こんにちは!
今回は、ベルト・モリゾについてです。
早速見ていきましょう!
目次
ベルト・モリゾ(1841-1895年)
ベルト・モリゾ《自画像》1885年
ベルト・モリゾは、フランスの印象派の画家です。
彼女が生きた時代、女性が1人で出かけることも、知人の紹介なしに男性に話しかけることも、そして仕事をすることもタブー視されていました。
そんなことをする女性は、娼婦と見なされていました。
国立美術学校が、女性の入学を許可したのも、ベルトが亡くなった後、1897年以降でした。
女性が「誰かの夫人」以外のものになることが難しい、そんな時代に彼女が画家として成功できたのは、ベルトの努力と才能はもちろん、ブルジョワ、周りが理解してくれたなど、運の良さもありました。
フラゴナールの家系?
フランス中部ブルージュで、シェール県知事を務めていた父エドムの娘として生まれました。
彼女には3歳年上の長姉イヴ、年子の次姉エドマ、そして4歳年下の弟ティビュルスがいました。
モリゾ一家はプールジュ、リモージュ、カーン、そしてレンヌで暮らしました。
11歳のとき、父親がパリで高級官僚の職を得たため、当時はパリ市の隣村だったパッシー(現パリ16区)に移りました。
現在でこそ都心の洗練された高級住宅地で知られるパッシーですが、当時は田園や野原がまだ残る郊外の住宅地でした。
モリゾの母マリー=コルネリの家系は、将軍や高級官僚を輩出した保守的な上層ブルジョワ階級に属していました。
一方で父親は上品な物腰の人物でしたが、当時のフランスでは珍しく職人階級出身でした。
モリゾの父方の祖父は家具職人で、父親自身も結婚する前は建築家を目指していましたが挫折しています。
彼はマリー=コルネリに一目惚れし、彼女と結婚したいがために公務員の道をえらびました。
モリゾは、芸術的な資質を父方の祖父と父親からだけでなく、ロココの画家フラゴナールからも継いでいました。
母親はフラゴナールの子孫の家系にあたると伝えられています。(フラゴーナールの曾孫)
音楽家になりたかった母親は、16歳で13歳年上のエドム・モリゾと恋愛結婚したために諦めています。
当時としては珍しく理解のある両親だった
2人の姉とモリゾは、寄宿学校で学ぶことなく自宅で上層ブルジョワ階級の娘にふさわしい女子教育、つまり、ピアノ、刺繍、作法、デッサンなどの芸術的教育を受けました。
特にピアノを弾けることがこの階級の娘たちにとって大事なことで、少女時代のモリゾは両親の友人でイタリアの大作曲家ロッシーニの前でも演奏したことがあり、彼を喜ばせています。
両親共々芸術家になる夢を果たせなかったためか、当時の上層プルジョワ階級の親としては珍しく娘たちが得意な分野で才能を伸ばすことを激励しました。
さらに両親は、ロッシーニをはじめとする芸術家を毎週火曜日に自宅に招き、三姉妹もこの晩餐会に出席することによってゲストたちから芸術的薫陶を受けました。
そしてその望みどおり、デッサンで才能を発揮したのが、三姉妹の中でも特に絆が強かったエドマとベルトでした。
長姉イヴは、デッサンの勉強を途中でやめています。
もちろんモリゾ夫妻にとって、最初は娘たちの才能を発揮させるのはお稽古事の範疇でのつもりでした。
しかし、実際にお稽古事以上の才能を見せ始めた娘たちに対し、両親はドガの父親と同じように積極的にエドマとベルトを応援しました。
16歳のとき、アングルに絵を学んだことがある新古典主義の画家のギシャールに、ベルトとエドマは絵を習いました。
ギシャールを娘たちの先生として見つけたのも母親でした。
ギシャールの画塾は、当時としては珍しく女性にも扉を開いていました。
一方で、姉妹の先生となったギシャールは、すぐに2人の絵画に対するお稽古事以上の情熱を感じ取りました。
そして、母親に手紙で彼女たちが職業として画家の道を選択した場合、モリゾ家が属する階級にとって大変なことになるであろうことを知らせています。
