こんにちは!
今回は、印象派ではないけど、印象派のリーダー的存在マネについてです。
早速見ていきましょう!
目次
エドゥアール・マネ(1832-1883年)
エドゥアール・マネ《自画像》1878-1879年
エドゥアール・マネはフランスの画家です。
マネの自画像は2点しか残っておらず、その内の1点、上の作品はアーティゾン美術館で見ることができます。
マネは、印象派の1人として語られることも多いのですが、一度も印象派展には参加していません。(というよりも拒否)
印象派の画家たちとの密接な人間関係から、印象派の一員のようなイメージがついていますが、当時のフランスでは、マネは印象派の一員ではなくて「指導者」と見なされていました。
マネは、印象派の画家たちを経済的にも支援し、直接的にも間接的にも影響を与えています。
ブルジョワ
父親は法務省の高級官僚、母親は外交官の娘というブルジョワな家庭の長男として、パリで生まれました。
マネには2人の弟がいます。
母親からピアノを、芸術好きの伯父から絵を教わりました。
叔父は、マネや弟たちをルーヴルへ連れて行ってくれました。
夏には、避暑地のブルターニュの別荘に行き、毎日海を眺めていました。
諦め
11歳のとき、名門中学コレージュ・ロランに入学しました。
マネは、伯父の影響もあり絵画に興味を持っていましたが、名誉を重んじる厳格なブルジョワ家庭らしく、父親は当然自分の長男も法律家への道に進むことを望みました。
なぜなら芸術家は収入が安定しないからです。
15歳のとき、コレージュ・ロランを卒業しましたが、父親の期待に沿って法律家の道に進むにはあまりにも劣等生だったため、父親は代わりに海軍兵学校に入学させようとし、海軍兵学校の受験を受けますが失敗…。
16歳のとき、水夫の見習いでブラジル行きの船に乗りますが、航海中も写生や海を眺めているばかりで、全然水夫としての仕事はしませんでした。
翌年、パリに戻り、また海軍兵学校の受験を受けますが、これも失敗。
結局2度も受験に失敗したので、「手堅い職を!」と思っていた父親も諦め、マネは画家の道を歩むことを許されました。
その代わりに父親は、画家として栄誉と名声を得る(アカデミー会員としてサロンの常連となり、官立美術学校の教授を務める)ことを交換条件としました。
画家を目指す
18歳のとき、画家を志し、歴史画家トマ・クチュールのアトリエに入り、6年間修業します。
しかし、ロマン主義や写実主義を取り入れ、アカデミズムの画家としては世間からは革新的と見なされていたクチュールの画風にも馴染めなかったマネは、しばしばクチュールと揉めました。
父親がとりなしてくれたおかげで、 反抗的なマネがクチュールの画塾に残ることができたくらいでした。
資産家の息子であるマネは、イタリア、ドイツ、オーストリア、オランダ、ベルギ ーへの旅行や、ルーヴル美術館で模写をすることによって、ヴェネツィア派のティツィアーノやオランダのハルス、そしてスペインのベラスケスやゴヤなどから学びました。
特に、ベラスケスの大胆で荒々しい筆触と激しいコントラストの明暗法はマネに多大な影響を与えました。
誰の子?
エドゥアール・マネ《ピアノを弾くマネ夫人》1868年
弟のピアノ教師だった、シュザンヌ・レーンホフと恋仲になりました。
20歳のとき、結婚する11年前に、シュザンヌがレオンという男の子を生みました。
マネの子では?といわれていますが、よくわかっていません。
シュザンヌと結婚してからも、マネがレオンを認知していないことから、マネの父親がレオンの父では?ともいわれています。…修羅場かな?
