料理上手で息子を溺愛 天使の画家クレーを超解説!

こんにちは!

今回は、クレーについてです。

早速見ていきましょう!

パウル・クレー(1879-1940年)

パウル・クレー《ドゥルカマラ島》1938年

パウル・クレーは、スイスの画家です。

クレーといえばカラフルな絵ですが、意外にも作品に色彩を取り入れたのは後になってからでした。

音楽一家

パウル・クレー《赤のフーガ》1921年

スイスのベルン近郊ミュンヘンブーフゼーで生まれました。

父親は音楽教師、母親はピアニストという音楽一家で、幼い頃からバイオリンを習っていました。

11歳のときには、ベルンのオーケストラに籍を置くほど、腕はプロ級でした。

詩や小説を書くのも好きでした。

クレーは女の子が大好きで、18歳の頃から描き始めた日記は、女の子のことばかりでした。

音楽か画家か

パウル・クレー《私の部屋》1896年

高校卒業後は、画家を志しミュンヘンへ19歳のときに出ました。

音楽か画家かで迷ったクレーは、意識的にコントロールできるという理由で絵画を選びました。

21歳のとき、美術学校に入学し、象徴主義の画家フランツ・フォン・シュトゥックから学びました。

シュトゥックはカンディンスキーの恩師でもありました。

昼はこの画塾でデッサンをし、夜は医学生に混ざって解剖学を学んでいました。

結局学校の画一的な教育が合わず、1年後には退学しました。

運命の出会い

21歳のとき、3歳年上のピアニストのリリーと演奏会で出会いました。

彼女は、年の近い父の再婚相手と上手くいかず、悩んでいました。

医者のリリーの父親は、2人の交際に反対したため、2人は極秘に婚約しました。

幼なじみの彫刻家ハラーとイタリアへ旅行に出かけました。

クレーはローマでフクロウを買ったり、バチカンや美術館でルネサンスやバロックの絵画や建築を見て回り、たまにスケッチをしました。

しかし、クレーよりも彫刻家のハラーの方が色使いが上手だったとか…。

不気味な版画作品

パウル・クレー《樹のなかの処女、インヴェンション3》1903年

ベルンに戻ってからは、版画の制作に没頭しました。

この版画作品には、以降描かなくなる人物像を多数描いていました。

なんとも不気味なクレーの版画は売れず、新聞に音楽評を書いて収入を得ていました。

昼間は制作とオーケストラの練習をし、夜は劇場へ行く生活でしたが、それでも音楽に戻ろうとはしませんでした。

極秘結婚からの主夫

27歳のとき、リリーと極秘に結婚しました。

彼女がピアノ教師や家庭教師として家計をその後15年間支えました。

なので、料理はクレーの担当でした。

毎日栄養のバランスを考えて、5、6品目作り、イタリア風、フランス風と、日によって変化もつけていました。

クレーは、ガラスに絵を描くガラス絵など、様々な新しい技法を試していました。

28歳のとき、息子フェリックスが生まれ、育児もこなしました。

息子の身長、体重、行動、喋った言葉などの記録を「フェリックスカレンダー」として残していました。

フェリックスはのちに「パウル・クレー財団」を設立し、スイスでのクレー作品の保存に尽力しました。

全然売れない

31歳のとき、初めての個展を開催しました。

出品作のタイトルや値段まで日記に残しています。

クレー的には売れる自信があったのですが、結局売れたのは56点中わずか1点のみでした。

出版社への売り込みにもことごとく失敗します。

33歳のとき、カンディンスキーやマルクと知り合い、グループに誘われ、「青騎士」展に出品しました。

一気にカラフルに

パウル・クレー《チュニス近郊のサン・ジェルマン》1914年

35歳のとき、マッケ、ルイ・モワイエとチュニジアへ旅行に出かけました。

旅行中の船が大揺れで、クレーはひどい船酔いに…。

そんな姿をマッケがスケッチしています。

さらに、彼から酔い止めと称して黄色と紫の怪しい薬をもらい、気分が高揚し…。

チュニジアでは、街の中に響く様々な音楽や、強烈な色彩のコントラストに影響を受け、色彩に目覚めました。

この時のことを「色彩は、私を永遠に捉えたのだ」と日記に残しています。

評判を聞いた詩人リルケがクレー宅を訪れました。

カラフルな水彩画は大変気に入りましたが、クレーの自信作だった版画や素描には一切興味を示しませんでした。

戦争と成功

第一次世界大戦が勃発しました。

37歳のとき、マッケや、親友マルクの戦死を知った1週間後に徴兵されました。

従軍しながらも制作を続けました。

パウル・クレー《R荘》1919年

40歳のとき、ミュンヘン新分離派を創立しました。

ミュンヘンの画商ゴルツと契約を結びました。

41歳のとき、ゴルツの画廊で大回顧展が開かれ、一躍有名になりました。

ワイマールでバウハウスの教官になりました。

パウル・クレー《セネシオ》1922年

45歳のとき、ニューヨークで個展を開催しました。

パウル・クレー《魚の魔法》1925年

46歳のとき、シュルレアリスム展に出品しました。

49歳のとき、エジプトへ旅行に出かけました。

52歳のとき、デュッセルドルフ・アカデミーの教授になりました。

ナチスと病

パウル・クレー《パルナッソス山へ》1932年

パルナッソス山とは、音楽の神アポロンが住んでいたという山です。

54歳のとき、ナチス・ドイツ軍によりバウハウスが閉鎖に追い込まれたり、美術学校から休職の通達や、アトリエの家宅捜査を受けたクレーは、身の危険を感じベルンに亡命しました。

57歳のとき、原因不明の難病である皮膚硬化症を患い、制作することが難しくなります。

58歳のとき、ナチスによる退廃芸術展に作品が17点展示されました。

亡命直後は創作もはかどらず、作品数も激減しましたが、この頃には一旦持ち直し、旺盛な創作意欲を見せました。

パウル・クレー《死と火》1940年

59歳のときには、デッサンなども含めて1年間で1253点も制作しました。

手がうまく動かないこともあって、単純化された線による独特の造形作品が生まれました。

60歳のとき、ロカルノの病院で亡くなりました。

クレーの墓石には「この世では、ついに私は理解されない。なぜならいまだ生を享けていないものたちのもとに、死者のもとに、私はいるのだから」というクレーの言葉が刻まれています。

まとめ

クレーは、無彩色の作品から色彩に目覚め、抽象的な作品を描いた画家