このギシャールの対応は、上層プルジョワ階級の娘が画家になるなど考えられなかった当時の社会的価値観を表しています。
19世紀のフランスで、画業で生計を立てていた多くの女性たちのほとんどが、若い時のルノワールのように工芸品の絵付け作業に携わるような労働者階級出身でした。
大事なモリゾ家の令嬢を託されていたギシャール先生は、エドマとベルトが上層ブルジョワ階級の娘としては異例のプロの画家として職業を持つことによって、その社会的階層にふさわしい結婚の機会を逃してしまうことを危惧しました。
しかし、そうしたギシャールの心配をよそに、両親の娘たちに対する応援は変わりませんでした。
母親は、常に付き添いとして娘たちに同行していました。
18歳のとき、ギシャールに勧められ、2人はルーヴル美術館に絵を模写しに行くようになりました。
というのも、当時女性は官立美術学校に入学することができなかったため、画家を目指す女性にとってルーヴル美術館での模写が唯一の絵画教育でした。
こうして2人は母親とともに初めてルーヴル美術館を訪れ、刺繍をする母親の横で巨匠たちの作品の模写に励むようになりました。
そして、ここで知り合ったのが画家アンリ・ファンタン=ラトゥールでした。
彼は姉妹にとって、両親を介した狭い社会ではなく、画家になるという同じ夢を持つ初めての友人でした。
こうしてファンタン = ラトゥールを通じて交友関係は広がっていき、寄宿学校にも行ったことのなかった2人の世界は大きく広がっていきました。
外での制作
ベルト・モリゾ《夏の日》1879年頃
19歳のとき、古典絵画から学ぶよりも戸外制作を望むようになった姉妹のため、ギシャールは友人で戸外制作の画家コローを紹介しました。
コローより自然から学ぶように教えられた娘たちのために両親は応援を惜しまず、翌年にはヴィル・ダヴレーに暮らすコローのそばで学べるように同地に家を借りて夏を過ごしました。
コローから、外の光と自然の描写の仕方について学びました。
コローの元には、ピサロ、モネ、ルノワール、シスレーも訪れていました。
21歳の夏にはコローの勧めで姉妹はピレネー山脈をロバに乗って旅をし、翌年の夏にはポントワーズとオーヴェルの間にあるシュー村に家を借りました。
コローは、シュー村で姉妹の面倒を見るために、お気に入りの弟子アシル・ウディノを紹介しました。
そして、ウディノはコローの友人で同じくバルビゾン派の画家ドービニーに姉妹を紹介しました。
この頃のドービニーは、すでにオーヴェル=シュル=オワーズに暮らしていました。
コローやドービニーに影響を受けたシスレー同様に、初期のモリゾの風景画はバルビゾン派の影響が明らかに表れています。
サロン
ベルト・モリゾ《オーヴェルの古い道》1863年
23歳のとき、ベルトとエドマはサロンに初出品し、初入選しました。
モリゾの入選作である上の絵は色調も筆づかいもコローの作品と間違えてしまいそうなほど似ています。
以降4回連続入選しています。
しかし、コローは妹ベルトよりも姉エドマのほうを画家としてより高く評価していました。
エドマ・モリゾ《ベルト・モリゾの肖像》1865年
エドマがのこした数少ない作品のひとつで、妹を描いた上の絵は、エドマが画家としてベルトより繊細で入念な画家だったことを表しています。
24歳のとき、父親が自宅の庭に姉妹のためにアトリエを建ててくれました。
この年1865年のサロンでは、初入選を果たしたドガも、そして連続入選したモリゾ姉妹も注目を浴びることはありませんでした。
このサロンで話題を集めたのは、《水浴(草上の昼食)》で若い進歩的な画家たちのカリスマ的な存在になっていたマネでした。
アルファベット順に展示されるため、モネやモリゾ姉妹の入選作とともにMの部屋で展示され、圧倒的な存在感で周囲の作品をかすませていたのがマネの《オランピア》でした。
《オランピア》が主題性においても造形性においても前代未聞のスキャンダルを巻き起こし、激しく糾弾されていたために、同じ部屋の他の入選作に人々の視線が向かうことはほとんどありませんでした。