どちらにせよ世間から隠すために、戸籍上はシュザンヌの弟として届け出ていました。
一見複権な関係でありながらマネとレオンの関係は良好で、マネはレオンを可愛がりました。
レオンは何度もマネの作品のモデルを務め、銀行家としての最初のキャリアをマネの友人ドガの一族の銀行でスタートさせています。
金利だけで十分生活できる一家に生まれ育ったため、作品が不評で売れなくても、決して生活に困ることはありませんでした。
マネはいつもシルクハットとステッキを手にし、お洒落に気を配るダンディな男で、ダンディの本場であるイギリス風のスタイルがお気に入りでした。
そして、上品で社交的だったマネには持って生まれた華があり、洗練された会話も伴って周りの人間たちを魅了しました。
洗練された都会人だったマネは、他人に対する気配りに長けていたため女性にも人気がありました。
妻のシュザンヌも、嫉妬で夫を困らせることもなく、不実な夫であったマネを自分の掌で転がすように操縦し、穏やかに包み込んでいました。
ルーヴルでの出会い
23歳のとき、すでに飽き飽きしていたクチュールの画塾を去ったマネは、ルーヴル美術館で古典絵画の模写を続けながら友人とアトリエを共同で持ちました。
当時のルーヴルは画家同士の出会いの場でもあり、ここで、アンリ・ファンタン = ラトゥールとドガに出会っています。
後にマネを介して、印象派のメンバーたちの人間関係が構成されていきました。
サロンへの挑戦
エドゥアール・マネ《アブサンを飲む男》1859年
26歳のとき、サロンに初めて上の作品を出品しますが、酔った男という現実的な主題が絵として相応しくないと酷評され、落選します。
しかし審査員のひとりだったドラクロワは評価してくれました。
サロン初入選は両親の肖像画
エドゥアール・マネ《オーギュスト・マネ夫妻の肖像》1860年
29歳のとき、サロンに上の作品と《スペインの歌手》が初入選します。
上の絵では、レジオン・ドヌール勲章を襟に着けた父親と、寄り添う母親が描かれています。
あまりにも写実的で、夫妻の間に愛情があるように見えないという批判もありましたが、サロンに作品が入選=画家としての成功への道、なので、サロンでの成功を重要視していた父親を安心させることができました。
エドゥアール・マネ《スペインの歌手》1860年
この絵、間違えたのかわざとなのかギターの構えを逆に描いてしまっています。
その後、マルティネ画廊で、主要作品を展示する展覧会を開いたところ、激しい非難にさらされてしまいました。
輪郭がはっきりしている大胆な筆づかいや、平面的で単調な色面や激しい色彩の使い方が、ラファエロ以降の絵画の伝統だった本物らしく見える三次元性からの逸脱しており、当時の人々にはあまりにも奇妙に映ったからです。
こうしたマネ特有の造形性には、日本美術コレクターだった彼の浮世絵からの影響が指摘されています。
若い画家たちは、マネの作品を見て衝撃を受けました。
30歳のとき父親が亡くなり、翌年31歳でシュザンヌと結婚しました。
父親が亡くなった後も、父と交わした約束を決して忘れず、常に世間での成功を渇望しました。
そのためマネは、キャリアの汚点になりかねない印象派展ではなく、世間が評価する名誉あるサロンに出品し続けました。
一大スキャンダル
エドゥアール・マネ《草上の昼食》1863年
1863年のサロンは、例年に比べて審査が非常に厳しく、出品作品約5,000点の内、約3,000点が落選しました。
そこで正式なサロン展覧会とほぼ同時期に落選展が開催されました。
31歳のマネの作品も落選点で展示されました。
その作品こそ、スキャンダルを巻き起こした《草上の昼食》です。
何が問題なのかというと、「現実の女性の裸を描いた」からです。
詳細はこちら↓
位置が逆
エドゥアール・マネ《死せるキリストと天使たち》1864年
32歳のときのサロンに入選したこの絵、びっくりするような間違いがあるのですが、どこかわかりますか?
なんと、イエスの傷口の位置が違うんです!
