こんにちは!
今回は、日本で異常に人気のある画家フェルメールについてです!
(海外ではそこまで人気ありません。笑)
早速見ていきましょう!
目次
ヨハネス・フェルメール(1632-1675年)

ヨハネス・フェルメール《取り持ち女》1656年
ヨハネス・フェルメールはオランダの画家です。
オランダのデルフトで生まれました。
上の絵の左端は、フェルメールの自画像だと考えられています。
いろんな仕事をしていた父親
父親は、絹織物職人であり、画商でもありました。
そしてパブと宿屋を営んでいました。
15歳のとき、故郷デルフトを出て、画家に弟子入りします。
この修行時代の情報が残っていないため、誰に教えてもらっていたのかはわかっていません。
裕福な家の娘と結婚するが…
21歳のとき、裕福な家の娘カタリーナと結婚します。
フェルメールの父親は、あれだけいろんな仕事をしていながら、借金を抱え込んでいたり、
フェルメールはカルヴァン派のプロテスタント、カタリーナはカトリックだったことから、当初カタリーナの母に結婚を反対されていました。
結婚から8ヶ月後、デルフトの聖ルカ画家組合の親方として登録されます。
裕福な義母と一緒に暮らす
結婚当初はメーヘレンで暮らしていましたが、その後なぜか一家は、カタリーナの実家で義母と一緒に暮らしています。
理由はよくわかっていませんが、子供が15人生まれ(内4人は夭折)たため、フェルメールの稼ぎでは養えなかったからでは?といわれています。
宝石ラピスラズリを絵の具として愛用

ヨハネス・フェルメール《牛乳を注ぐ女》1660年
父親の死後、23歳のとき、父親の仕事だったパブ兼宿屋を引継ぎます。
ここでの収入やパトロン、裕福な義母のおかげで、当時純金と同じくらい高価だったラピスラズリを原料とするウルトラマリンを絵にたくさん使用できたと考えられています。
上の絵でも、そんなフェルメール・ブルーが使われていますね。
隠されていた絵

ヨハネス・フェルメール《窓辺で手紙を読む女》1659年 修復前
近年大発見のあった絵なんです!
何者かによって壁の部分が塗りつぶされていて、それを除去したら下からあるものが浮かび上がってきて…
くわしくはこちら↓
最大のパトロン

ヨハネス・フェルメール《真珠の首飾りの女》1662年
25歳のとき、生涯最大のパトロンである、デルフトの醸造業者で投資家だったピーテル・クラースゾーン・ファン・ライフェンと出会います。
彼はフェルメールを支え続け、フェルメールの作品を21点所持していました。
彼の援助があったからこそ、年間2、3作という寡作でも生活できていたのだと考えられています。

ヨハネス・フェルメール《青衣の女》1663年
大航海時代の到来で航海が発達すると、オランダでは数多くの地図が刊行され、一般家庭でも壁に飾っていました。

ヨハネス・フェルメール《天秤を持つ女》1664年
風景画が一番人気

ヨハネス・フェルメール《デルフトの小路》1658年
ヨハネス・フェルメール《デルフト眺望》1660-1661年
パトロンが亡くなってから20年後、コレクション21点が初めてオークションに出されました。
その時の一番人気はこの《デルフトの眺望》でした。
史上最年少で理事に
30歳のとき、史上最年少で聖ルカ組合の理事に就任します。
31〜32歳のとき、フランス人コレクターのバルカダール・ド・モンコニーがやってきましたが、作品の値段が高すぎると言われてしまいます。
フェルメールの元を訪れたコレクターは彼だけでした。
真珠の耳飾りの少女

ヨハネス・フェルメール《真珠の耳飾りの少女》1665年
フェルメール一番人気の作品ですね!
詳しい解説はこちら↓
最後まで手元に残した絵

ヨハネス・フェルメール《絵画芸術》1666-1668年
38歳のとき、聖ルカ組合の理事に再度就任します。
2度にわたって理事に選出されることは、非常に珍しいことだったので、生前から画家として高い評価を得ていたことがわかります。
悲惨な結末
40歳のとき、フランスのオランダ侵攻によって経済が悪化します。
フェルメールとは違った画風の若手画家の台頭によって、人気も低迷。
裕福だった義母も、戦争によって資産が減り、フェルメールの絵も、戦争勃発後1点も売れませんでした。
大量に抱えた負債をなんとかしようと必死で駆け回りましたが、どうにもならず、フェルメールは店も家も失ってしまいます。
そして43歳(または42歳)で亡くなります。
死因は不明です。
愛想が尽きた…?
フェルメールの死後、妻カタリーナは破産、過酷な生活の末、フェルメールの死後12年後に56歳で亡くなりました。
これ不思議なのは、戦争で資産が減ったとはいえ、カタリーナの母の財力をもってすれば、娘の借金なんて容易に肩代わりできたはずなんですよね〜
やっぱりフェルメールとの結婚には反対で、いろいろ許せなかったのでしょうかね…。
カタリーナの母は、フェルメールの莫大な夫妻から孫たちを守るため、遺産を直接孫たちに手渡ししています。孫は可愛いと。
忘れられた画家?
死後20年以上経った1696年の競売の時点では、フェルメールの作品は高値が付いています。
しかしその後急速に、フェルメールの名は忘れ去られてしまいます。
その理由としては、作品数が少ないうえに、それらが個人コレクションだったので、知っている人が少なく、広まらなかったからです。
また、画風も日常の光景や風景だったので、美術の権威であるアカデミーにあまり評価されなかったことも関係しているかもしれません。(アカデミーは宗教画!歴史画!みたいなお堅い絵がすき)
1866年になって、フランス人研究家トレ・ビュルガーによって見出され、フェルメールは人気に。そして今に至ります。
日本によく来る
フェルメールは寡作で36点ほどしか作品がない割に、よく日本に何枚も来ます。
日本での人気が高い証拠ですね!この静かで質素な感じが、日本人受けしたのでしょうか。
(逆に海外で人気であれば、寡作な画家の絵が日本に来ることは、ほとんどありません…ましてや代表作が来ることはありません…)
まとめ
・フェルメールは、光や質感を表現する天才 ・日本で異常に人気がある