ベルト・モリゾ《読書》1869-1870年
姉エドマと母を描いた作品です。
妊娠のため、実家に戻ってきたエドマと、読書中の母親が描かれています。
この絵をサロン提出前にマネに見てもらったところ、アドバイスどころか加筆し始め、マネ仕様に仕上がります。
ベルトは相当ショックだったようで、エドマ宛の手紙に「この絵がサロンに入選するくらいなら、川へ身を投げたほうがマシ」と書いています。
最終的にはサロンへ出品し、入選しています。
マネとの出会い
エドゥアール・マネ《バルコニー》1868-1869年
27歳のとき、ルーヴル美術館で友人のファンタン = ラトゥールを介してマネと出会いました。
マネのモデルを多く務めながら、マネの絵画を間近で見て学びました。
画家になれなかった姉
エドガー・ドガ《テオドール・ゴビヤール夫人》1869年
当時の上層ブルジョワ階級の娘としては完全に婚期を逃していたモリゾ家の三姉妹でしたが、姉たちが結婚していきました。
25歳のとき、長姉イヴが税務調査官のテオドール・ゴビヤールと結婚しました。
ドガはイヴの絵を何枚か描いています。
ベルト・モリゾ《読書》1873年
28歳のとき、次姉エドマが、マネの紹介で出会った海軍将校アドルフ・ポンティヨンと結婚しました。
モリゾはエドマの家族とも仲が良く、彼らはモリゾの仕事をサポートしました。
上の絵のモデルはエドマです。
エドマはパリを離れ、ブルターニュ地方のロリアンで新婚生活を送ることになりました。
いつも一緒だったエドマと離れ離れになり、2人ともまるで自分の半分を失ったような気になってしまい、とても寂しかったそう。(エドマもパリ時代が恋しいと手紙で頻繁に訴えています)
ちなみに、当時の上層プルジョワ階級における姉妹間は、彼女たちの交友関係が狭く限られていたため、現代の私たちが想像するよりもはるかに親密で濃厚なものでした。
2人はその後も親密な手紙のやりとりが残っています。
そして結婚生活および地方での生活は、エドマを絵画制作から遠ざける結果となり、 ベルトを悲しませただけでなく、エドマ自身もそのことを悲しみ、結婚を選んだ自分の決断を後悔してしまっていました。
夫の愛情と抱擁をもってしても、画家の道を諦めたエドマの虚脱感を癒すことはできませんでした。
しかし、当時の上層ブルジョワ階級の既番女性が、仕事と結婚生活を両立しようとすることなど周囲が納得するような時代ではありませんでした。
姉が結婚により絵画制作を諦めざるを得なかったことは、モリゾにより結婚に対して警戒心を抱かせる結果となってしまいました。
彼女は画家になることを諦めるいくらいなら、一生独身を通すつもりでいました。
モリゾが絵画に対する情熱をよりいっそう募らせていく一方で、20代後半になっても結婚に興味を示さない末娘の将来を案じ始めた母親は、それまでの全面的なサポートから一転し、彼女に対しても結婚を強く勧めるようになってしまいました。
こうした母親の結婚への圧力ますます彼女を憂鬱にさせたし、当時の基準からしたら痩せすぎだった娘を、母は何とか健康的に太らせようとし、娘に対して面と向かってその痩せた容姿をうるさく批判しました。
そもそもモリゾは食べるということに興味がなく、ましてや自分自身が太ることなど考えられませんでした。
こうして母娘の関係は冷たく、そして緊張をはらんだものになっていきました。
彼女と性格の似ていた父親は、それゆえに娘とは距離感があり、2人の間の潤滑油になることもできませんでした。
ライバルはマネ唯一の弟子
エドゥアール・マネ《エヴァ・ゴンザレスの肖像》1869-1870年
エドマとは結婚で離れ離れになってしまいましたが、その代わりに、マネと親密になっていきます。
マネの元に、モリゾより8歳年下の20歳のエヴァ・ゴンザレスという女性画家が弟子入りします。
芸術一家のエヴァに対してモリゾは負い目を感じ嫉妬心を抱いていました。
