印象派のはじまりと当時のフランスについて超解説!

こんにちは!

今回は、第二帝政時代と印象派のはじまりについてです。

早速見ていきましょう!

第二帝政時代と印象派のはじまり

フランスは王様が大好き

フランツ・ヴィンターハルター《ナポレオン3世の肖像》1852年頃

1789年の「フランス革命」という言葉だけでいえば、誰もが知っているかと思います。

ただそのイメージ、王政に対する庶民の輝かしい勝利のイメージがあまりに強烈なため、あたかも2度と揺りもどしのない国家体制へ180度変わったかのように錯覚してしまいます。

しかし、絶対君主制のしぶとさは、そんな生易しいものではありませんでした。

革命派の内部抗争が終わると、ナポレオンが王より格上の皇帝(各国の王を束ねたのが皇帝という考えによる)として、新王朝を開こうとしました。

彼が倒されたため、ボナパルト王家は一代で終わり、ブルボン王家が復古しました。

ギロチンで首を刎ねられたルイ16世の、弟ふたりが、ルイ18世、シャルル10世として次々玉座につきました。

やがて前者が亡くなり、後者が追い払われ、二月革命によってルイ=フィリップが失脚し、ようやく共和制が敷かれた、と思うまもなく、選挙で大統領に選ばれたナポレオンの甥が、なんと上からのクーデターを起こし、皇帝ナポレオン3世を名乗って絶対権力を掌握しました。

つまり、フランスは、王政は終わり!と潔く終わることはなく、終わったかと思えば何度も復活していました。

というのも、革命から半世紀以上たってもまだ、フランスには絶対君主を望む人が多数いたからです。

伯父と同じく成り上がりの新皇帝は、資本家を優遇して産業を育成したので、国は富み、フランスは「世界の銀行」と呼ばれるようになりました。

そして、フランス社会の変容同様の動きがフランス絵画にも見られ、サロン自体が変容していったのが第二帝政時代でした。

このナポレオン3世独裁の第二帝政時代(1852~1870年)と、印象派が芸術活動を始めた時期が重なります。 

印象派の画家たちがほとんど皆、パリの町をキャンバスにとどめようとしたのは、17世紀オランダ風俗画家たちが、王のいない自分たちの平和で豊かな生活を自讃したのと同じです。

つい昨日まで富は王侯貴族に独占され、持てる者と持たざる者の間には、神々と動物ほどの差がありました。

それが今では、貧者にも「余暇」という思恵のほどこされる世界が、まがりなりにも実現しました。 

その喜びを最大限に表現したのが、印象派の画家たちでした。

ブルジョワ化と都市化が進んだ時代

カミーユ・ピサロ《モンマルトル大通り、春》1897年

第二帝政時代は、ナポレオン3世の経済膨張政策の下、銀行の設立や公共土木事業の推進、電報などの通信機関の整備や鉄道網の拡大によって産業が発展し、フランス社会のブルジョワ化と都市化が進んだ時代でした。 

とはいえ、豊かな人はますます豊かに、そうでない人はそれなりの生活でした。

パリの人口は19世紀の初めには3〜40万人だったのが、19世紀半ばには100万人にまで増加しました。

そして第二帝政末期には、パリは180万人が暮らす大都会へと発展していました。

庶民からは、煮ても焼いても喰えないと嫌われた3世ですが、 彼が強権を発動したからこそパリは劇的な変貌に成功しました。

彼がセーヌ県知事オスマン男爵に、近代都市のモデルとなる魅力的な街作りを命じたからこそ、今のパリがあります。

オスマンは1853年から17年かけ、街を取り囲んでいた城壁を壊し、街路樹を植え、道路網を整備し、要所要所に緑の公園を配置し、上下水道を完備させ、街灯を増加設置することで、不潔で汚かった街を豹変させました。

街区ごとに建物の高さを制限したり、ファサードを重視して、都市全体をデザイン化しました。

かつての狭い曲がりくねった迷路のごとき小道は広い直線道になり、石畳はアスファルトに替えられたので、今度仮に暴動が起こっても、容易にはパリケードも築けず、石蝶も飛びにくいというわけです。

年中陽がささないため常にぬかるみ、家の窓から汚物がぶちまけられていた谷底のような生活道も、衛生的で夜も出歩ける安全な通りとなりました。

国民はみな平等ということになりましたが、意識はおいそれとは変わるわけがありませんでした。

王族がフランスから追放されても、先祖伝来の土地持ち貴族はたくさん残っているうえ、大資本をバックにした新興ブルジョワジーが、持たざる者を見下し、大いに差別しました。

ついこの前まで、パリ市内のアパートには、1階には商店、2階にはブルジョワ一家(2階は天井が高い)、3階には一般庶民、4階には労働者階級、屋根裏には芸術家を目指す貧しい学生などなど…さまざまな階級、さまざまな職種が混在していました。

オスマンによるパリ改造目的のひとつは、猛烈な勢いで地方から流入してきていた貧民、つまり潜在的犯罪者の一掃だったので、何はともあれ中心部から彼らを追いはらう必要がありました。

それには地価を高騰させ、金持ちしか住めないようにすればよいということになり、パリの住み分けができあがりました。(東部は労働者地区、西部はブルジョワ地区)

都市生活者のための娯楽も発達し、ライフスタイルまでもが近代化されました。

しかしその一方で、ブルジョワジーの台頭の陰には労働者階級の存在がなくてはならず、彼らの間では社会主義運動が広がっていきました。

クールベという異端児

アレクサンドル・カバネル《ヴィーナスの誕生》1863年

そして、美術界にも社会主義者の画家クールベが登場しました。

クールベが活動した第二帝政時代は、印象派が制作活動を始める時期でもありました。

3世はルイ14世の宮廷に憧れていたため、絵画もそれにふさわしい仰々しさが求められました。

皇帝の好みははっきりしていて、1863年のサロンで入選した、アカデミーお墨付きの完璧なヌード、わかりやすい美とエロスによって評判を得た、カバネル《ヴィーナスの誕生》を自ら買い上げました。

ギュスターヴ・クールベ《浴女たち》1853年

その一方、サロンへの反逆児クールベの《水浴する女たち》を醜いと嫌い、鞭でキャンバスを打ったなんてエピソードも。

これは半分作り話で、正確には、皇后が「馬みたいな裸」と評したのを受け、「では鞭で打とう」とふざけただけだとか。