こんにちは!
今回は、印象派のみんなをつなげ、支え、若くして戦死した画家バジールを紹介します。
早速見ていきましょう!
目次
フレデリック・バジール(1841-1870年)
ジャン・フレデリック・バジール《自画像》1865-1866年
ジャン・フレデリック・バジールは、フランスの画家です。
ブルジョワ
南仏モンペリエの裕福なプロテスタントの中産階級の家庭に生まれました。
少年時代、ドラクロワにハマり《アルジェの女たち》が特に好きでした。
18歳のとき、親から、医学を同時に勉強するのを条件に、絵の勉強をすることを許され、医学部に進学しました。
モネたちとの出会い
21歳のとき、パリに行き、シャルル・グレールの画塾に入り、モネ、ルノワール、シスレーと出会い、仲良くなります。
彼らは、当時の規範だったアカデミズム絵画には興味がなく、戸外制作など新しい絵画を模索していました。
ルーヴル美術館で、ルーベンスやティントレットなど巨匠の絵を模写をし、勉強しました。
みんなをつなぐ
この頃、バジールは、従兄弟のルジョーヌの家に集まっていた芸術家たちの中にいた、セザンヌと知り合います。
そして、セザンヌを通じて、同じアカデミー・シュイスで勉強していたピサロやギヨマンとも知り合いました。
バジールは、セザンヌをルノワールに紹介しました。
バジールとモネは、グレール画塾のメンバーとアカデミー・シュイスのメンバーとを結びつける役割を果たしました。
両親の許し
ジャン・フレデリック・バジール《ピンクのドレス》1864年
夏になると、モンペリエ郊外の村で、従姉妹のテレーズをモデルに上の作品を制作しました。
秋にあった医学の試験に落第し、モンペリエに帰省すると、両親は、とうとう絵を専門に勉強することを許してくれました。というより諦めたのでしょう…。
親友メートル
バジールは親戚ルジョーヌの家を頻繁に訪れました。
ここで、ファンタン=ラトゥール、ボードレール、ナダール、メートルたちと出会います。
ジャン・フレデリック・バジール《エドモン・メートルの肖像》1869年
バジールは親戚ルジョーヌの家を頻繁に訪れ、ファンタン=ラトゥールやメートルたちと出会います。
中でもメートルはバジールの親友になりました。
2人はワーグナーのファンで、意気投合したそう。
ケガをしているモネを描く
ジャン・フレデリック・バジール《病床のモネ》1865年
23歳のとき、モネに大作《草上の昼食》のモデルになってほしいと言われ、モネのいるシャイイに行きましたが、なんとモネは事故でけがをし、宿のベッドから離れられない状態でした。
その様子を絵に描いています。(笑)
サロンへの挑戦と不満
ジャン・フレデリック・バジール《魚の静物》1866年
24歳のとき、サロンに2点出品しました。
この年のサロンは、審査委員にコローやドービニーいたため、バジールや仲間の画家の多くが入選しました。
《ピアノを弾く少女》は、今を生きているんだから、今を描かなくっちゃ!と、あえて選んだ現代的主題でしたが予想通り落選…。
そのため、あまり気に入ってはいませんでしたが落選を恐れて、上の作品も出品しており、こちらは入選しました。
仲間にアトリエを使わせてあげる
ジャン・フレデリック・バジール《ヴィスコンティ通りのアトリエ》1867年
7月、ヴィスコンティ通りにアトリエを移し、ルノワールと共同で使用しました。
経済的余裕のあるバジールは、仲間の絵を買ったり、自分の借りたアトリエを使わせたりして、仲間を支援しました。
シスレーやモネもここをよく訪れたそう。
バジール、シスレー、ルノワールのあおさぎ
ジャン・フレデリック・バジール《あおさぎ》1867年
25歳のとき、バジールとシスレーが同じあおさぎの静物を違う角度から描き、その制作中のバジールをルノワールが絵画に残しています。
後の印象派展の構想
1867年のサロンは、前年から一転して審査が厳しくなり、バジールや仲間の画家の多くは落選しました。
バジールの両親宛の手紙から、後の印象派展と同じような、サロンから独立したグループ展の開催を考えていたことがわかっています。
この頃から、風景画が少なくなり、友人や家族をモデルにした風俗画が多くなります。
プロヴァンス地方を描いた風景画はありますが、アトリエで仕上げを施すようになり、同時期のルノワールと同様、アカデミックな画風への回帰が見られます。
家族の集い
ジャン・フレデリック・バジール《家族の集い》1867-1868年
モンペリエ近郊のメリックにある母親の別荘で、マロニエの木陰のテラスに集まった家族をモデルに上の絵を制作しました。
