1番印象派っぽい絵を描いた画家シスレーを超解説!

こんにちは!

今回は、一番印象派っぽい絵を描いた画家シスレーを紹介します。

早速見ていきましょう!

アルフレッド・シスレー(1839-1899年)

ピエール=オーギュスト・ルノワール《アルフレッド・シスレー》1864年

アルフレッド・シスレーはフランス生まれのイギリス人の画家です。

裕福な家

パリで4人兄弟の次男として生まれました。

父親も母親もイギリス国籍で、父親はパリで絹を扱う貿易商だったこともあり裕福でした。

18歳のとき、英語とビジネスの勉強のため叔父のいるロンドンへ行きました。

しかしビジネスよりも美術に興味を持ち、美術館に熱中し、ターナーコンスタブルなど、イギリスで主流の風景画に心惹かれました。

モネやルノワールとの出会い

21歳のとき、帰国し、バジールのすすめで当時パリで一番有名なシャルル・グレールの画塾に通い始めます。

そこでモネルノワールと知り合い、仲良くなります。

24歳のとき、落選展でマネ《草上の昼食》に衝撃を受け、モネ 、ルノワール、バジールとフォンテーヌブローの森で作品を制作しに出かけます。

彼らは、室内より戸外で風景画を制作することを選びました。

そのため、彼らの作品は当時の人が見慣れていたものよりも色彩豊か大胆だったため、あまり売れませんでした。

25歳のとき、パリでアパートを借り、貧乏だったルノワールに部屋を提供しました。

シスレーは父親の援助があったため、他の画家より経済的に恵まれた立場にありました。

ビギナーズラック

アルフレッド・シスレー《森へ行く女たち》1866年

27歳のとき、サロンにこの作品で初入選します。

結婚は50代後半

ピエール=オーギュスト・ルノワール《アルフレッド・シスレー夫婦》1868年頃

花屋の娘マリー・レクーゼクと同居し、2人の子供が生まれます。

なぜか2人が正式に結婚したのは50代後半でした。

29歳のとき、カフェ・ゲルボワに通い始めます。

そこには、モネ 、ルノワール 、バジール、ファンタン=ラトゥール、ピサロ、ドガセザンヌらがマネを慕って集まっていました。

状況が一転…

31歳のとき、普仏戦争が勃発します。

敵兵に、家と財産を奪われてしまいます。

父親は破産し、翌年亡くなってしまい、経済的援助が無くなってしまいます。

売れない

アルフレッド・シスレー《ヴィルヌーヴ=ラ=ガレンヌの橋》1872年

ピサロに画商デュラン=リュエルを紹介してもらいますが売れず…。

アルフレッド・シスレー《霧の中の隣人》1874年

35歳のとき、第1回印象派展に5点出品します。

2、3、7回展にも出品しました。

しかし、良くも悪くも注目されるのは、モネやルノワールなどで、シスレーの作品は誰の目にも止まらず…。

アルフレッド・シスレー《洪水と小舟》1876年

この絵は、1876年のセーヌ川氾濫により道路が水没し、人々が舟で通わねばならなくなった光景を描いた作品です。

この絵の怖いところは、それを画家が、何ら同情も憂慮もなく、自然への怒りもなく、無策な政府を批判するでもなく、住民のけなげさを讃えるでもなく、ただ見ていることです。

ただ水面の光の照り返しや静寂が気に入ったから、という理由で描いています。

題名を見ずにこの絵を見たら、「あぁ、ヴェネツィアみたいな水の街の絵なのかな〜」「きれいだな〜」と思ってしまいますが、これは災害地の絵です。

被害に遭った地域を描いた絵だと知ってから見たときに、呑気に「きれいだな〜」なんて思うのは不謹慎だと感じませんか?

では、シスレーはこの絵で鑑賞者に何を見せたかったのでしょうか?

アルフレッド・シスレー《ポール・マルリーの洪水》1876年

ここで思い出してほしいのは、シスレーは上流階級に属する都会人だったことです。

都会人が田舎ののどかで自然豊かな景色に憧れるように、シスレーも田舎の水辺の景色が好きでした。

つまりはそういうわけです。

リアルな田舎の生活やそこに暮らす人々には興味がありません。

たとえ住民が難儀していようと、洪水によって一変した景色が美しければそれでよかったのです。

印象派を購入する人の感覚と、描く者の感覚は合致していたことがわかります。(どちらも上流階級)

このように、全ての印象派が陽気で無意味で無害ということではないことがこの絵からもわかります。

目の前の景色を光ごと捉えよう、画家がそれだけを狙ったのに、描かれた作品から毒が発することもあるわけです…。

経済的困窮

アルフレッド・シスレー《サン=マメス六月の朝》1884年

40歳のとき、久々にサロンに出品してみますが、落選します。

44歳のとき、デュラン=リュエル主催で個展を開きましたが、全く売れず…。

扇に絵を描くバイトを始めますが続きませんでした。

芸術的にも経済的にも困窮します。

49歳のとき、デュラン=リュエル画廊でルノワール、ピサロと3人展を開き、少し売れました。

51歳のとき、国民美術協会のサロンが開設され、出品し続けます。

病と死

アルフレッド・シスレー《モレ教会(完全な太陽)》1893年

56歳くらいから、リウマチを患います。

58歳のとき、ジョルジュ・プティ画廊で大回顧展が開催されますが、全く売れず大失敗に終わります。

マリーと正式に結婚しますが、彼女は翌年亡くなってしまいます。

フランスの市民権を得ようと申請しますが、却下されてしまいます。

2度目の申請時には、病気が原因で却下されたそう。

59歳のとき、自分の死を予感し、モネに子供たちとアトリエの後見を頼み、妻が癌で亡くなった数ヶ月後、喉頭癌で亡くなりました。

いちばん印象派

アルフレッド・シスレー《モレの私の家》1892年

1900年頃、マティスがピサロに会った時に、マティスが「典型的な印象派の画家は誰か?」と尋ねると、ピサロは「シスレーだ」と答えたそう。

他の印象派の画家の多くが、後に印象派の技法を離れたなかで、シスレーは最初から最後まで印象派の技法で描き続けていました。

シスレーの描く絵は、明るくきれいな絵ばかりで、言ってしまえばワンパターンでした。

エッジの効いた作品というものが特になく、個性や独創性がないといわれています。(私は大好きですが)

生前あれだけ売れなかったシスレーの絵は、死後評価され、高く売れていきました。

まとめ

シスレーは、印象派の中で一番印象派っぽい絵を死ぬまで描いた画家。