エヴァは忠実にマネの技法を真似しましたが、ベルトはマネの技法を吸収した上で、自分流に絵を描きました。
戦争
1870年の普仏戦争には女性のモリゾがかかわることはありませんでしたが、弟のティビュルスは召集されてドイツで捕虜になってしまいました。
マネは家族をスペインとの国境近くまで疎開させ、そうするようモリゾ家にも強く勧めましたが、モリゾの父親が自宅をドイツ人に略奪されることを恐れたためモリゾ家はパリから離れませんでした。
アトリエは憲兵隊に徴用されてしまったので、油彩画を制作することもかないませんでしたが、モリゾも両親の元にとどまりました。
1871年1月5日、フランスは降伏しましたが、弟は無事に生還しました。
しかし、3月にはパリ・コミューンの樹立により、さすがに今回は戦闘を避けるためにモリゾ家はパリからサン=ジェルマン=アン=レーに疎開しなければなりませんでした。
当然のことながら父親も弟も反パリ・コミューンで、第三共和政政府側のヴェルサイユ正規軍派だったからです。
王党派である父親は、共和政自体にはまったく共感ができませんでしたが、社会主義者=コミューン参加者に比べれば第三共和政のほうがましだと考えていました。
弟ティビュルスはヴェルサイユ正規軍として戦い、一人息子の健闘を母親は誇りに思って喜んでいました。
そのこともあり、母親はモリゾに向かってコミューンを支持していたマネとドガについて非難しました。
しかし、絵画のことだけが頭にあり、政治に対して興味がなかったモリゾは、フランス人同士が政治的に敵対し戦うことが理解できず、軽蔑の念を抱くことしかできませんでした。
パリ・コミューン終結後、バッシーの自宅に戻ったモリゾは、台なしになってしまったアトリエを見て落胆しました。
彼女は落ち着いた環境で制作することを望み、再び結婚話を持ち出し始めた母親からも逃れるため、シェルブールで春らしていたエドマの元に3カ月ほど滞在することにしました。
ベルト・モリゾ《シェルブールの港》1871年
そして、この滞在中に描いた上の絵は、翌年に画商デュラン=リュエルが初めてモリゾの作品を購入した4枚のうちの1枚となりました。
それまでのモリゾは、自分の作品を家族や友人に贈っていました。
しかし、30歳頃になると「趣味」としての絵画制作ではなく、プロの画家として作品を販売することを願うようになっていました。
シェルブール滞在中のモリゾは、すでに母親になっていたエドマのそばで暮らし、制作することによって精神的に落ち着くことができました。
やはり、エドマは彼女にとって一番の理解者でした。
そして、何よりも1歳半になっていた姪ジャンヌの存在が彼女を癒し、夢中になって姪の姿を描きました。
マネや印象派の男性画家たちは、都会や郊外を舞台にブルジョワ階級や労働者階級が興じる娯楽や余暇を多く描きましたが、モリソやカサットは、家族や知人といった身近な人々を、自宅や別荘を舞台に多く描きました。
同じ「現代生活」を描いても、彼女たちの場合は自分の身の周りの世界を描いていました。
というのも。当時の社会は現代と違い、モリゾやカサットのような社会的階層に属した女性は、好きな場所に1人で出かける自由がありませんでした。
さらに、当時は女性が戸外で制作をすることは、あまり品のいいこととは見なされていませんでした。
そして、彼女たちのような女性は、常にその社会的身分にふさわしい装いをする義務がありました。
義務として優雅な外見を維持しなければならないため、まとめにくい髪質だったモリゾにとって、戸外で制作中に髪が風で乱れることは苦労のひとつでした。
彼女自身は気にならなくても、周りがそうではありませんでした。
結婚してからの彼女は夫や娘、そして子守りなど身近にいる人物をよく描きましたが、独身時代の彼女は姉や姪をよく描きました。
男性はほとんど描きませんでした。
そして、独身時代にモリソが描いた姉たちの姿には、彼女の女性としての心情およびその変化が表れていて興味深いものでした。
