奇妙な三角関係?画家ミレイを超解説!

こんにちは!

今回は、《オフィーリア》でおなじみのミレイを紹介します。

早速見ていきましょう!

ジョン・エヴァレット・ミレイ(1829-1896年)

ジョン・エヴァレット・ミレイ《自画像》1881年

ジョン・エヴァレット・ミレイはイギリスの画家です。

絵の才能

イングランド南部のサザンプトンで、馬具製造販売業者の息子として生まれました。

幼少時から優れた画才を示し、彼の才能を確信した両親は、息子に優れた教育を与えるため、10歳のとき、ロンドンへ転居しました。

11歳の時、ロンドンのロイヤル・アカデミー付属美術学校に史上最年少での入学を許可され、1846年にはわずか16歳でロイヤル・アカデミーの年次展に入賞します。

この頃ミレイは、同じロイヤル・アカデミーの学生だったハントやロセッティらとともに、アカデミーの創設者のレノルズが100年も前に確立した教育方法に対し不満を抱くと同時に、当時の画壇への反発をつのらせていました。

ラファエル前派

ジョン・エヴァレット・ミレイ《ロレンツォとイザベラ》1848-1849年

19歳のとき、仲間と「ラファエル前派」を結成しました。

保守的なアカデミーが規範とする巨匠ラファエロよりも前の素朴なイタリア絵画の理想に戻ろう!という集団です。

ラファエル前派に思想的な面で影響を与えたのは同時代の思想家であり美術批評家だったラスキンでした。

ラスキンの「芸術は自然に忠実でなければならない」という主張は、ラファエル前派が作品を創造する上でのモットーとなりました。

ミレイがこの革新的な画法で描いた最初の作品が上の作品です。

ジョン・エヴァレット・ミレイ《両親の家のキリスト》1849-1850年

21歳のときに制作した上の作品は、ディケンズに「醜い絵」だと痛烈に批判されてしまいます。

ジョン・エヴァレット・ミレイ《マリアナ》1851年

オフィーリア

ジョン・エヴァレット・ミレイ《オフィーリア》1851-1852年

23歳のとき、ロイヤル・アカデミー展に出品された《オフィーリア》(後にロセッティの妻となるエリザベス・シダルがモデル)は非常に高い評価を獲得しました。

奇妙な三角関係

ジョン・エヴァレット・ミレイ《1746年の放免令》1852-1853年

後にミレイの妻となるラスキンの妻ユーフィミア(通称エフィー・グレイ)をモデルとして上の作品を描いたり、下の作品を製作し、ラスキン夫妻との親交を深めていきました。

ジョン・エヴァレット・ミレイ《ジョン・ラスキンの肖像》1853-1854年

24歳のとき、ラファエル前派がマスコミによって攻撃されると、ラスキンはタイムズ紙上でラファエル前派を擁護しました。

感激したミレイはすぐにラスキンへ礼状を出しました。

礼状が届いた午後、ラスキンは新妻のユーフィミアを伴ってミレイを訪ねたといわれています。

ラスキンとの不幸な結婚生活に耐え切れなかったユーフィミアはミレイに惹かれ続け、ミレイ25歳のとき、ユーフィミアはラスキンとの結婚は実質の無いものであったとする婚姻無効の訴訟を起こしました。

しかしながら当時は妻が夫を捨てるような事は極めて稀で、ユーフィミアの行動は、恥ずべき行為であると受け止められ非難されてしまいます。

26歳のとき、ミレイとユーフィミアは結婚しますが、ミレイを寵愛していたヴィクトリア女王はユーフィミアの謁見を拒否し、以後ミレイに肖像画を描かせる事はありませんでした。

27歳のとき、ユーフィミアとの間に第一子が生まれます。

評価が定まらない

ジョン・エヴァレット・ミレイ《落ち葉》1856年

この頃ミレイは上の作品のようなメランコリックな特定の主題のない作品を制作していましたが、画商やコレクターなどの評価は以前の作品と比べると決して高いものではありませんでした。

ジョン・エヴァレット・ミレイ《いにしえの夢─浅瀬を渡るイサンブラス卿》1856-1857年

決定的な危機が訪れたのは、28歳のときのロイヤル・アカデミー展で上の作品を発表した時でした。

この作品は「馬が騎士に比べて大きすぎる」という点で不評を買ったのみならず、この作品を嘲笑したカリカチュアが新聞に掲載されるなど、中傷の的にすらなってしまいました。

離婚後もミレイを擁護し続けたラスキンまでもが、手のひらを返したように「単に失敗ではなく、破局である」と手厳しくミレイを非難しました。

結婚後8人の子供を養わなければならなかったミレイは「5シリング硬貨よりも小さな部分を描くのに丸1日費やすわけにはいかない 」と考え、これ以後ラファエル前派の厳格な理想から徐々に遠のいていきました。

ロマンチックな作品

ジョン・エヴァレット・ミレイ《ブラック・ブランズウィッカー》1860年

31歳のときに展示された上の作品は、当時の人に訴えかけるようなロマンチックな主題と衣装の襞の美しさで好評を博し、ミレイは失いかけた名声を取り戻しました。

以後は一貫して大衆の好みを意識した作品を描き続けました。

かわいい絵

ジョン・エヴァレット・ミレイ《初めての説教》1863年

34歳のとき、ロイヤル・アカデミーに出品した上の作品が最も人気のある作品に選ばれ、正会員として選出されました。

この作品でイギリスに少女画ブームがまき起こりました。

ジョン・エヴァレット・ミレイ《二度目の説教》1864年

ミレーは少女画を描くにあたって「ただ、微妙で静かな表情のみが完璧な美と両立する。誰が見ても美しい顔を描くなら、人格が形成され表情が決まる前の8歳前後の少女が一番よい」と語っています。

ファンシー・ピクチャー

ジョン・エヴァレット・ミレイ《シャボン玉》1885-1886年

ファンシー・ピクチャーとも呼ばれる子供を描いた絵で人々に広く愛され、彼の孫息子を描いた代表作のひとつである上の絵は、カラーで「イラストレイテッド・ロンドン・ニュース」紙に掲載され、後に石鹸の広告としても使用されました。

成功と最後の願い

ミレイは肖像画家としても成功し、ディズレーリやディケンズら当時の著名人の多くが彼に肖像画を依頼しました。

67歳のとき、ロイヤル・アカデミーの会長に選出されましたが、その年の8月に亡くなりました。

死の数日前に、ミレイはヴィクトリア女王から「何か出来ることはないか」という伝言を受け取っていました。

ミレイが妻ユーフィミアの謁見の許可を願うと、女王は聞き入れ、謁見が赦されました。

ユーフィミアもミレイの後を追うように、翌年12月に亡くなりました。

まとめ

ミレイは、歴史や文学的主題を明るい色調で描いた画家