印象派のもう1人の女性画家マリー・ブラックモンを超解説!

こんにちは!

今回は、あまり知られていない印象派の女性画家マリー・ブラックモンについてです。

知られていないのは、そもそもの制作数も少なく、個人蔵の作品が多いため、あまり見かける機会がないのも理由の一つです。

早速見ていきましょう!

マリー・ブラックモン(1840-1916年)

マリー・ブラックモン《イーゼルの前に座る若い女性(自画像)》1916年以前

画家になったのは生計を立てるため

マリー・ブラックモンは、フランスの画家です。

マリーは、モリゾやカサットのような恵まれた環境(ブルジョワ階級のお嬢様)で生まれ育ったわけではありません。

したがって、画家の道を目指したのも生計を立てるためでした。

マリー・ブラックモン《アフタヌーンティー》1880年頃

フランス北西部にあるブルターニュのランダンヴェで2人姉妹の長女として生まれました。

上の絵は、妹のルイーズがモデルです。

父親は海軍士官でしたが、マリーが生まれて程なく亡くなり、その後、母親は再婚しました。

10代で、地元の画家で若い女性向けの絵画教室を開いていたヴァッソールから最初の絵画教育を受けました。

アングルの弟子

マリー・ブラックモン《庭の女性》1877年

18歳のとき、サロンに応募した家族を描いた作品が入選し、展示されました。

作品はアングルに認められ、パリに移り、アングルの弟子になりました。

しかし、アングルは女性画家を見下しており、男子生徒と同じようには学ばせず、マリーには花や果物や静物の絵だけを描かせました。

マリーにとってアングルは厳しく怖い存在でした。

結婚

マリー・ブラックモン《アトリエにいるフェリックス・ブラックモンの肖像》1886年

28歳のとき、ルーヴル美術館で巨匠たちの作品を模写中に、「北斎漫画」(1814)を発掘したことでも知られる版画家のフェリックス・ブラックモンと出会いました。

彼はジャポニスムのきっかけをつくった人物の1人です。

フェリックスはモリゾ同様にギシャールの弟子でもあり、ファンタン=ラトゥールの親友でした。

彼は、モリゾの母親が催す晩餐会の常連で、ドガの友人でもあったフェリックスは1回目の印象派展にも参加し、1879年と80年の印象派展にも参加していました。

マリー・ブラックモン《花束を描くピエール・ブラックモン》1887年

30歳のとき、母親の反対を押し切って結婚し、翌年息子のピエールが生まれました。

夫とともに磁器のデザインの仕事もしました。

マリー・ブラックモン《傘をさした3人の女性》1880年

夫の友人、マネやドガ、シスレーらの画家の影響を受けて 、アングルから学んだ新古典主義のスタイルから、「印象派」のスタイルに移っていきました。

マリー・ブラックモン《セーヴルのテラスにて》1880年

40歳のとき、初めて印象派展(「アンデパンダン、レアリスト、印象派の美術家たちグループによる展覧会)に出展し、翌年と、1886年の最後の印象派展の計3回参加しました。

47歳のとき、ゴーギャンと知り合い影響を受けました。

夫婦でセーヴルに住み、セーヴルの近郊で家族たちを描きました。

マリーに嫉妬する夫

マリー・ブラックモン《セーヴルの庭園にいる画家の息子と妹》1890年

フェリックスとマリーは、ウジェーヌとモリゾとも夫婦同士で親しく交流しました。

モリゾは当時としては異例なケースで、夫ウジェーヌの全面的な支援のおかげで結婚後も画家として仕事を続けることができました。

しかし、ブラックモンの場合は違っていました。

フェリックスはマリーの画家としての活動に対してまったく支援しないどころか、そのこと自体を非難していました。 

そして、フェリックスはマリーの才能を認めず、それを面と向かって否定しました。

一説では画家としては大成することができなかったフェリックスが、油彩画家としての妻の才能に嫉妬したからともいわれていますが真相は定かではありません。

マリー・ブラックモン《室内の裸婦》1911年

結局マリーは、高名な夫に反抗するわけにもいかず、結婚生活を維持するためにも画家を諦めてしまいます。

とはいえ、上の絵は70歳のときに描いた絵なので、全く絵を描かなかったというわけではないようです。(不思議な絵だなぁ…花むしったのかな…)

夫が亡くなって2年後、75歳で亡くなりました。

まとめ

・マリー・ブラックモンは、あまり知られていない印象派の画家