たとえば、結婚したばかりのエドマを描いた《ロリアンの小さな港》(1869) や《窓辺の若い女性(ボンティヨン夫人)》(1869)では、画家になることを諦めたものの、結婚生活にも馴染めないでいるエドマの空虚感や孤独が表現されています。
それは同時にベルト・モリゾ自身の結婚観でもありました。
一方で、実家近くのトロカデロに立つ姉2人とイヴの娘ポールを描いた《ル・トロカデロからのパリの眺望》(1871~72)では、彼女たちに注がれたモリゾの微細で温かい心情が表れています。
この作品はデュラン=リュエルが購入した後に、モネの顧客でもあったエルネスト・オシュデに売られました。
そして、生まれたばかりの次女ブランシュをいとおしげに見つめるエドマを描いた 《ゆりかご》では、夫だけでは埋められなかった心の隙間が母性によって充足されているエドマの姿が描かれています。
最後にモリゾが参加した1873年のサロンに、彼女が出品したのも姪ブランシュを描いた肖像画でした。
母になった姉たちの姿に接するにつけ、彼女自身の結婚観も少しずつ変わっていきました。
そして同時に、彼女は画家としても新しい価値観を持ち始めることになりました。
印象派展
ベルト・モリゾ《ゆりかご》1872年
モリゾは大胆にもサロンと決別することを決めました。
そして、ドガとともに「画家、 彫刻家、版画家などの合資会社」に参加することにしました。
ドガは、エドマにも参加するようモリゾに頼むと同時に、マネとこのグループとの仲介役を依頼しました。
マネは彼らのグループ展に参加することを断固拒否していたからです。
マネはモリゾにも参加しないよう説得しますが彼女は聞く耳を持たず、一方でエヴァ・ゴンザレスは師であるマネの意見を受け入れ、一度も彼らのグループ展に出品することはありませんでした。
それは、マネの死から6日後のことでした。
33歳のとき、第1回印象派展に出品します。
以降7回出品しています。
1回目のグループ展が開かれた1874年は、ベルト・モリゾにとって節目の年となりました。
1月には父親が、心臓病の後遺症が原因で亡くなりました。
ベルトの父親が亡くなり、母親はなんとかベルトを結婚させようとします。
4月5日にグループ展の幕が開きました。
しかし、来場したかつての師ギシャールは、モリゾの精神状態を危惧したほど彼女の反体制的な活動を悲しみました。
そのうえ、モリゾ独特の大胆な筆づかいと、薄くぼかしたような明るい絵の具の使い方はギシャールを憤慨させてしまいました。
ベルト・モリゾ《化粧をする後向きの若い娘》1875-1880年
この絵は1880年の第5回印象派展に出品した作品です。
ふわふわのブロンドの髪、サテンのドレス、パウダーパフ、花びらの香り漂う作品です。
鏡の下の枠部分に、サインが入っています。
マネの弟と結婚
ベルト・モリゾ《ワイト島のウジェーヌ・マネ》1875年
33歳のとき、父親の喪が明けたモリゾは、40歳のマネの弟ウジェーヌとパッシーの教会で結婚式を挙げました。
当時としては晩婚でした。
父親が亡くなったことで、ウジェーヌと結婚できました。
モリゾの父は、共和主義者のマネ三兄弟と娘との交流に反対しており、結婚を許すはずがありませんでした。
一方、母親は、決してウジェーヌのことを気に入っていたわけではありませんが、娘が独身でいるよりはましという現実的な結論に至りました。
何しろ、ウジェーヌは末娘が唯一拒んでいない相手であったうえ、無職で金利生活者ではあるが、マネ家自体がモリゾ家と社会的階層が近かったことも幸いしました。
エドゥアール・マネ《扇を持つベルト・モリゾ》1874年
2人の結婚に際し、マネ家の長男エドゥアールは彼が描いた彼女の最後の肖像画である上の絵を贈りました。
エドガー・ドガ《ウジェーヌ・マネの肖像》1874年
そして、新婚夫妻の共通の友人ドガは、ウジェーヌのプロポーズを受け入れたノルマンディーを背景に描いた上の絵を婚約の贈り物にしています。