南仏の強い光の下、強いコントラストで人物と背景が描かれています。
左端にいるのがバジールです。
裕福なブルジョワ一家の面々は、正装姿で描かれており、これらは当時最先端のファッションでした。
中央にいる従姉妹テレーズなどの水玉模様のドレスも、当時流行していたものです。
個々の人物が肖像画として成立しており、カメラを見るようにこちらを見つめています。
バジールは、何度も仕上げをし、サロンに出品後も、犬のモチーフを静物に修正するなど、変更を試みています。
1860年代の前衛的画家たちが試みた戸外における集団肖像画の最初期の作品の一つです。
構成力と、光に対する感受性が優れており、印象派の世界を予告する作品となっていると評されています。
バジールはたびたび、モネやルノワールを経済的に助けていましたが、父親からは、出費を心配して倹約を促す手紙が届いていました。
カフェ・ゲルボワ
1868年1月、広いアトリエを求め、ルノワールとともに、バティニョール地区のラ・ペ通り(現ラ・コンダミンヌ通り)に移りました。
アトリエのすぐ近くにカフェ・ゲルボワがあり、バティニョール派(後の印象派)の画家たちが集まっていました。
バジールのアトリエに、モネ、ルノワール、マネ、ゾラ、ピサロ、セザンヌ、クールベも訪れていました。
敵からの擁護
26歳のとき、サロンに《家族の集い》と《花瓶》の2作品が入選しました。
ジャン・フレデリック・バジール《村の眺め》1868年
27歳のとき、サロンに上の作品が入選します。
《村の眺め》の入選には、ジェロームが強く反対しましたが、同じく官立美術学校のアトリエで教授だったカバネルは賛成し、バジールは、官展派のカバネルの擁護を知って驚いたそう。
バジールのアトリエ
ジャン・フレデリック・バジール《バジールのアトリエ》1870年
28歳のとき、上の作品を描きました。
画中には、サロンに落選した自分や友人の作品が描かれており、アカデミーへの批判が込められています。
人気のポーズを流用
ジャン・フレデリック・バジール《夏の情景》1869-1870年
この作品は、《網を持つ漁師》のパワーアップバージョンです。
水着の若者たちの中には、聖セバスティアヌスなど、それと分かる伝統的なポーズを取っている者もいます。
こうしたアカデミックな題材を現代の風俗画に取り込もうとしていました。
サロンで展示されたこの作品を見て、批評家アストリュクは、「彼のキャンバスには陽光があふれている」と評しました。
バジール自身も、作品の評価に満足していました。
ファンタン=ラトゥールとの友情
バジールは、ファンタン=ラトゥールがアトリエを構えるボザール通りに移りました。
ジャン・フレデリック・バジール《芍薬と黒人の女性》1870年
上の作品にファンタン=ラトゥールの絵にも登場するブヴィエの壺を描いています。仲良し。
この作品は、バジールが出征前にパリで描いた最後の作品となりました。
バジールは、1870年5月、甥の誕生祝いを兼ねて、モンペリエに帰省し、メリックの別荘で制作しました。
28歳で戦死
7月19日、普仏戦争が勃発すると、8月10日、志願してズアーブ兵連隊に入りました。
そして1870年11月28日、オルレアン近郊のボーヌ=ラ=ロランドの戦いで戦死しました。
父親は、戦死の知らせを聞くと、危険を冒してすぐ戦地に赴き、2発の銃弾を受けた息子の遺体を故郷に連れ帰りました。
印象派の成功を見る前に
バジールが語っていた、サロンから独立したグループ展の構想は、普仏戦争終結後の1874年以降、モネ、ルノワール、ピサロ、ドガなどバティニョール派のメンバーによるグループ展として実現しました。
彼らは、印象派と呼ばれ、当初は酷評にさらされたが、次第に受け入れられ、20世紀には美術市場で勝利を収めます。
1876年の第2回印象派展には、ルノワールが、バジールとの友情の証として、マネが買い取っていた《バジールの肖像》を借り受けて出品しました。
バジールの父は、この展覧会を見に来て息子の肖像画と出会いました。
バジールの親友だったメートルは、バジールが購入していたモネの《庭の中の女たち》と、マネが所有していた《バジールの肖像》とを交換するよう仲介し、バジールの父は、息子の肖像を譲り受けることができました。
この第2回展には、バジールの遺作も2点出品されました。
バジールが残した油彩画は、わずか70点ほどですが、印象派誕生の貴重な記録となっています。
まとめ
・バジールは、印象派の画家たちをつなぎ、支援し、印象派の成功を見る前に若くして戦死した画家