アカデミーのサロンってなに?画家にとって超重大なイベントだった?超解説!

こんにちは!

今回は、当時の画家にとって1番大事なイベントだったサロンについて解説します。

早速見ていきましょう!

サロン

ジャン=バティスト・マルタン《ルーヴル美術館のダイアンサロンの眺め:王立絵画彫刻アカデミーの集会》1712-1721年

「サロン」の由来

第1回の会場はパレ・ロワイヤルでしたが、1725年にはルーヴル宮のサロン・ カレ(方形の間)で開かれ、そしてこの部屋の名前からアカデミーの展覧会が「サロン」と呼ばれるようになりました。

こうして世間の目に触れることによって、作品が買い上げられたり、注文を受けることができました。

そして肝心の値段に関しても、価格コントロールが目的のひとつである同業者組合では誰の作品であろうと変わらない価格設定でしたが、アカデミー会員の場合はその画家に付属する名声によって報酬も決められるようになりました。

ちなみにフランスでは18世紀になり、ブルジョワ層の拡大によって絵画を専門に扱う画商が誕生しました。

しかし、ファッションの世界でも高級ブランドとファストファッションでは格も価格も購買層も違うように、アカデミー会員にとって店先で作品を陳列して販売することは職人的であり恥ずかしいことで、決して貴族的とも高貴なこととも見なされませんでした。

そして画商は同業者組合には入れましたが、アカデミーには入れませんでした。

「第二身分」である貴族階級においても、貴族が画商のように商売に手を出すと貴族の身分を失いましたが、王立絵画・彫刻アカデミーに通うことはできました。

このように芸術家としての社会的地位向上を望んだ結果、アカデミー会員に蓄積されていった強烈なエリート意識が、19世紀後半においても前衛的な印象派たちを苦しめることになりました。

アカデミー会員にしてみれば、フランス古典主義を固持すること、イコール知識人兼芸術家としての社会的ステータスを維持することだったからでした。

ロマン主義の台頭

19世紀はナポレオンによるエジプト遠征以来、オリエント(イスラム文化圏)などに対する異国趣味も好まれるようになっていました。

感性をかきたてる異国趣味は、ロマン主義の重要な要素でした。

産業革命の発展は、異国との地理的な距離を縮めた結果、精神的な距離も縮まりました。

一方で、新古典主義の指導者アングルでさえ、ロマン主義と共通する主題を選択するほど、ロマン主義の発展によって絵画の主題は拡大しました。

そして、シャセリオーのように、意図的に新古典主義の技法とロマン主義的な感性および色彩の融合を探求した画家もいました。

当時のブルジョワジーにとっても、異国風俗は関心を引くものだったため、19世紀後半にはフランスでジャポニスム(日本趣味)が流行しました。

しかし、彼らは決して正確な日本や日本文化に興味があったわけではなく、「日本」というファンタジーの世界に憧れていただけでした。(現代の日本でもそういった異国趣味は至る所にありますよね)

保守的なフランスだからこそ

政府によって支持される古典主義を公式の様式とする美術アカデミーにとって、ロマン主義の台頭に対する反動が、その保守性をより強化させる結果となりました。

理性的で高貴な古典主義を固持することは、アカデミー会員たちの社会的地位を守ることでもありました。

古典主義と歴史画至上主義は、画家を労働者階級に属する職人ではなく知識人として、そして絵画を工芸ではなく自由学芸の一部として認めさせるための絶対条件だったからです。

そして、美術アカデミーの権威は失墜することもなく、それどころか絶対的な権力を発揮し続けることになりました。

フランスは古典主義の伝統が強いうえ、富裕層の多くも保守的な傾向が強いところがあります。

自分の審美眼に自信のないブルジョワジーがブランド品に安心感を求めるように、彼らが美術品を求める際にも、美術アカデミーのお墨付きというブランドを求めました。

洗練された趣味や審美眼は、一朝一夕にしてなるものではないことを、当時のブルジョワジーもよくわかっていました。

サロンの批評は新聞に掲載され、美術ジャーナリズムも発達し、美術評論家がサロンと鑑賞者の間に入る「道案内役」として台頭していきました。

こうして、ブルジョワジーが新たな美術品購買層になることにより、結果としてアカデミーの権威は増すことになりました。

その象徴的なものが、美術アカデミーの支配下にあった「サロン」の存在でした。

サロンは画家にとっても購買層にとっても、フランス社会に君臨した公的な「御墨付き」でした。

富裕層が小粒になったので画家も努力が必要に

エドワール・ジョゼフ・ダンタン《1880年のサロンの一角》1880年

旧体制時代の王侯貴族が「庇護者」として画家の生活の面倒を全面的に見ることができたのと違い、市民社会においてはよほどの大資産家でもない限りブルジョワジーにはそのような支援は無理でした。

そのため、画家は不特定多数の客をつかむ必要が出てきました。

サロンがほぼ唯一の展覧会であった時代、サロンに入選することが画家として生きていくためには不可欠でした。

サロンで入選を重ね名前を売ることによって、公的あるいは私的な制作注文を増やすことができました。

サロン自体は、革命勃発後の1791年からアカデミー会員および準会員以外にも開放され公募制になりました。

そこで、展示する作品を選ぶために審査制になりました。

その結果、画家たちはこの審査に通るため、アカデミーの教義である古典主義への項向を強めることとなりました。

そしてサロンへの入選を重ね、最終的に美術アカデミーの会員になることが肝心でした。

アカデミー会員が官立美術学校の教授とサロンやローマ賞の審査委員を務めることによって、古典主義(19世紀においては新古典主義)はフランスの公的な美の規範としての地位を守りました。

 ところで、サロン自体が毎年開催されるようになるのは、 よりいっそう社会のブルジョワ化が進んだルイ=フィリップの七月王政時代の1833年以降になってからででした。