戸外制作をしないドガは、パリのアトリエで想像しながらノルマンディーの野原を描きました。
結婚後も制作活動をやめるつもりのなかったモリゾにとって、何よりも幸いだったのが、ウジェーヌ自身も絵を描く日曜画家だったことです。
彼はマネの制作活動を身近で見てきたこともあり、画家である妻を理解することができました。
彼女が姉たちの結婚相手のような男たちを選んでいたら、画家と結婚生活を両立することは不可能だったはずです。
ただし、ウジェーヌは妻の制作活動をサポートはしましたが、上層ブルジョワ階級に属していた男性らしく、妻にも常にその階層にふさわしい装いであることを求めました。
戸外制作の際に彼女の髪が乱れると、ウジェーヌはすぐに不機嫌になってしまうようなところがありましたが、2人が属していた階層と時代を考えれば仕方がないことでした。
マネ三兄弟の中で一番内気で控えめな性格だったウジェーヌは、画家としてサロンにも印象派のグループ展にも参加することはありませんでした。
しかし、彼は公私共に妻に尽くすことができ、自分の生涯を妻に捧げることができました。
ウジェーヌは兄のためにしたように、モデルになるのは本来は嫌だったにもかかわらず妻のためにボーズをとりました。
グループ展の企画に積極的にかかわり、モリゾに代わって彼女の作品の展示を手がけたのもウジェーヌでした。
もちろん、戸外制作の際に、荷物を運んだのもウジェーヌでした。
挙げ句の果て、2回目のグループ展に出品の際に、批評家から心を病んでいるかのようにいわれた妻の名誉を守るため、その批評家に決闘を申し込もうともしました。
ウジェーヌはモリゾの夫であり、 保護者であり、そしてマネージャーでもありました。
ウジェーヌ・マネ夫人となった彼女が、新婚生活を送ったのも慣れ親しんだパッシーでした。
ベルト・モリゾ《ワイト島のウジェーヌ・マネ》1875年
34歳の夏、イギリスのワイト島とロンドンへ少し遅れた新婚旅行に行きました。
島のホテルの部屋で描いた上の絵は、モリゾが初めて描いた成人男性の姿であり、彼女の中で芽生えていた夫に対する深い愛情が漂っています。
最愛の娘ジュリー
ベルト・モリゾ《ブージヴァルの庭にいるウジェーヌ・マネと娘》1881年
37歳のとき、娘のジュリーが生まれます。
彼女は娘をたくさん描きました。
彼女は生涯にわたり自分が愛情を抱いている相手を描いた際、女性らしい温かい感情と幸福感が画面に滲み出ました。
特に娘ジュリーを出産して以降、この愛娘は常に母親の深い愛情がこもった絵筆で描かれていきました。
計8回開かれたグループ展で、モリゾが1879年の第4回に唯一不参加になったのも、前年の1月にジュリーを出産後、体調が回復しなかったためでした。
また、この愛娘をモリゾの母親がその腕に抱くことはありませんでした。
35歳のとき、一時確執もありましたが、幼い頃から娘の才能を伸ばすことを支援し続けてきてくれた母親が亡くなりました。
そんな母親は、新婚時代のモリゾを世の多くの母親のように人生の先輩として助言し続けました。
2人の結婚当初、モリゾの母親はウジェーヌが娘のモリゾを独占していると非難する一方で、ウジェーヌの母ウジェニーはモリゾが息子のウジェーヌを独占していると非難しました。
モリゾは、たとえどんなに親しい相手でもなれなれしさを嫌がった人だったこともあり、この結婚に反対だった姑のウジェニーは、新しい嫁のモリゾがよそよそしすぎると感じていました。
そしてウジェニーは、モリゾが自分の主催する晩餐会に顔を出さないのも気に入りませんでした。
モリゾは無愛想に見られがちで、とっつきにくく、社交性からは程遠い性格だったため、姑との距離がなかかなか縮まりませんでした。
他人が感じるこうした彼女の冷たさは、後に夫からだけでなく姉や弟からも非難されることになります。
しかし、誰に対しても感情を表すことがなかったため、モリゾの性格はいっそう激しさを増していきました。