マネの絵では左にありますが、正解は右です。これもわざとなのか…。
前以上に不評
エドゥアール・マネ《オランピア》1863年
33歳のとき、サロンに作品が入選しましたが、この作品は、《草上の昼食》以上のスキャンダルとなりました。
何が問題なのかというと、「現実の娼婦を描いた」からです。
詳細はこちら↓
マネモネマネモネ…
この時のサロンに、無名時代のモネの作品も入選していました。
アルファベット順でマネと同じ部屋に作品が並べられていたことから、モネの絵をマネの絵と勘違いした人々が、マネに祝福の言葉をかけました。
自分の名前を悪用して名を売ろうとしている画家がいると誤解して憤慨したマネでしたが、モネは出会う前からマネを敬愛していました。
そして1866年、画家・彫刻家、評論家のザカリー・アストリュクを通じてモネと知り合うと、マネは8歳年下のモネを様々な面で応援するようになりました。
ベラスケス風
絵を酷評されすぎて疲れ果てたマネは、スペインへ旅行に行きます。
スペイン滞在中は、マドリードの王立美術館(現プラド美術館)でベラスケスの絵を研究しました。
エドゥアール・マネ《笛を吹く少年》1866年
34歳のときのサロンには、上の作品を出品しますが、落選。
この絵は、ベラスケスの描いた肖像画に影響を受けて作られた作品でした。
少年の顔のモデルは、シュザンヌの子レオンだといわれています。
この頃、駆け出しの作家で美術評論家のエミール・ゾラがマネのアトリエを訪れ、マネに心酔し、マネを擁護し称賛しました。
バティニョール派
マネは、近所にあったカフェ・ゲルボワの常連客でした。
このカフェには、モネ、ルノワール、シスレー、バジールなどの進歩的な芸術家や、ゾラなどの文学者がマネの周りに集まって、日夜熱い議論を交わしました。
そして、このバティニョール街のカフェに集まっていたメンバーたちが、「バティニョール派」と呼ばれるようになり、印象派は当初、この名前で知られていました。
そのため、マネも印象派の一員と誤解されやすいのですが、実際はバティニョール派の中心人物で、印象派の指導者といったところでした。
そしてドガは、マネを通じて印象派の仲間に入っていきました。
個展を開く
35歳のとき、パリ万博で自分の作品が展示されなかったことから、展覧会場近くに多額の費用をかけて会場を作り、主要作品50点を展示する個展を開きます。
費用は1万8000フランで、これは高級官僚の年収1年分(現代の日本のサラリーマンの平均年収5年分ほどくらい)に相当しました。
どこからそんなお金が出てきたのかというと、マネの母親が費用を出しています。
パリの郊外にも広大な土地を所有するマネ家は、個展の後には壊されるだけの仮設建物のために、高級官僚の年収1年分を軽く出せるくらいに資産家でした。
母親が3人の息子の中で、特にこの長男のエドゥアールを可愛がっていたことは、 この資金調達の一件からもよくわかります。
同時期にクールベも個展を開いていました。
主題においては革命的だったクールベも、造形性は伝統的だったため、マネの作品が「まったく理解できない」クールベは失礼な態度をとらないために、あえて個展会場を訪れなかったくらいでした。
個展を開いたはいいものの、興行的には微妙でしたが、マネが個展を開いたことによって、モネやバジールなどの若手の画家たちがサロンに頼らずに自分たちのグループ展を開くことを思い立たせる結果となりました。
モリゾとの出会い
エドゥアール・マネ《スミレの花束をつけたベルト・モリゾ》1872年
36歳のとき、画家ベルト・モリゾと出会います。
彼女はマネのモデルを務めつつ、マネの絵に影響を受けました。
そんな2人は恋仲を噂されることもありました。
マネが42歳のとき、マネの弟ウジェーヌと結婚しています。
ケンカするほど仲がいい
エドガー・ドガ《マネとマネ夫人》1868-1869年
ドガとは、ルーヴル美術館で模写をしているときに知り合って親しくなりました。
2人は、お互いに尊敬しつつも、遠慮なく言い合う関係でした。
ある時、ドガがマネとピアノを弾くシュザンヌ夫人を描いた絵を贈りました。
しかしマネは、妻の絵が気に入らず、切断してしまいます…!
