こんにちは!
今回は、モネがついに睡蓮を描き始めます。
早速見ていきましょう!
モネと睡蓮とロンドン旅行
前回のおさらい
モネは自分の庭の池に日本風の橋を建造しました。
ノルマンディー旅行
クロード・モネ《ヴァランジュヴィルの税官吏小屋》1897年
56、57歳の冬は、ノルマンディー沿岸のプールヴィルとヴァランジュヴィルへ旅行し、断崖の上の小さな家を描いた10点ほどの作品を制作しました。
クロード・モネ《ジヴェルニー近郊のセーヌ川支流》1897年
『セーヌ川の朝』の連作に着手しました。
ベルリン、モスクワ、サンクトペテルブルクなどで作品が紹介されました。
睡蓮を描く
クロード・モネ《睡蓮》1897‐1898年
57歳のとき、ジヴェルニーの敷地内に第2のアトリエを建設しました。
『睡蓮』を描き始めました。
水の庭は55歳頃から描き始め、58歳から大量に描くようになりました。
義娘と息子が結婚
クロード・モネ《ブランシュ・オシュデ》1880年
義娘ブランシュは、17歳の頃からモネの助手兼生徒となりました。
そして義娘シュザンヌのように、アメリカ人の画家と恋に落ちました。
バトラーの友人ジョン・レスリー・ブレックでした。
しかし、この2人の関係はモネに反対されて破局に至ってしまいます…。
結局ブランシュは、一緒に育ったモネの長男ジャンと結婚しました。
そして1913年(モネ73歳)に夫ジャンに先立たれると、ブランシュはジヴェルニーに戻り、1911年にアリスに先立たれていたモネの晩年の世話をしました。
早起き
クロード・モネ《セーヌ河の朝》1898年
58歳のとき、デュラン=リュエル画廊でピサロやルノワールとのグループ展を開催しました。
ジョルジュ・プティ画廊で開催された回顧展で、56、57歳のときに旅したときのノルマンディーの作品とジヴェルニーで制作した『セーヌ川の朝』の連作が展示されました。
ジヴェルニーでのモネは、夏は太陽が出るずっと前に起床し、セーヌ川支流の風景を描きにいくというのが日課でした。
早朝、物が色づき始める時間帯に、朝靄の効果をとらえた作品を続けて制作し、個展にこれらの作品17点を出品して、成功を収めました。
モネの師匠ブーダンが亡くなりました。
次回は、3年連続でロンドン旅行に出かけたモネの話についてです。
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