早く生まれすぎた天才画家セザンヌの生涯について解説!

こんにちは!

今回は、後世の画家に多大な影響を及ぼしたセザンヌについてです!

早速見ていきましょう!

ポール・セザンヌ

ポール・セザンヌ《自画像》1880-1881年頃

ポール・セザンヌはフランスの画家です。

南フランスのエクス=アン=プロヴァンスで生まれます。

父親は最初は帽子屋でしたが、地元の銀行を買収し、頭取にまでなり、金融業で儲けたブルジョワでした。

セザンヌには妹が2人おり、妹の方がしっかりしていました。

ゾラとの出会いとリンゴ

ポール・セザンヌ《果物入れ、グラス、りんご》1879-1880年

13歳のとき、ブルボン中学校に入学します。

1歳下のゾラと仲良くなります。

ゾラはパリ生まれで親を亡くし、エクスではよそ者で、いじめの的でした。

セザンヌは、いじめられていたゾラに話しかけたことによって、いじめっ子たちにボコボコにされます。

次の日ゾラが、友情のしるしとしてカゴいっぱいのリンゴをプレゼントします。

そのときから2人は親友に。

30年続いたゾラとの文通

19歳のとき、ゾラが生活のためパリへ引っ越してしまいます。

この頃からゾラと文通を始め、詩や恋愛について語り合いました。

20歳のとき、父親の意向で法科大学に入学しましたが、同時に素描の勉強も続けていました。

ゾラは、絵の道に進むかどうか迷うセザンヌに、早くパリに出てきて絵の勉強をするようにと繰り返し勧めていました。

パリへ

22歳のとき、ゾラの勧めもあり、大学を中退し、父親を説得してパリに行きます。

美術学校の入学試験に失敗したため、画塾アカデミー・シュイスに通い、ピサロと出会います。

アカデミー・シュイスでは、田舎者らしい粗野な振る舞いや、仕事への集中ぶりで、周囲の笑い者になっていました。

自信喪失で戻る→パリへ

すっかり自信を喪失したセザンヌは、ゾラの引き留めにも関わらず、エクスに戻り、父親の銀行で働きながら、美術学校に通いました。

23歳のとき、またゾラに励まされてパリへ行き、アカデミー・シュイスに通います。

この時に、モネルノワールと出会っています。

後にマネやゾラ、そしてモネやルノワールが集まっていたカフェ・ゲルボワにセザンヌも顔を出すようになりますが、都会のお洒落な雰囲気と彼らにイマイチなじむことができませんでした。

サロンに入選できたのは1回だけ…

ポール・セザンヌ《『レヴェヌマン』紙を読む画家の父ルイ=オーギュスト・セザンヌの肖像》1866年

サロンへの入選を目指すも、17年間落選し続けます。

サロンの審査員だった友人ギウメにお願いしてお情けで入選したこの絵が、唯一の入選作品でした。

当時、審査員は推薦枠を持っており、その弟子の作品は合格しやすかったため、彼にお願いして弟子にしてもらい、無事サロンに入選することができました。

『レヴェヌマン』は、ゾラがマネの《笛吹きの少年》を落選にしたサロンへの批判を書いた記事でした。

保守的な父親が、超革新的な新聞を読むはずがないので、これは意図的にセザンヌが描いていることになります。

画家になることを反対している父親に認めてもらいたくて描いたのでしょうか。

その後もサロンに何度も出品していますが、落選しています。

セザンヌ的には、サロンが喜ぶ古典的な作品を送って入選を目指すのではなく、サロンの審査員が見たこともないような攻撃的な作品を送りつけてやる!というスタンスでした。

30歳のとき、18歳のモデルでお針子のオルタンス・フィケと出会います。

セザンヌ流の《草上の昼食》

ポール・セザンヌ《草上の昼食》1870-1871年

マネの《草上の昼食》に影響を受けて、セザンヌも《草上の昼食》を描きます。

しかし、誰からも注目されませんでした。

33歳のとき、オルタンス・フィケとの間に長男ポールが誕生しますが、父親には内緒にしていました。

ピサロと一緒に戸外制作をし、風景の素晴らしさに気付き、色彩が明るくなります。

印象派展

ポール・セザンヌ《オーヴェールの首つりの家》1873年

35歳のとき、ピサロに誘われて第1回印象派展に3点出品しました。

上の絵の家で首つりがあったわけでも無いようなので、なぜこんな不気味なタイトルなのかわかりませんが、この絵は300フランの高値で売れています。

ポール・セザンヌ《現代のオランピア》1873-1874年

こちらもマネの《オランピア》のオマージュです。

マネよりも明るい色調と素早いタッチで描いた作品でしたが、世間からは酷評されます。(そもそもマネの作品も酷評されていました)

ゾラとの差

セザンヌの絵がたいして売れないなか、ゾラはベストセラー作家になっていました。

39歳のとき、父親に妻子のことがバレて仕送りを止められてしまいます。

そんなセザンヌをゾラが経済的に支援しました。

結婚したけど別居状態

ポール・セザンヌ《サント・ヴィクトワール山》1902-1904年

47歳のとき、オルタンスと正式に結婚します。息子は14歳でした。

その数ヶ月後に父親が亡くなり、莫大な遺産を手にします。

オルタンスとはパリとエクスで別居状態でした。

ゾラと絶交?

ゾラが小説『制作』を発表します。

いろいろうまくいかなくて最終的には自殺してしまう画家が主人公の小説なのですが、セザンヌは自分をモデルにして描いたと思い込んで傷つき、ゾラとは絶交、といわれてきましたが、

近年になってこの出来事以降に、セザンヌがゾラ宛に書いた「君がパリに帰ってきたら会いに行くよ」という手紙が発見されたことによって、絶交していなかったことがわかっています。

徐々に売れ始める

ポール・セザンヌ《リンゴとオレンジのある静物》1899年頃

51歳のとき、画商やコレクターが絵を買うようになり、次第に認められていきます。

56歳のとき、ヴォラールの画廊で初の個展を開きます。

画商ヴォラールは、セザンヌの才能を認め、絵を売ってほしいと頼みましたが、当初はなかなか売ってもらえなかったそう。

セザンヌとの専属契約を結ぶために、彼は1年間で155回も絵のモデルを務めたそう。

ヴォラールに対しても容赦無く「リンゴのようにじっとしてろ」と命令したとか…。

ポール・セザンヌ《大水浴図》1900-1906年

59歳のとき、エクスでひとりで制作に没頭しました。

67歳のとき、戸外制作中にひどい雨に打たれ、パリからの妻子の到着を待たず、1週間後に亡くなります。

まとめ

セザンヌは、形態を単純化し、多視点で描いた、近代絵画の父