このエピソードの詳細はこちら↓
モネと仲良くなる
マネの友人であり画家のアストリュクの紹介で、モネはマネと知り合います。
当初は誤解からモネを嫌っていたマネも、その誤解が解け親しくなり、金銭的に援助したりしています。
印象派のつもりはない
42歳のとき、第1回印象派展への参加を断っています。
印象派の画家たちと関わっていたことから、印象派に分類されがちですが、本人はサロンでの成功にこだわっていました。
エドゥアール・マネ《ナナ》1877年
45歳のとき、サロンに出品して落選します。
しかしこの作品を高級ブティックに展示したところ大人気に。
病
エドゥアール・マネ《アンリ・ロシュフォールの肖像》1881年
48歳頃から、若いときに感染した梅毒の症状が悪化し、骨が腐る病気になります。
医師から、田舎での静養を指示され、パリ郊外のベルビューに滞在しました。
寂しかったのか、友人やモデルに毎日のように手紙を書いています。
この年上の絵を含む肖像画2点を出品し、銀メダルを獲得し、それ以降のサロンには規則に則って無審査で出品できることになりました。
しかし皮肉なことに、マネが待望したサロンでの栄誉は、奇しくも社会における美術アカ デミーとサロンの権威が失われ始める時期と重なっていました。
49歳のとき、コレージュ・ロラン時代の学友だった親友のアントナン・プルーストが美術大臣に任命され、彼の働きかけによって、念願のレジオン・ドヌール5等勲章を受章することができました。
最後の大作
エドゥアール・マネ《フォリー・ベルジェールのバー》1881-1882年
左脚の痛みに耐えながら描いた最後の大作です。
この絵の詳しい解説はこちら↓
51歳のとき、絵を描き終えた後、病気の進行のため、左足を切断する手術を受けますが、10日後に亡くなりました。
それは彼の人生を象徴するかの如く、サロン開催日の前日のことでした。
そして印象派の指導者的存在だったマネらしく、その死後に高まりつつあったマネに対する評価に対し、彼の名誉をよりいっそう高めるために動いたのは印象派の仲間たちでした。
仲間との強い絆
1884年1月、官立美術学校でマネの回顧展が開かれました。
企画したのはマネの弟と弟の妻のモリゾでした。
徐々にアメリカでのマネの評価が高まっていったのに対し、フランスではマネに対する世間的な評価の高まりは遅いものでした。
1889年の万国博覧会には《オランピア》が出展されました。
そこで動いたのが、若い頃、精神的にも経済的にもマネに世話になり、彼を兄のように慕っていたモネでした。
一度も購入されたことがなく、マネ未亡人の手元にあった《オランピア》を、お金に困った彼女がアメリカの収集家に売ってしまう前に、モネは資金を集めてフランス国家に寄贈しようと考えました。
そして、モネは1年かけで苦心して募金を集めました。
マネ家の一員であるモリゾも、尊敬する義兄のために奔走しました。
そして何とか国家に受け取らせることに成功しました。
しかし《オランピア》はモネが希望したルーヴル美術館にはふさわしくないと見なされ、当時、現代美術館だったリュクサンプール宮殿に展示されることになりました。
結局、モネの友人クレマンソーが首相になっ たおかげで、《オランピア》は無事にルーヴル美術館に収められました。
それはマネの死から四半世紀近くを経た、1907年になってのことでした。
フランスの政府や保守層が、前衛的で革新的な美術に対して頑なな態度をとる傾向が、いかに強かったかがわかります。
《オランピア》に対して長年フランス社会が表した態度は、マネの後に続く印象派の画家たちを苦しめ続けることに…。
まとめ
・マネは、常に現代を描こうとした西洋絵画の革命者であり、印象派のリーダー的存在 ・本人は印象派ではない