デュシャンを超解説!アートよりチェスが大好きだった?

こんにちは!

今回は、デュシャンについてです。

早速見ていきましょう!

マルセル・デュシャン(1887-1968年)

マルセル・デュシャン《横顔の自画像》1957年

マルセル・デュシャンは、フランスの美術家です。

お金持ちの家

フランス北部のノルマンディー地方ブランヴィルで、6人兄弟の3人目として生まれました。

マルセル・デュシャン《父親の肖像》1910年

家は豊かで、父親が年金を生前分与してくれたおかげで、デュシャンは生涯お金に困ることはありませんでした。

歳の離れた兄たちは一足先にパリに出ており、デュシャンは芸術とパリに憧れていました。

いろんな絵を描く

17歳のとき、パリに出て、兄たちのアトリエに入り、一緒に暮らしました。

マルセル・デュシャン《2人の裸婦》1910年

デュシャンは、過去の様式を吸収するため、様々な様式の絵を1点ずつ描きました。

絵画に嫌気が差す

マルセル・デュシャン《階段を降りる裸体No.2》1912年

25歳のとき、アンデパンダン展に上の作品を出品しました。

しかし、仲間からは「キュビスムじゃない」「タイトルふざけすぎ」と非難されてしまいます。

このことで、絵画に嫌気がさします。

28歳のとき、自由を求めてニューヨークへ移住しました。

《大ガラス》の制作を始めました。

マルセル・デュシャン《泉》1917年(アルフレッド・スティーグリッツ撮影)

30歳のとき、アンデパンダン展にレディ・メイド作品を偽名で出品しました。

これは既製の便器サインを入れただけの作品でした。

デュシャンは、人々がどんな反応をするか見てみたくてこの作品を発表しました・

デュシャンもこの委員会の一人でしたが、他の人々が困惑している姿をニヤニヤと眺めていたそう。

結局委員会は議論の末にこの作品を無視しました。

さらに《泉》は、撤収のどさくさで紛失してしまい、スティーグリッツが撮影した写真しか残っていません。

マルセル・デュシャン《泉》1917/1964年

それから30年後、ある画商が、別の便器を持ってきて「ここにサインして欲しい」とデュシャンに頼み、サインしたのを境に、《泉》は数百点制作されました。

モナリザ…?

マルセル・デュシャン《L.H.O.O.Q.》1930年

32歳のとき、モナリザの複製画にヒゲを描いた作品を発表しました。

タイトルの「L.H.O.O.Q.」は、フランス語で読むと「エラ・ショー・オー・キュー(彼女のお尻は熱い)」となり、きわどい言葉遊びになっています。

この作品も複製をたくさん制作しています。

デュシャンの作品には複製が多いのですが、オリジナルか複製かという考え方自体が無意味だと考えていたからでした。

後年、ヒゲを描かないモナリザの複製《ヒゲを剃られたL.H.O.O.Q.》も制作しています。

33歳のとき、「ローズ・セラヴィ(デュシャンが女装して別人格を演じていたときの名前)」をマン・レイが撮影しました。

大ガラス

マルセル・デュシャン《彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも(大ガラス)》1915-1923年

36歳のとき、8年間制作していたデュシャン最大の作品《大ガラス》の制作を放棄します。

有名チェスプレーヤーに

マルセル・デュシャン《チェス・ゲーム》1910年

制作放棄以降、表立った制作をやめ、パリに移り、代わりにチェスに熱中し始めます。

40歳のとき、チェスのフランス選手権7位に。

44歳のとき、国際チェス連盟のフランス代表としてアメリカチャンピオンと対決し引き分けています。

ボックス

マルセル・デュシャン《グリーン・ボックス》1934年

47歳のとき、《大ガラス》の設計図や基本的な考えなどをまとめた「グリーン・ボックス」を制作しました。

実際にこれを元に作られた《大ガラス》のレプリカが東大にあります。

マルセル・デュシャン《ホワイト・ボックス》1967年

54歳のとき、過去作品のミニチュアを収めた「ホワイト・ボックス」を発表しました。

これを制作中にドイツ軍がパリに進攻してきたため、ボックスを抱えて逃げたそう。

55歳のとき、再びニューヨークに定住しました。

遺作

マルセル・デュシャン《(1)落下する水、(2)照明用ガス、が与えられたとせよ(遺作)》1946-1966年

59歳のとき、密かに《遺作》の制作を開始し、20年後に完成しました。

この作品の存在は、デュシャン以外、友人3人しか知りませんでした。

扉の穴から覗くと…

 

全裸の少女の像が横たわっています…

皮膚はブタの皮が使われているそう。

デュシャンの死後、作品の部品と組み立て方を記した分厚い指示書が美術館に寄贈されました。

67歳のとき、アメリカ国籍を取得しました。

81歳のとき、ある日突然倒れ、そのまま亡くなりました。

何事もなかったような平静な顔だったといわれています。

遺言により墓石には「死ぬのはいつも他人ばかり」と記されています。

ル・フィガロ誌はチェス欄に死亡記事を載せました。

まとめ

デュシャンは、「レディ・メイド」を生み出した芸術家