印象派の画家はほとんどブルジョワ?仲は良くても馴れ馴れしくしない?

こんにちは!

今回は、印象派の画家たちの空気感についてです。

早速見ていきましょう!

印象派はブルジョワで庶民ではない?

モネとルノワールとマネ

クロード・モネ《アルジャントゥイユの散歩道》1872年

1871年12月、モネは、パリ近郊のアルジャントゥイユで家族と暮らし始めました。

セーヌ川沿いの小さな町であるアルジャントゥイユは、「印象派の揺りかご」の異名を持つ風光明媚な田舎町で、パリから汽車で20分ほどの距離にあることからパリジャンたちの週末の行楽地でもありました。

上の絵の右端にはビクニックの女性たち、川にはヨットが描かれており、その川には、近代化の象徴のようなゴム工場の煙突が、何本もそびえ立っています。

エドゥアール・マネ《アルジャントゥイユの庭にいるモネ家》1874年

ちなみにモネに借家を紹介したのは、対岸のジュヌヴィリエに広大な土地を所有していたマネでした。

マネも、独身のルノワール同様にモネの家に顔を出すようになりました。

クロード・モネ《ジャンと庭にいるカミーユ》1873年

この頃の人間関係を象徴する作品群であるモネが描いた自分の家族の姿、親友ルノワールが描いたモネとカミーユ、彼らの先輩マネが描いたモネ一家、そしてモネが描いたアルジャントゥイユの自宅の庭や周りの風景は、微笑ましいと同時にとても現代的でした。

ピエール=オーギュスト・ルノワール《モネ夫人と息子》1874年

それは結婚して郊外に家を構えたモネと、そこを訪れた独身の友人ルノワール、そして近所に住む裕福な彼らの先輩マネが、お互いのカメラで撮り合ったアルバムのようでした。

ピエール=オーギュスト・ルノワール《新聞を読むクロード・モネ》1873年

32歳のルノワールが、33歳のモネを描いた肖像画です。

2人が出会ってから10年経っていました。

ピエール=オーギュスト・ルノワール《アルジャントゥイユの自宅の庭で描くモネ》1873年

フランスが普仏戦争後の復興事業のおかげで好景気だったため、デュラン=リュエルをはじめ、少しずつ願客が増えてきたこともあり、アルジャントゥイユに引っ越した後のモネは、しばらくの間は経済的にも落ち着いていました。

そのこともあってか、1872年と1873年のサロンには、モネはデュラン=リュエルから経済的支援を受けていたピサロとドガ、シスレー同様に作品を応募していません。

というのも、デュラン=リュエルは、当時のフランスの労働者の平均収入をはるかに超えた金額を彼らに支払っていました。

ブルジョワの生活を描いた

エドゥアール・マネ《水上アトリエで制作するモネ》1874年

晴れた夏の日、アルジャントゥイユにいるモネを訪ねたマネが、面白い戸外制作例としてこの作品を描きました。

経済的に余裕を持ったモネは、傾倒するドービニーのアトリエ船「ボタン号」を真似て、小さなボートを購入してそれをアトリエ船に改造していました。

ピエール=オーギュスト・ルノワール《読書するカミーユ》1872-1874年頃

当時のルノワールやマネのように、発展した郊外の庭付き住宅に暮らす家族を訪ねる独身の友人や、経済的にゆとりのある優しい先輩との交流といった光景は、現代の日本でも想像できるかと思います。

クロード・モネ《ひなげし》1873年

モネたちが描いた自分たちの姿は、神話の英雄を描いた古典的な絵画とは懸け離れた、当時ではあまりにも「現代的」でありブルジョワ的な光景でした。

そしてこの頃のモネは、近代化されたパリの新しい姿や、鉄道橋やヨットとセーヌ川の組み合わせといった自然と近代化の共存も描いています。

それらを見つめるモネの視線も、あくまでも都会に暮らすプルジョワジーとしてのものでした。

ルノワール以外全員ブルジョワ

1648年の創立以来、貴族的であろうとした美術アカデミーに対し、ブルジョワ的であることが印象派の大きな特徴でした。

印象派の仲間たちは、お互いに節度を守って付き合う典型的なフランスのブルジョワジーでした。

忘れてはならないのは、マネも印象派の他のメンバーもルノワール以外は、レベルの違いはあれど全員プルジョワ階級出身でした。

そして、ブルジョワ的といってもフランスの伝統的なブルジョワジーのことであって、決して戦後の日本における大衆化した成金的ブルジョワジーのことではありません。

マネや印象派の仲間には、現代の日本人に見られがちな仲間内特有の馴れ馴れしさもなく、または現代人が想像しやすいボヘミアン的な芸術家のステレオ・タイプからもかけ離れていました。

彼らは節度を保ってお互いを「ムッシュー」「マダム」と呼び合い、そして、よほど親しくないはり、仲間内では「君(tu)」ではなく「あなた (vous)」を互いに対して使う間柄でした。

上流階級の作法と完模な会話術を常に保ち、親族に貴族もいるドガなどは、自分の身内とリセ時代からの親友以外には「君」を使うことがなかったほどでした。

生涯独身を通したアメリカ人の画家カサットは、印象派の仲間やその周囲の人々から「メアリー」ではなく、英語で「ミス・カサット」と呼ばれていました。

技法と主題において前衛的であり革命的であったマネと印象派でしたが、反プルジョワ的で社会主義者であったピサロ以外は政治的には反体制的とは程遠く、彼らはあくまでも近代都市生活者である自分たちブルジョワジーの視点で絵画を制作していました。

そして、ブルジョワ的であると同時に、技法も主題も視点もすべて「現代的」でした。

しかし、現代生活を楽しんでいたモネの日々も、1873年、イギリスに端を発する世界恐慌によって、フランスにも不況の波が押し寄せたことで一変しました。

一気に冷え込んだ美術市場によって、デュラン=リュエルによるモネたちの作品の購入も中断せざるを得なくなってしまいます。