そして、ウジェニーが何よりも気に入らなかったこととして、モリゾがマネ家の嫁であるにもかかわらず、夫ウジェーヌの全面的な支援をよいことに、画家という職業を両立させようとしていたことでした。
この時代の彼らが属していた社会的階層を考えれば、ウジェニーの感情は至極当然でした。
モリゾの母親が、ウジェーヌはモリゾに依存しすぎていると考えていた一方で、反対の立場からしてみれば、姑ウジェニーは息子がモリゾに尽くしすぎていると考えていました。
ウジェニーからしてみれば、息子たちの中で一番のお気に入りだった長男エドゥアールの妻シュザンヌは嫁として合格でした。
モリゾと違ってリラックスした性格のシュザンヌは、そのふくよかな体型のように感情表現も豊かで素直に自分を表しました。
彼女は本来ならマネ家にふさわしい家柄の出身ではありませんでしたが、結婚後はピアニストとしての公的な活動はしていないうえ、何といってもレオンという男子を生んでいます。
ウジェニーはレオンを孫息子として愛していました。
この時代はフランスでも男児の誕生はめでたく、女児よりも喜ばれていました。
モリゾ自身も後に娘ジュリーを産んだ際、マネの家名を継ぐ男児でないことを長姉イヴに残念だと漏らしているほどでした。
一方、モリゾは自分も姑のウジェニーに愛されていないと思っただけでなく、夫であるウジェーヌも他の兄弟に比べてウジェニーから大事にされていないと感じていました。
結婚前はあれほどまでに確執があった母娘でしたが、結婚後のモリゾは母親と過ごすことによって精神的なバランスを保つことができました。
ただし、夫のウジェーヌは妻が実家の母親や姉妹たちと長く時間を過ごすことを嫌がり、彼女に向かっては怒りをあらわにしました。
そしてそれを知ったモリゾの母親の中では、ウジェーヌに対する評価がますます下がっていきました。
しかし、現実的な性格だったモリゾの母親は、娘に対してはウジェーヌをマネ家の誰よりも褒め、長男の嫁シュザンヌよりもモリゾのほうがあらゆる点で優れていると彼女を励まし、夫を愛しているのならマネ家の人々に対しても愛想よくできるはずだと諭しました。
ウジェーヌのことを初めから当てにしていなかったモリゾの母親は、末娘と彼女の姑との関係修復に動きました。
42歳のとき、エドゥアール・マネが亡くなりました。
姑のウジェニーは、長男エドゥアールの死の翌年1884 年1月に開かれた回顧展のために、モリゾがウジェーヌ共々奔走したことを見届けることができました。
社会から酷評され続けたマネの名誉挽回を目的とし、彼の回顧展を準備したモリゾは、マネ家の嫁として堂々と務めを果たしました。
その会期中にモリゾは43歳の誕生日を迎えています。
マネ三兄弟の末っ子ギュスターヴも、兄の死の翌年に療養先のコート・ダジュールで49歳で生涯を閉じました。
長男亡き後のウジェニーは、ウジェーヌとモリゾの元で暮らしていましたが、発作を起こして以来、体が不自由になっていたウジェニーに負担をかけまいと、モリゾはギュスターヴの死を知らせませんでした。
結局、ウジェニーが最晩年に頼りにしたのは、お気に入りの嫁シュザンヌではなくモリゾでした。
ウジェニーは末息子の死を知らぬまま、その翌年の1885年に世を去りました。
42歳の冬、パッシーの凱旋門に程近いヴィルジェスト通りに、今までのように借家ではなく、夫ウジェーヌが設計し新たに建てた館が完成しました。
その育ちのよさからもうかがえるように、モリゾは客間の壁に自分の作品を掛けるような品のない真似は決してしませんでした。
客間に掛かっていたのは義兄マネや画家として尊敬する友人のドガ、または仲間のモネやルノワールの作品でした。
ドガ、モネ、そしてルノワールは、毎週木曜日にウジェーヌとモリゾが開くようになった晩餐会の常連でもありました。
他にも、詩人で友人のマラルメ、マネ家との最初の縁をつないでくれたファンタン=ラトゥール、そしてアメリカ人で印象派の仲間であるカサットもヴィルジェスト通りのマネ邸に集いました。
