こんにちは!
今回は、メーヘレンについてです。
早速見ていきましょう!
目次
ハン・ファン・メーヘレン(1889-1947年)
ハン・ファン・メーヘレン《自画像》
ハン・ファン・メーヘレンは、オランダの画家、画商、そして20世紀で最も独創的で巧妙な贋作者の1人です。
特にフェルメールの贋作を制作したことで有名です。
彼のオリジナルの絵を見るとよく分かりますが、画風が面白いくらいにバラバラで、さすが贋作師と言いたくなります。
後に評伝にもなった彼の告白は、人はなぜ贋作するのか?を考えさせられます。
絵が好きだった
ハン・ファン・メーヘレン《浜辺の散歩》
オランダのデーフェンテルで生まれました。
父親は敬虔なカトリック信者で厳格な教師でした。
ハン・ファン・メーヘレン《鏡を見ている少女》
幼い頃から絵に興味があり、友人の父から17世紀絵画の顔料づくりなどを学んでいました。
美大への進学希望していましたが、父の反対にあい、18歳のとき、デルフト工科大学に進学し建築を学びました。
この町でフェルメール作品に出会いました。
絵画で最優秀賞を取るも…
ハン・ファン・メーヘレン《教会装飾》1913年
24歳のとき、夢を捨てられず、建築を諦め、同校主催の学生絵画コンベでは、上の19世紀ロマン主義絵画を提出し、建築学部の学生としては初めてロッテルダム賞を取り、画家としてデビューしました。
その際、受賞作品の販売を契約しながら(メーヘレン自身による)複製画を販売していたことが発覚し、トラブルとなりました。
ハン・ファン・メーヘレン《鏡の前の女性》
ハーグの美術アカデミーで飛び込みの学位取得にも成功し、当初は高い評価を得ていました。
ハン・ファン・メーヘレン《振り子と少年》
息子も贋作師に
ハン・ファン・メーヘレン《ジャック・ファン・メーヘレンの肖像》1915年
28歳のとき、学生結婚し、生まれた息子ジャックも後に贋作画家となっています…しかも父親の絵の……。
復讐心から贋作の道へ
ハン・ファン・メーヘレン《聖書の場面》
しかし彼の自信と周囲の評価は比例せず、画家としてはけっきょく芽が出ることはありませんでした。
ハン・ファン・メーヘレン《隠者》
というのも、彼と同世代の芸術家は、シャガールやデ・キリコ、そしてデュシャンなどで、メーヘレンが得意とした古典主義的な絵は、もはや時代遅れでした。
ハン・ファン・メーヘレン《好奇心旺盛なヤギ》
ポストカードやポスターの挿絵を描いて糊口を凌いでいましたが、自分を認めようとしないオランダの美術界に復讐する、という動機から次第に贋作ビジネスに手を染めるようになりました。
ハン・ファン・メーヘレン《マレ・バッレ》1930-1940年
その際、没落した貴族から極秘に仕入れた絵画を売却しているという触れ込みで多数の贋作を制作・販売しました。
それは、権威ある美術館等に自作が飾られることでの、ねじれた自己承認の道にも見えます。
メーヘレンは生涯で18点の贋作(内フェルメールが11点)を描き、そのうち10点を売却しました。
フェルメールで成功
ハン・ファン・メーヘレン《エマオの晩餐》1937年
30代からオランダ巨匠画家の贋作制作を開始し、40代からフェルメールに注力し、財を成しました。
なかでもフェルメールに力を注いだのは、このオールドマスターもかつて今ほどの評価がなされなかった時期を経て、「再発見」的に巨匠となった点に惹かれたからなのかもしれません。
『エマオの晩餐』は明らかに力を込めて描いたものでしたが、次第に粗雑になり、人物の表情も下品になっていきます。
ピカソを軽蔑
ハン・ファン・メーヘレン《三連祭壇画 生と死》
メーヘレンはダダイスムやキュビズムなどの現代芸術を軽蔑しており、古典派の具象画こそ芸術であるとの持論を持っていました。
あるとき、ピカソを絶賛する人物の前で、即興でピカソそっくりのキュビスム絵画を描いたところ、相手からその絵を売って欲しいと言われましたが、「たとえ贋作を描くとしても劣った奴の贋作は描かない」と言って絵を破り捨てたというエピソードが伝わっています。
派手な女優と結婚
ハン・ファン・メーヘレン《女優ジョーの肖像》
39歳のとき、派手な女優のジョーと2度目の結婚をしました。
彼女とは54歳のときに形だけ離婚しましたが(戦争から自分の資産を守るために彼女の口座に移した)、その後も一緒に暮らしていました。
フェルメールをナチスに売った男?
ハン・ファン・メーヘレン《キリストと悔恨の女(姦通の女)》1942年
56歳のとき、ナチスにオランダの文化財を売却したとして、反逆罪で逮捕・起訴されました。
売却した作品はすべて自分が描いたものだと供述し、贋作が発覚し、一転無罪になりました。
ハン・ファン・メーヘレン《ヴァニタス》1926年
58歳のとき、贋造と詐欺の罪で、禁固1年の実刑判決を受けました。
しかし投獄前に心臓発作に倒れ、同年末にアムステルダムで亡くなりました。
まとめ
・メーヘレンは、稀有のフェルメール贋作師