印象派は貧しい人々を描こうとしなかったのはなぜ?画家が描いた働く人々とは?

こんにちは!

今回は、印象派の画家が描いた働く男女についてです。

早速見ていきましょう!

印象派が描いた働く人々

印象派はブルジョワ集団

画家と聞くと、生きてる間は売れなくて貧乏、死んでから作品の値段が跳ね上がる…と想像しがちですが、これは必ずしも真実ではありません。

印象派の画家たちは、労働者階級のルノワールをのぞいて、ほぼ全員がブルジョワ階級です。

程度の差はあれお金持ちでした。

モネといえば売れるまで貧乏だったことは有名ですが、それは彼の家が仕送りを渋ったからで、元々はお坊っちゃまです。

イリヤ・レーピン《ヴォルカの舟曳き》1870-1873年

そんな社会的強者の集まりだった印象派が貧しい人々をどう描いたかといえば、それは決して同時代のロシア人画家レーピンの上の絵のようにではありませんでした。

非人間的扱いを受ける肉体労働者の実相を通して社会の矛盾を告発、などというのは、印象派がもっとも避けたがる形だからです。

働く男性への興味のなさ

ギュスターヴ・カイユボット《床削り》1875年

カイユボットの上の絵では、厳しい労働が引き締まった筋肉への讃嘆や身体を無心に動かす歓びへと転化されています。

裕福なブルジョワ階級のカイユボットは、自分自身、ヨットが趣味のたくましいスポーツマンだったので、肉体労働とスポーツの共通項だけに目がいったのかもしれません。

いずれにせよ印象派は、社会の底辺で生きる男たちにはほとんど関心を示しませんでした。

神話も歴史も聖書も描かず、「今という時代」に焦点を絞ったとはいっても、その「今」を生きている肉体労働者は除外しました。 

印象派は基本的に見ていて心地よくなるようなキレイな絵しか描きませんでした。

働く女性へのリスペクトより興味

エドガー・ドガ《アイロンをかける女たち》1884-1886年

では働く女性の場合はどうかというと、こちらは、少ないとはいえ取り上げています。

娼婦の仕事も含めるとしたらもっと増えます。

エドガー・ドガ《小さな婦人帽子職人》1882年

洗濯したりアイロンをかけたり、赤子に授乳したり帽子を作ったりと、その姿態や動きの美しさではなく、面白さゆえに、キャンバスに描かれました。 

「まともな」女性は家庭の主婦になると考えられていた時代なので、外で肉体労働に従事する女性は軽蔑されていました。

貧しいから働くわけですが、この貧しいということ自体がまた軽蔑の源でした。なんて悪循環…。

貧困によって罪悪感や賎しさへ駆り立てられる、ないし駆り立てられると信じられていたということです。

しかも女性の働く場はまだ狭く限定されていました。

エドガー・ドガ《エトワール》1876年

煙草売り、花売り、洗雇女、各種工場の工員、料理人、小間使い、乳母、踊り子、歌手、プロのモデル、看護帰、そしてお針子(ルノワールは、母も妻もお針子)。

ベルト・モリゾ《食堂にて》1886年

上の絵はモリゾの家のお手伝いさんで、モリゾの娘ジュリーの教育係だったパジーが描かれています。

モリゾの場合は、男性の印象派画家とは違って、誇りを持って働く自立した女性の姿としてパジーを描いています。

働く女性の変化

ピエール・オーギュスト・ルノワール《レースの帽子の少女》1891年

パリに山ほどお針子がいたのは、既製服産業の進展により、ドレス、下着、帽子、金モールや造花といった装飾品など、仕事の種類も量も爆発的に増えたためです。

長時間労働で低賃金だったので、家族と同居していない限り、家賃を払ってのひとり暮らしをまかなうのは至難の業でした。

お針子が「娼婦予備軍」と言われたのも、無理はなかったのです。

にもかかわらず、以前に比べれば、パリの働く女性たちの生活は格段に向上しました。

ピエール=オーギュスト・ルノワール《ムーラン ・ド・ラ・ギャレットの舞踏会》1876年

ハードな1日の労働を終えてから、あるいは週末の、また月末のわずかな時間であれ、街を散策したりデパートでウィンドーショッピング、あるいは「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」のような無料の野外ダンスホールで踊ったり、アルジャントゥイユのような水辺へピクニックというのは、暮らしに大きな彩りを添えるものだったからです。

それに近代というのは、上下水道が整備されたことにより多くの人々の身体が清潔になった時代、とも言い換えられます。

かつては、王侯貴族に雇われている者とそうでない者は、同じ平民でも顔を見れば違いは一目瞭然でした。

後者は、服も顔も手足も、爪の中までも黒く、あまりに薄汚れており、かなりの悪臭だったはずです。(何十年も同じ服を着ていたので)

今やそれが一新、意志さえあれば、身をきれいに保つことが可能になりました。

おまけに都会は、通りを歩けばおおぜいの人の視線があり、ショーウィンドーで自分の姿を客観的に見ることができ、無蓋馬車に乗って通り過ぎるブルジョワ女性のファッション・センスも盗めます。

産業革命による安価な化粧品の登場も、強力な援軍でした。

エドゥアール・マネ《ナナ》1877年

貧しくても魅力たっぷりな若い女性には、ごくわずかとはいえ、這い上がるチャンス、階級を乗り越えるチャンスさえ生まれました。

それが「ナナ」のような高級娼婦たちでした。

紳士と貧困女性の接点は、誰にでも想像がつくように「性」でした。 

食欲に次ぐと言われるこの本能を唯一の手がかりに、一方は強烈な快楽を求め、他方は社会の壁をよじのぼる手段として、双方計算ずくで歩み寄り、妥協点を探る…。

住む地域こそ違え、出会いの場は、いたるところにありました。

自宅や友人宅で小間使いと、町やカフェで偶然見初めて声をかけた相手と、夜の歓楽街でドゥミ・モンディーヌ(高級娼婦)あるいは安い娼婦と…。