こんにちは!
今回は、運動神経抜群で教養ある知識人、優雅な美男子で誰からも好かれた画家ラファエロについてです。
早速見ていきましょう!
目次
ラファエロ・サンティ(1483-1520年)
ラファエロ・サンティ《自画像》1506年
ラファエロ・サンティは盛期ルネサンスを代表するイタリアの画家です。
優美で調和のとれたラファエロの作品は、ヨーロッパ絵画におけるひとつの理想形とされ、彼の死後もおよそ300年もの長きにわたって、画家たちのお手本であり続けました。
イタリア中部のウルビーノで生まれました。
8歳のときに母親を、11歳のときに宮廷画家であり詩人だった父親を亡くしています。
父や後見人たちのおかげで、貴族的で洗練されたマナーや、ラテン語を身につけ、上流階級へ自然に溶け込むことができました。
ペルジーノに弟子入り
ラファエロ・サンティ《聖母の婚礼》1504年
10代で、画家ペルジーノの工房に弟子入りします。
ラファエロの描く優しい顔は、ペルジーノの画風から影響を受けています。
17歳のときにはすでに、親方として自分の工房を持ち、大勢の助手や弟子が働いていました。
30歳年上のレオナルドに影響を受ける
ラファエロ・サンティ《ベルヴェデーレの聖母(牧場の聖母)》1506年
21歳のとき、フィレンツェへ行きます。
そこで見たレオナルド・ダ・ヴィンチの絵から、明暗法と人物の内面描写を学び、自分のものにします。
レオナルドの工房に出入りすることができ、モナリザの制作過程にも立ち会ったといわれています。
上の絵は、レオナルドが考えついた、安定感のある三角の構造で聖母子を描くという構図を取り入れた作品です。
聖母子像を50点描いた
ラファエロ・サンティ《聖母子と幼き洗礼者聖ヨハネ(美しき女庭師)》1507-1508年
ラファエロは、威厳に満ちた近寄りがたい聖母子像ではなく、若く美しい母と愛らしい幼児として描き、その親しみやすい画風から人気を呼んだ画家でした。
様々な作品を手がけましたが、一番多く描いたのが聖母子像で、50点残しています。
聖母マリアの衣装は、ドレスを赤、マントを青で描くという決まりがありました。
赤は天の愛、青は天の真実を象徴しています。
上の絵では、マントの下にある赤色のドレスを見せるため、マントを半分ずらして描いています。
聖母子像だけでなく、肖像画も大人気で、王侯貴族や富裕層からの注文が絶えませんでした。
レオナルドvsミケランジェロを見学
ラファエロは、レオナルドとミケランジェロの壁画の競作を見学したこともあったそう。
ミケランジェロはラファエロの7歳年上です。
ミケランジェロの作品からは、人体構造と構成力を学びました。
どんな壁画かは、こちら↓
ミケランジェロが教皇と喧嘩して、システィーナ礼拝堂を留守にしていたときに、こっそりと未完の天井画を見たこともあったとか。(盛りまくって画家の伝記を書いたヴァザーリが言っていることなので本当かは微妙)
チームリーダー
ラファエロ・サンティ《ユリウス2世の肖像》1511年
25歳のとき、教皇ユリウス2世に宮廷画家として呼ばれ、ローマへ行きました。
このローマでの12年間、ラファエロは2人の教皇(ユリウス2世とレオ10世)とその側近の全面的支援を受け、教皇の近侍の地位と爵位も得ました。
ヴァチカン宮殿内の教皇の居室の装飾責任者を任されます。
ラファエロ・サンティ《アテネの学堂》1509-1511年
サン・ピエトロ大聖堂の造営に関わったり、古代発掘遺跡監督官にも就任しました。
工房で働く50人の弟子
ラファエロの工房では約50人の弟子が働いていました。
当時、単独で経営する工房としては最大規模で、その技術も高水準、著名な画家になった弟子も数多くいます。
ラファエロの、効率よく工房をまわす力量と、パトロンや弟子と良好な関係を築ける社交性があったからこその成功でした。
結ばれなかった恋人
ラファエロ・サンティ《ラ・ヴェラータ(ヴェールの女)》1512-1515年
ラファエロは生涯結婚することはありませんでしたが、1514年に枢機卿メディチ・ビッビエーナの姪マリアと婚約はしていましたが、彼女が亡くなってしい、結婚することはありませんでした。
モテモテのラファエロの最愛の人は、パン屋の娘マルガリータ・ルティでしたが、身分違いの恋のため一緒になることはできませんでした。
ラファエロ・サンティ《サン・シストの聖母》1512-1513年
聖母マリアのモデルは同じくマルガリータです。
ラファエロ・サンティ《小椅子の聖母》1513-1514年頃
こちらもモデルはマルガリータ。
未完の絶筆
《キリストの変容》1516-1520年
上の作品がラファエロの絶筆で、枢機卿ジュリオ・デ・メディチからの注文でした。
完成前にラファエロが急死したことから、後に彼の工房が完成させました。
これまでにない明暗の鋭い対比と大胆な構図は、次のバロック画家に影響を与えました。
37歳で突然の死
病状が急激に悪化し、37歳の誕生日にあっけなく亡くなってしまいます。
過労などで弱っていた体に熱病が襲い、瀉血のしすぎという治療ミスも加わって亡くなったなど、死因については諸説ありますが現在も不明なままです。
ただ、当時の画家は、水銀や鉛が含まれた絵の具を使用していたため、短命だったそう。
さらに、ラファエロは女遊びが激しかったことでも有名で、性病が原因ではともいわれていますが、可能性は低いそう。
マルガリータは、ラファエロの葬儀へ参列することさえ許されず、遠くから見つめるしかなかったといわれています。
彼の遺骸は、王侯貴族の墓所でもあるローマのパンテオンに埋葬されています。
死後400年芸術の理想としてお手本に
19世紀前半までの西洋美術史において、三巨匠(レオナルド・ミケランジェロ・ラファエロ)中のトップは、ラファエロでした。
ルネサンスはラフェエロの死でもって1520年に終わったとされています。
ラファエロの絵画は、死後400年にわたり、イタリア、フランス、イギリス、ロシアなどのアカデミーのお手本であり続けました。
まとめ
・ラファエロは優美な絵を描き、死後300年もの間、画家たちのお手本であり続けた ・レオナルド・ミケランジェロとともにルネサンス3大巨匠