食人?!実際の事件を題材にした「メデューズ号の筏」を解説!

こんにちは!

今回は、ジェリコーの《メデューズ号の筏》を解説します。

早速見ていきましょう!

メデューズ号の筏

テオドール・ジェリコー《メデューズ号の筏》1819年

27歳のときに制作した作品です。

約5 × 7メートルもある、超巨大な作品です。

巨大な絵画であるため、前景の人物は、実物の倍ほどの大きさがあります。

絵の前に立つと、画面に引き込まれるような臨場感のある作品です。

実際にあった事件が元になっている

テオドール・ジェリコー《メデューズ号の筏》1818年

1816年7月5日、フランス海軍の軍艦メデューズ号が難破した際に起きた事件を描いた作品です。

アフリカ西海岸のセネガルの植民地化を目指して出港したメデューズ号が座礁し、救命艦の不足から多くの死者を出しました。

この事件、タイタニック号的な感じで危機迫り沈没したのかと思いきや、むしろ差し迫った沈没のおそれもないのに、元亡命貴族の無能な指揮ショマレーが艦放棄の決定を下し、本人はじめ身分の高い仕官らだけがビビって救命ボートで逃げ出したことがそもそもの間違いでした。

船長や高級士官たちは救命ボートに乗って助かりますが、149人(147人説も)の乗客や船員は、急ごしらえのありあわせの木材で作った筏に降ろされたまま見捨てられてしまいます。

幅9×長さ20メートルの筏に、148人の男性と1人の女性が乗っていました。

この1人の女性は、従軍商人の妻といわれていますが、彼女は漂流6日目に衰弱したからとの理由で海中に放りこまれてしまったとか…。

わずかな水とビスケットだけ、炎天下のなかで漂流し、嵐による溺死、飢餓、病死、脱水、飲み水をめぐっての喧嘩や殺し合い、自殺、食人、狂気にさらされ、ほとんどの人が救出までの13日間で死亡しました。

救助船があらわれたときに生きていたのはわずか15人、そのうち5人は数日後に力尽きてしまったため、最終的に生き残ったのは、わずか10人でした。

筏にはそこらじゅうに血の跡があり、マストには日干しにした人肉片がぶらさがっていました…。

当局は、復古王政の腐敗と無能をさらした事件の隠ぺいをはかりましたが、2人の生存者が事件の真相を報告書にして出版したため、事件が露見し、国際的なスキャンダルとなりました。

ジャーナリズム絵画

テオドール・ジェリコー《メデューズ号の筏》1819年

神話や歴史などの場面ではなく、同時代に起きた事件やスキャンダルをテーマとして描いた作品として、当時とても革新的でした。

極限状態に置かれた人間の狂気が伝わってきます。

躍動感や激しさのある作品で、ジャーナリズム的な絵画だといわれています。

死体をスケッチ

ジェリコーは、2人の生存者から当時の状況を聞き、デッサンや習作を重ね、1年かけてこの絵を完成させました。

広いアトリエに引っ越し、友人の協力のもと、筏の模型を作り蝋人形を置いて、様々な構図を試したり、大病院で解剖された手足をもらってきて、自宅で腐敗していく段階を克明に描写したり、死体収容所で死体を写生して、リアリティーを追究しました。

 

中央手前で倒れている人物のモデルは、仲の良かった後輩のドラクロワです。

ドラクロワは、制作中の本作に触れた衝撃を「ジェリコーのアトリエを出ると、狂人のように走り出し、自分の部屋にたどり着くまでとまることができなかった」と語っています。

その影響は、《民衆を導く自由の女神》へと受け継がれました。

希望を描く

 

遠くに救出船が見えます。

なんとか気付いてもらおうと、必死に布を振ります。

船が難破した場面ではなく、遠くに船を見つけた場面を描いたのは、困難のなかでも諦めず、なんとか生き抜こうとする人間の姿を劇的に描きたかったからです。

奴隷制に反対?

筏の頂点にいる布きれを振っている黒人男性は、ジェリコーの奴隷制に反対する政治的声明では?と物議を醸しました。

カラヴァッジョやミケランジェロの影響

明暗の対比を用いて場面を劇的に演出しているところはカラヴァッジョの、筋骨たくましい乗組員にはミケランジェロの影響が見られます。

お咎めなし

フランス政府が隠していたメデューズ号の事件の真相を描いたこの作品、政府から怒られるかと思いきや、お咎めなしだったそう。

というのも、ジェリコーは、政府を刺激しないように作品のタイトルを《難破の情景》に変えて出品していました。

とはいえ、当時の人々には、この作品がメデューズ号の事件を描いているとわかりました。

芸術としてではなく、スキャンダラスな作品として多くの人々に興味を持たれたことに、ジェリコーはショックを受けたそう…。

入場料で儲かる

落胆したジェリコーに手を差し伸べたのは、イギリスの興行師でした。

劇場を借り切り入場券を取って絵を公開してはどうかと提案されました。

29歳のときロンドンへ行き、《メデューズ号の筏》を入場料を取り公開したところ、5万人もの見物客が押し寄せ、大成功を収めました。

大人気となった本作は、大量の版画が出回り、世界中に広まり、作品とジェリコーの知名度は一気に上がりました。