天真爛漫なジュリーは、こうした偉大な才能の持ち主たちに囲まれて成長していきました。
1886年の最後のグループ展の開催に向けて積極的にかかわったウジェーヌが、その翌年から体調を崩し始め、外出を控えるようになってしまいます。
性格もますます神経質で気難しくなり、騒ぎが嫌いなモリゾは夫の機嫌を損ねないため、無駄な口論をするよりも彼に対しては沈黙と同情を選びました。
そのため、木曜日のヴィルジェスト通りの自宅での晩餐会は2人にとって大事な気晴らしになり、普段は神経質なウジェーヌも愛想よく客を迎えました。
46歳のとき、詩人マラルメの詩の挿絵を、ルノワール、ドガ、モネと一緒に描きました。
マラルメはベルト亡き後、ジュリーの後見人になっています。
49歳のとき、メアリー・カサットと仲良くなり、一緒に日本展を見学します。
51歳のとき、病状が悪化していった夫ウジェーヌが、長い苦しみの後に息を引き取りました。
モリゾは、自分までも死んだら娘はどうなるのかと苦悩しました。
彼の死の翌月、5月5日から6月12日にかけて、病を押してまでウジェーヌが企画したとおりにモンマルトル大通りのプソ=ヴァラドン画廊で彼女の初の個展が開かれました。
しかし、ウジェーヌ亡き後、モリゾは展示作業を自分でしなければなりませんでした。
彼女は50歳を過ぎて、否でも応でも1人で現実に立ち向かわなくてはならなくなりました。
母も夫も亡き後、彼女が頼れるのは自分自身しかありませんでした。
悲しみは続き、ウジェーヌの死の数カ月後には、3年前に夫を亡くしていた長姉イヴが55歳で世を去りました。
ゴビヤール家にはイヴの義弟しか残っていなかったため、モリゾが遺児となった姪2人、ポールとジャニーを引き取り、一緒に暮らし始めました。
モリゾは、絵の才能があった姪のポール・ゴビヤールを可愛がり、ポールもモリゾの下で熱心に絵を勉強し、ジュリー同様にモリゾの生徒となりました。
ウジェーヌ以外の男性を描くことのなかったモリゾでしたが、この頃も彼女は娘や姪たち、そ してジュリーの親友やルノワールと共有したモデルといったように、若い娘たちが彼女の着想源になっていました。
53歳のとき、ブリュッセルの自由美術学展に出品し、大成功を納めます。
マネが描いた彼女の肖像《すみれの花束をつけたベルト・モリゾの肖像》(1872)が競売に出され、モリゾは無事にこの作品を手に入れることができました。
22年前の自分との再会でした。
そして、亡くなったばかりのカイユボットが政府に遺贈を希望した68点のコレクションの中に、自分の作品がなかったことに傷ついていたモリゾのために、マラルメとルノワールが尽力し、彼女の《夜会服を着た若い女性》(1879)が国家買い上げとなりました。
印象派の仲間だったカイユボットには画家として認められなかった彼女でしたが、情に厚い友人たちのおかげでフランス政府からは認められました。
54歳のとき、ジュリーのインフルエンザがうつり、病状が急に悪化し、肺炎を起こし、亡くなりました。
モリゾは、パッシー墓地で夫ウジェーヌと義兄エドゥアールが眠る傍らに埋葬されました。
葬儀には、友人のルノワール、ドガ、マラルメ、ピサロらが参列しました。
孤児となったジュリーは、モリゾと仲が良かった詩人で評論家のマラルメが後見人となり、モネ 、ルノワール、ドガもジュリーを支援し、親戚のもとで暮らしました。
そして翌年3月の一周忌には、デュラン=リュエル画廊で彼女の回顧展が開かれました。
企画にかかわったのは、ジュリーと彼女の庇護者たちであるマラルメ、ドガ、モネ、そしてルノワールでした。
前年には国家が作品を買い上げていたのにもかかわらず、その死亡証明書の職業の構には「無職」と官吏によって記入され、その死の2年後になってやっと官立美術学校が女性の入学を許したような時代と社会において、彼女の功績はとても大きいものでした。
まとめ
・ベルト・モリゾは、家庭内の日常を優しげな雰囲気で描いた画家 ・白を多用した