こんにちは!
今回は、社交ダンス好きのモンドリアンについてです。
早速見ていきましょう!
目次
ピエト・モンドリアン(1872-1944年)
ピエト・モンドリアン《自画像》1900年
ピエト・モンドリアンはオランダ出身の画家です。
抽象絵画における構成を極限まで追求した画家でした。
最初は風景を描いていた
オランダのアメルスフォルトで生まれました。
両親は、キリスト教の中でも戒律が厳しいカルヴァン派の教徒で、父親は小学校の校長でした。
ピエト・モンドリアン《運河の近くに牛がいる風景》1890-1895年
幼いとき、風景画家の叔父に連れられて、郊外にスケッチに出かけ、絵を教わりました。
20歳のとき、小学校の図画教師になりました。
画家を志し、アムステルダムの国立美術アカデミーに入学しました。
当初は、オランダの風景を描いていました。
次第に幻想的に…
ピエト・モンドリアン《夕方:赤い木》1908-1910年
36歳のとき、画家ヤン・トーロップに出会い、象徴主義に影響を受けます。
37歳のとき、神秘思想の一派、神智学協会に入会しました。
キュビスム的な作品
39歳のとき、アムステルダムで「現代美術サークル」の展覧会に初出品しました。
ピエト・モンドリアン《灰色の木》1911年
「セザンヌ回顧展」で、キュビスム作品を見て感化され、パリへ行き、キュビスムの研究を始めました。
42歳のとき、一時帰国中に第一次世界大戦が勃発し、パリに戻れなくなりました。
テオ・ファン・ドゥースブルフによるオランダ発の芸術運動「デ・スティル」に加わりました。
「デ・スティル」とは「様式」という意味で、未来への新しい様式を作ろうという運動でした。
面白いアトリエ
モンドリアンは、「新造形主義」という理論を立ち上げ、それに基づいてアトリエを改造しました。
アトリエ内は、色を塗ったボードがあったり、線で分けられていて、ボードの位置を変えながら、絵を作り上げていきました。
豆かじゃがいも
ピエト・モンドリアン《菊》1921年以降
47歳のとき、パリに戻りましたが、抽象画はここでも売れず、水彩で描いた花の絵を売って生計を立てていました。
食事は自分で料理し、いつも豆かじゃがいもでした。
友人が訪れると、豆の皿と1杯のワインを出し、友人からは、「ここに来ると巡礼者になった気がする」と言われました。
モンドリアンは自然の緑が嫌いで、アトリエに飾っていた造花を白く塗ったり、カンディンスキーの部屋で、自慢の眺望(ブローニュの森)を見せられたときには、見ないようにしたそう。(笑)
ピエト・モンドリアン《タブローⅠ(絵画Ⅰ)》1921年
54歳のとき、アメリカ人コレクターが抽象画を購入してくれました。
36歳年下の留学生に恋する
56歳のとき、詩人ドップの娘、オランダ人留学生の20歳のリリーに恋をします。
歳の差はなんと36歳!
その後、2人で合うようになり、交際が始まりました。
自然の緑嫌いなモンドリアンも、付き合っている頃は、部屋に鉢植えを飾っていたそう。かわいい。
しかし、2人の交際を知ったドップが激怒、リリーはオランダに連れ帰されてしまいます。
その後2年間文通を続けましたが、ドップの許しを得ることはできませんでした。
その2年間は、アトリエに鉢植えがあったそう。
コンポジション
ピエト・モンドリアン《赤・青・黄のコンポジション》1930年
60歳のとき、アメリカを中心に、作品の評価が上がりました。
アムステルダム美術館で回顧展が開催されました。
社交ダンス好きの変な踊り
この頃から社交ダンスを習い始めました。
ニューヨークのダンスホールに通い、1番の美女をパートナーにダンスを楽しみました。
ただ、ステップは個性的で、音楽やリズムを無視、黙々と踊るモンドリアンのダンスは独特で、パートナーになった人は大変だったそう。
アトリエの作品の前でも踊っていたそうで、周囲はかなり困惑したそう。
ピエト・モンドリアン《コンポジション No.10》1939年
66歳のとき、ロンドンへ移りました。
68歳のとき、第二次世界大戦を避けてニューヨークへ移りました。
ピエト・モンドリアン《ブロードウェイ・ブギウギ》1942-1943年
紙テープを何度も貼り直して、線の位置を決めていたそう。
上の作品は、アメリカで初めて聴いたブギウギに触発されて描かれた作品です。
ブギウギは、ジャズの一形式で、当時最先端のダンス音楽でした。
黄色をベースに赤、青、白がリズミカルに配置され、画面からは、大都市ニューヨークの活気や喧騒、ネオンの輝きを感じさせるような華やかさがあります。
70歳のとき、初めて個展を開きました。
ピエト・モンドリアン《ヴィクトリー・ブギウギ》1944年
71歳のとき、風邪をこじらせて肺炎で亡くなりました。
まとめ
・モンドリアンは、社交ダンス好きの抽象絵画を描いた最初期の画家