絵画のヒエラルキーをわかりやすく解説!なんで順位があるの?

こんにちは!

今回は、絵画のヒエラルキーについて解説します。

早速見ていきましょう!

絵画のヒエラルキー

絵の主題の格付け

小説なら純文学とエンターテインメントに、音楽ならクラシックとポピュラーで区別したりと、人間は芸術にまで権威付けをしてしまうようで、もちろん美術も例外ではありませんでした。

絵画に関しても、主題をもとに格付けしていました。

17〜19世紀のアカデミーが決めた格付けによれば、最高位が「歴史画(神話画・宗教画・寓意画を含む)」、次いで「肖像画」「風俗画」「風景画」「静物画」の順でした。

当然、作品の価格もこれに準じました。

アカデミーの一員となって自作の価値を高めたい画家にとっては、歴史画家と評価されるか風景画家と見なされるかでは、その後の出世や収入に大きな開きがでました。

そこでヴィジェ=ルブランのように、得意分野(彼女の場合は肖像画)ではなく歴史画で審査を受けてアカデミー入りする例も少なくありませんでした。 

このランク分けの基準は、西洋文化に深く根づいているキリスト教の価値観に基づいています。

1位 歴史画


ピーテル・パウル・ルーベンス 三連祭壇画《キリスト昇架》1610~1611年

最上位の歴史画は、宗教・聖書・神話・寓意などを主題とする作品で構成されています。

歴史画がもっとも上位に置かれた理由は、そこに登場する神や王などの偉大さを尊重しているからです。

頂点に立つのが神であるという構図は、キリスト教圏では決して揺るがないことでした。

上の絵は、『フランダースの犬』でネロがどうしても見たかった絵としても有名なルーベンスの絵で、こういうのが宗教画です。

ジャック=ルイ・ダヴィット《ヴィーナスと三美神に武器を取り上げられるマルス》1824年

ギリシャ神話に登場する愛と美の女神ヴィーナスや軍神マルスが描かれていれば、神話画です。

アーニョロ・ブロンズィーノ《愛の勝利の寓意(愛のアレゴリー)》1540-1545年

この絵に描かれているのはヴィーナスですが、この場合は神話画というよりも寓意画です。(もちろん神話画でもあります。こういうどちらにも属する絵画というのはよくあります)

ジャック=ルイ・ダヴィット《ソクラテスの死》1787年

このような絵が古典的な物語を題材にした絵です。

歴史画を描くには、その主題についての幅広い知識と理解、効果的な彩色、多数の人物の配置や的確な動きを伴う画面構成など、幅広い教養と技量が必要でした。

つまり深い教養が画家自身にも無いと描くことができません。

逆に言えば、格下の主題にそれは必要無しという決めつけでもありました。

また構成力をがどうのこうのというわりには、発注者が画面の人物の数を指定する場合もよくありました(登場人物の数で絵の値段が変わったため)。

時代が下って購入者層が拡大し、画家もまたジャンル分け不能な作品(抽象画など)を生み出すにつれ、主題による格付けは説得力を失っていきました。

しかし絵画が王侯貴族や聖職者、また一部の富裕層の独占物だった時代、歴史画を受注できた画家はエリート中のエリートでした。

彼らは通常、親方として工房を持ち、弟子や助手を雇い教育する経営者であり教師でもありました。

歴史画は基本的に大作なので全部1人で描くことはなく、現代の人気漫画家と同じように、背景や脇役や衣装といったものは弟子にまかせる分業システムでした。

例えば、2000点とも2500点とも言われる油彩画を量産したルーベンス工房の場合、親方たるルーベンスが発注者と相談した上で構想を練って下絵を描き、その下絵にオーケーが出てからいよいよ取りかかります。

共同制作者や助手たちがそれぞれの得意分野(人物、動 物、植物、建造物など)を分担してある程度まで完成させると、最後の仕上げにまたルーベンスが絵筆をふるいました。

彼は自分が実際に描いた部分の割合によって作品の値段を変えることもあり、発注者も納得した上で購入していました。

2位 肖像画

イアサント・リゴー《ルイ14世の肖像》1701年

肖像画のモデルになるのは、地位の高い貴族や富裕層が多かったため、これも格式が高いという扱いを受けました。

3位 風俗画

ジャン・シメオン・シャルダン《食前の祈り》1740年

風俗画は、主に描かれているのが一般市民なので、高い地位の人より順位が下です。

4位 風景画

メインデルト・ホッベマ《ミッデルハルニスの並木道》1689年

人間中心主義の西洋思想においては、風景画の誕生はかなり後になってからでした。

というのも、当初、風景というのは、壁紙のような扱いだったからです。

大は小を兼ねるではありませんが、歴史画を描けば必然的に人(肖像画)や風景を描くことになるので、単品で風景だけを描いた絵は、下に見られていました。

5位 静物画

フアン・サンチェス・コターン《マルメロの実、キャベツ、メロン、胡瓜のある静物》1602年頃

この5つできっちり絵を分けれるわけもなく、例えば動物画であれば、静物画(死んだ動物)よりは上だろう、というように、厳密にこの5つに分けて絵を管理していたわけではありません。

あくまでも目安となる大まかな基準です。

女性画家には厳しい制度

このアカデミーによる歴史画至上主義は、それすなわち男性裸体のデッサンという基本的実践教育となり、そのことが女性画家の限定的な活動へとつながりました。

19世紀においても、アカデミー付属美術学校が再編されエコール・デ・ボザール(国立美術学校)となっても、女性の入学を1897年まで拒みました。

主題の格にも身分にもこだわったアカデミーは、会員が作品を販売することは職人階級に属する卑しむべきことと見なしました。

1777年には新規約で、会員の作品販売は厳しく禁じられました。

マリー=アントワネットのお抱え画家として知られるエリザベト=ルイーズ・ヴィジェ・ルブランは、アカデミーに入会する際に夫が画商であることを問題視されましたが、 マリー=アントワネットの力で正会員になることができました。

しかし、画家である限り作品を売らなくてはいけません。

そのためアカデミーは1667年以降、正会員と準会員の作品を展示する展覧会を行うことになりました。