻マリーと別れました。
46歳のとき、アルフレッド・ジャリの戯曲『鎖につながれたユビュ』の装置を制作しました。
イングランドの画家レオノーラ・キャリントンと出会い、パリで一緒に暮らしました。
47歳のとき、シュルレアリスム・グループから離れました。
キャリントンと南仏に移住し、彼女の小説『恐怖の館』『卵型の貴婦人』の挿絵を手がけました。
収容所に拘留される
48歳のとき、第二次世界大戦勃発とともに、敵国人として逮捕され、南仏の収容所に拘留されましたが、エリュアールの助力により保釈されました。
マックス・エルンスト《花嫁衣装》1940年
49歳のとき、今度はゲシュタポに逮捕され、再び収容所に拘留されました。
マックス・エルンスト《マレーネ》1940-1941年
この収容所には芸術家が多くいました。
亡命
マックス・エルンスト《雨後のヨーロッパⅡ》1940-1942年
50歳のとき、アメリカの助けによって、収容所を脱出し、ニューヨークへ亡命しました。
エルンストを経済的に支援した美術収集家ペギー・グッゲンハイムと結婚しましたが、キャリントンのことが忘れられず、間もなく離婚しました。(キャリントンは別の男性と結婚)
マックス・エルンスト《困惑した惑星》1942年
51歳のとき、ドリッピング手法で制作しました。
マックス・エルンスト《沈黙の目》1943-1944年
52歳のとき、ドロテア・タニングと出会い親密になりました。
マックス・エルンスト《ユークリッド》1945年
55歳のとき、タニングと結婚し、アリゾナに移住しました。
57歳のとき、アメリカ国籍を取得しました。
58歳のとき、パリへ戻り、翌年回顧展を開催しました。
63歳のとき、ヴェネツィア・ビエンナーレ絵画大賞を受賞しました。
65歳のとき、ベルリン芸術アカデミー会員に任命されました。
マックス・エルンスト《闇の神々》1957年
67歳のとき、フランスの市民権を得ました。
68歳のとき、パリで大回顧展が開かれました。
73歳のとき、『マクシミリアナ』を出版しました。
マックス・エルンスト《美しき女庭師の帰還》1967年
77歳のとき、オリヴィエ・メシアンのバレエ『ラ・テュランガリラ』の装置を制作しました。
81歳のとき、ジョルジュ・リブモン・デセーニュの『兵士のバラード』の挿絵を制作しました。
84歳のとき、ニューヨークのグッゲンハイム美術館で大回顧展が開かれました。
85歳の誕生日の1日前に亡くなりました。
まとめ
・エルンストは、様々な手法を使って描いたシュルレアリスムの画家