こんにちは!
今回は、マリー・ローランサンについてです。
早速見ていきましょう!
マリー・ローランサン(1883-1956年)
マリー・ローランサン《帽子をかぶった自画像》1927年頃
マリー・ローランサンは、フランスの画家です。
戦争や恐慌が続く暗い時代に、男性的な「強さ」ではなく、女性的な「可愛さ、甘さ、優しさ、美しさ、エレガントさ」であえて勝負した画家でした。
母と2人
フランス、パリで私生児として生まれ、服の仕立てで生計を立てていた母親に育てられました。
父はのちに代議士となったアルフレッド・トゥーレですが、ローランサンは彼が父親だということを長い間知りませんでした。
父親は彼女たちを見捨てたワケではなく、定期的に訪れて、家計費を負担していたそうですが、ローランサンは彼のことが好きではありませんでした。
画家を目指す
《自画像》1904年
パリ9区にある学校リセ・ラマルティーヌとルーヴル美術館で学び、画家を志しました。
母親は教師になってほしいと思っていましたが、ローランサンは、セーヴル焼の学校で磁器の絵付けを学び、アカデミー・アンベールで絵を勉強しました。
ここでブラックと知り合い、キュビズムの影響を受けました。
24歳のとき、サロン・ド・アンデパンダンに初出展しました。
「洗濯船」でピカソたちと出会う
マリー・ローランサン《アポリネールとその友人たち》1909年
このころ、ブラックの紹介で、モンマルトルにあった「洗濯船」という安アトリエで、ピカソや生涯の友人となるユダヤ人詩人マックス・ジャコブ、モディリアーニ、マティス、ルソーなどと知り合いました。
運命の出会い
マリー・ローランサン《ギヨーム・アポリネールの肖像》1908-1909年
ある日ピカソが、親友の詩人で美術評論家のギヨーム・アポリネールに「君のフィアンセに会った」とローランサンを紹介します。
アポリネールと出会った時、彼は27歳、ローランサンは22歳、2人は恋に落ちました。
付き合っていた頃、アポリネールが住んでいたアパートの3階の部屋に、ローランサンが得意のなわとびを飛びながら訪ねてきたことがあったそう。(かわいい)
しかし、28歳のとき、アポリネールがモナ・リザ盗難事件の容疑者として警察に拘留された頃には(彼は無罪でした)、ローランサンのアポリネールへの恋愛感情も冷めてしまっていました。
というのも、画家として成功していたローランサンがスキャンダルを恐れたのと、母親がアポリネールのことをよく思っていなかったこともあり、疎遠になっていったそう。
さらに、アポリネールと別れた頃、母親が病死してしまいます…。
マリー・ローランサン《パッシーの橋》1912年
その後もアポリネールはローランサンを忘れられず、その想いを歌った詩が彼の代表作「ミラボー橋」です。
2人はミラボー橋の上で愛を語り合いました。
ローランサンも、アポリネールとの別れを上の絵で描いています。
絵の後ろにあるのがミラボー橋です。
船頭の男は、女を船から追い出し、女は川に沈んでいきます。
船頭はアポリネール、女はローランサンを表しています。
29歳のときに開いた最初の個展は評判となり、その後、次第にキュビスムから脱しました。
30歳になる頃には、エコール・ド・パリの新進画家として知られるようになっていました。
結婚と別れ
31歳のとき、パーティーで、ドイツから絵を学びに来ていたイケメンで遊び上手なオットー・フォン・ヴェッチェン男爵と出会い、結婚しました。
ローランサンはこのことをカフェでアポリネールに伝えると、傷ついたアポリネールはその場を立ち去り、2人はこの後、二度と会うことはありませんでした。
マリー・ローランサン《2人の少女(マリー・ローランサンとセシリア・デ・マドラゾと犬ココ)》1915年
結婚によりドイツ国籍となったため、新婚旅行中に第一次世界大戦が始まると、パリに戻ることができませんでした。(ドイツはフランスの敵だったため)
はじめマドリード、次にバルセロナへの亡命生活を余儀なくされました。
日々の不安からオットーはアルコール中毒に…ローランサンは放っておかれた寂しさを紛らわすため、たくさんの手紙や詩を書きました。
35歳のとき、マドリードで、終戦の前日に、アポリネールがスペイン風邪で亡くなったという電報を受け取りました。
アポリネールはフランス軍に入隊し、陸軍少尉として戦いつつも、文学活動を続けていました。
そんな彼の枕元には、昔ローランサンが描いた《アポリネールとその友人たち》が大切に飾られていたといわれています。
戦争が終わっても、夫婦仲は修復されず、37歳のときに単身パリに戻ったローランサンは、離婚を決意しました。
離婚後はバイセクシュアルでもありました。
夢のような甘さ
マリー・ローランサン《変装》1926年
パリに戻ったローランサンは、パステルカラーの簡潔で華やかな、夢見るような少女像という独特の画風を作り上げ、売れっ子画家として地位と名声を獲得しました。
シャネルとのバトル
マリー・ローランサン《シャネル嬢の肖像》1923年
パリの上流婦人の間ではローランサンに肖像画を注文することが流行となったそう。
ローランサンと同い年だったシャネルも、肖像画を依頼しました。
それが上の作品です。
ローランサンとシャネルは、お互いに思いを寄せていたともいわれています。
しかし出来上がった絵を見たシャネルが、自分に似ていないことを理由に描き直しを要求してきました。
貧しい生まれから成功を勝ち取った「強い女」のイメージからはかけ離れていたからです。
ローランサンは怒って拒否し、この作品を引き取りました。
デザイン
また、舞台装置や舞台衣装のデザインでも成功しました。
マリー・ローランサン《牝鹿》1923年
関わったものとしては、フランシス・プーランクのバレエ『牝鹿』や、オペラ=コミック座の『娘たちは何を夢みる』、コメディ・フランセーズ、シャンゼリゼ劇場で上演されたローラン・プティのバレエなどが知られています。
穏やかな日々と暗い影
《リハーサル》1936年
ローランサンは20歳のシュザンヌ・モローを家政婦として雇いました。
シュザンヌを娘のように可愛がり、穏やかで静かな日々を過ごしました。
シュザンヌはマリーを慕うあまり、自分の気に入らない客や電話は取りつがないようになりました。
第二次世界大戦の際は、フランスを占領したドイツ軍によって住みなれたアパートを奪われ、終戦直後は、対独協力者の容疑で逮捕され、強制収容所に収監される憂き目にも遭いました。
さらにこの収容所では、親友のマックス・ジャコブが獄死しており、ローランサンは相当辛い思いをしました。
晩年
マリー・ローランサン《三人の若い女》1953年頃
上の作品の背景にあるのも、アポリネールとの思い出の場所、ミラボー橋です。
晩年は、社交界よりも修道院で過ごすことが多くなり、大好きな自宅に引きこもるようになりましたが、創作は続けていました。
71歳のとき、シュザンヌを正式に養女としました。
72歳のとき、パリの自宅にて心臓発作により亡くなりました。
まとめ
・ローランサンは、夢のような甘くて優しい絵で厳しい時代を生き抜いた画家