印象派の支持者の登場と新生サロンについて超解説!

こんにちは!

今回は、印象派の支持者の登場と新生サロンについて解説します。

早速見ていきましょう!

印象派への追い風に

印象派の支持者の登場

ピエール=オーギュスト・ルノワール《ポール・デュラン = リュエルの肖像》1910年

一方、第三共和政成立後、戦後復興景気や農産物の豊作のおかげで順調だったフランス経済の中、画商のポール・デュラン = リュエルやブルジョワジーの一部などに印象派の支持者が出てきていました。

バルビゾン派やクールベを扱っていた進歩的な父親の画廊を引き継いだばかりだったデュラン=リュエルは、普仏戦争を避けてロンドンに滞在中に、やはり同地に避難していたモネとピサロをドービニーから紹介されました。

 そして戦争終結後にパリに帰国した後、モネとピサロを通じて他の印象派たちに紹介されました。

当時、印象派は嘲笑されていましたが、先見の明があったデュラン=リュエルは、バルビゾン派の次には印象派の時代がくるとその将来性を信じ、彼らの作品を購入し始めました。

また、個人的にも経済支援を行いました。

それまで印象派の画家たちは、仲間内で(資産家のカイユボットやバジール)が購入する程度だったため、好意的な画商の登場は彼らにとって命綱のようなものでした。

デュラン=リュエルはせっせと印象派作品を集め、オークションを開きますが、いつまでたっても安価でしか売れず、次第に窮地に追い込まれていきます。

それを救ったのがアメリカでした。

破産の危後に瀕したデュラン=リュエルは、決死の覚悟で300点もの印象派絵画を携えてニューヨークへ営業に行きました。

ここでの成功が、たちまちフランスへ環流し、印象派はメジャーとなっていきました。

もし彼という目利きの画商がいなければ、個々に安く買い叩かれた作品は分散したまま、埋もれ、アメリカは印象派の全体像をつかめずに終わったかもしれません。

また王侯貴族や教会という大パトロンを失った時代、画商の仕事は重要度を増しただけでなく、巨利を得られる商売だということも証明されることとなりました。

伝統的にアカデミー会員の画家は店頭で作品を販売することを恥としてきました。

しかし、19世紀フランス社会のブルジョワ化とそれに伴う美術市場の拡大は、17世紀のオランダ社会同様に主題の多様化および画商たちの台頭と正比例しました。

特にサロンの権威が失われていった1880年代以降は、美術市場は画廊の企画による一人の画家の個展という現代にも続く形式がとられるようになっていきました。

こうして店頭で絵画を販売することも、画家にとって恥ずべきことではなくなっていきました。

第三共和政以降、モネやビサロなどは保守化を強めたサロンに挑戦する気も失せていました。

そこで、以前から構想を温めていた自分たちだけの展覧会の実現化に向かいます。 

グループ展の構想

クロード・モネ《印象、日の出》1872年

経済的に不安定な状況におかれていた画家が生活するためには、自分たちの作品を発表する場が必要でした。

1873年にはイギリスを発端とした世界恐慌が起こり、デュラン=リュエルも、印象派への援助をいったん打ち切らなければなりませんでした。

こうして1874年4月に、「第1回印象派展」と呼ばれるようになる彼らのグループ展が開かれました。

公的な「印象派」の誕生でした。

そしてそれは、美術界における革命と、それに伴うスキャンダルの始まりとなりました。

アカデミーが政府と揉める

一方サロンにおいては、フランス古典主義を固守しようとする美術アカデミーと、サロンの改革を求め始めた政府との間で、審査委員会のあり方などサロン改革をめぐって不協和音が生じるようになっていました。

その結果、政府は1881年の美術アカデミー主催によるサロンの開催を中止することを通告しました。

そのため、新たに美術アカデミーの管理から外れたフランス美術家協会が創設され、これ以降は展覧会の通称は変えずに、民間組織として独自にサロンを主催することになりました。

新生サロンも相変わらず保守的

ジョルジュ・スーラ《アニエールの水浴》1884年

しかし、新生したサロンが相変わらず保守的な審査基準だったため、1884年の落選者を中心に新たに設立された「独立美術家グループ」によって、1884年以降は無審査の展覧会「アンデパンダン展」も開かれるようになりました。

上の絵は、アンデパンダン展の設立者でもあるスーラがその展覧会に出品した作品です。

そして、時代の流れとともに美術アカデミーと民営化されたサロンの権威が徐々に失われていくにつれ、商売に徹する画商が美術市場を牽引するようになっていきました。

サロンによる「御墨付き」だけでなく、批評家の意見も重要視されていきました。

して運命の皮肉か、ちょうどサロンの運営組織の改編があった時期に、フランス古典主義の反逆者であり革命児であった印象派が、次第に社会に受け入れられていくようになります。

しかし、そのサロンこそが「自分自身を世間に問う場所」と信じ、嘲笑されながらも挑戦し続けた画家こそが、当時世間では、印象派の指導者と見なされていたエドゥアール・マネでした。