こんにちは!
今回は、ボナールについてです。
早速見ていきましょう!
ピエール・ボナール(1867-1947年)
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ピエール・ボナール《自画像》1889年
ピエール・ボナールは、フランスの画家です。
ブルジョワ
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ピエール・ボナール《格子柄のブラウス》1892年
パリ近郊のフォントネ=オ=ローズで生まれました。
父親は陸軍省の局長というブルジョワな家庭で、ボナールには兄と妹がいました。
上の絵は妹のアンドレがモデルです。
夏を過ごす別荘には果樹園や牧場があり、庭でピクニックをしました。
画家を目指す
18歳のとき、成績優秀なボナールは大学の法学部へ入学しました。
20歳のとき、授業が終わるとアカデミー・ジュリアンの夜間部に通い、モーリス・ドニ、ポール・セリュジエ、ポール・ランソンと出会いました。
ナビ派
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ポール・セリュジエ《タリスマン》1888年
21歳のとき、ブルターニュから戻ったセリュジエから、ゴーギャンの指導で描いた小さな上の絵を見せられ、「伝統からの解放だ」「未来へのお札だ」「お札を授けられた預言者(ナビ)だ」と、友人たちと盛り上がりました。
そして22歳のとき、セリュジエとドニと「ナビ派」を結成しました。
「ナビ」は「導く人」という意味です。(カーナビのナビ)
役所のバイトをしながら、エコール・デ・ボザール(国立美術学校)に入学し、ヴュイヤールと親しくなりました。
ロートレックよりボナールのポスターが先
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ピエール・ボナール《フランス=シャンパーニュ》1891年
画家の登竜門ローマ賞に落選し、公務員試験にも失敗しましたが、「フランス・シャンパン」のポスター公募で優勝し、パリの街中に貼り出され、注目を集めます。
ポスターといえばロートレックですが、彼の代表作《ムーラン・ルージュ》よりも、ボナールのポスターの方が先で、ボナールがロートレックに印刷の仕事を紹介しました。
アンデパンダン展
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ピエール・ボナール《庭の女たち》1891年
23歳のとき、アンデパンダン展に初めて出品し、以降毎回出品しました。
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ピエール・ボナール《庭園の女たち:白い水玉模様のドレスを着た女性》1891年
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ピエール・ボナール《庭園の女たち:猫と一緒に座っている女性》1891年
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ピエール・ボナール《庭園の女たち:巡礼者の女性》1891年
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ピエール・ボナール《庭園の女たち:市松模様のドレスを着た女性》1891年
初出品した上の作品は、去年学校で見た浮世絵に影響を受けて描いた作品でした。
形も屏風のように細長く、奥行のない文様みたいな絵でした。
ボナールは、スケッチをしながら街を超スローペースで散歩するのが好きでした。
マルトとの出会い
26歳のとき、24歳のマリア・ブルサン(通称マルト)と出会いました。
2人は激しい恋をするでもなく、なんとなくいつも一緒にいるようになり、一緒に暮らし始めました。
この頃は、ポスターや挿絵の他に、人形劇の人形を粘土で作ったりもしていました。
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ピエール・ボナール《白猫》1894年
28歳のとき、デュラン・リュエル画廊で初の個展を開きました。
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ピエール・ボナール《ダンサー》1896年
36歳のとき、ドートンヌ創設に参加しました。
収入が安定し理想的な生活へ
39歳のとき、ベルネーム・ジュス画廊で個展を開きました。
以降契約を結び、収入が安定しました。
この頃、色と形の表現に悩み始めます。
![チェリータルト、1908...](https://www.meisterdrucke.jp/kunstwerke/500px/Pierre_Bonnard_-_The_Cherry_Tart_1908_-_(MeisterDrucke-423073).jpg)
ピエール・ボナール《チェリー・タルト》1908年
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ピエール・ボナール《逆光の裸婦(オー・デ・コロン)》1908年
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ピエール・ボナール《猫と女》1912年
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ピエール・ボナール《田舎の食堂》1913年
45歳のとき、セーヌ川下流のモネのジヴェルニーの隣にあるヴェルノネで、新しい家マ・ルーロットを購入しました。
上の絵は、その家とマルトが描かれています。
![ファイル:The-red-checkered-tablecloth.jpg!HalfHD.jpg](https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/f/fc/The-red-checkered-tablecloth.jpg%21HalfHD.jpg/597px-The-red-checkered-tablecloth.jpg%21HalfHD.jpg)
ピエール・ボナール《赤いチェックのテーブルクロス》1923年以降
57歳のとき、マルトと正式に結婚しました。
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ピエール・ボナール《お風呂》1925年
58歳のとき、カーネギー賞審査員となりました。
フランスでは既に評価も定着し、アメリカでも高い評価を受けていました。
73歳のとき、これまでの各地の滞在もやめ、南仏ル・カンネに落ち着きました。
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ピエール・ボナール《浴槽の裸婦》1940-1946年
74歳のとき、妻マルトが亡くなりました。
マルトが亡くなってからも、彼女の絵を描き続けました。
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ピエール・ボナール《花咲くアーモンドの木》1947年
上の絵がボナールの絶筆です。
描きかけのこの絵が気に入らなかったボナールは、既に自分では筆を持つことが難しく、画面左下の緑色の部分を、甥の手を借りて黄色に塗りつぶしました。
79歳のとき、亡くなりました。
まとめ
・ボナールは、複雑な色彩で妻を描き続けた画家