こんにちは!
今回は、アーサー王伝説に登場する円卓の騎士について解説します。
早速見ていきましょう!
円卓の騎士
なぜ「円卓」なのか
Évrard d’Espinques《『ランスロ=聖杯サイクル』の挿絵にあるアーサー王の円卓と円卓の騎士たち》1470年
なぜ「円卓」の騎士なのかというと、アーサー王の妻グィネヴィアが嫁入り道具として持ってきた「円卓」に、騎士たちを座らせたからです(他にもアーサー王の父の形見、魔術師マーリンが作ったなど様々な説あり)。
ウィリアム・アーネスト・チャップマン《『ガラハッド卿の物語』の挿絵「騎士団がキャメロットからどのように出発したかについて」》1908年
円卓は丸いので、上座や下座などがなく、卓を囲む者すべてが平等であり、仲間であるということを表しています。
円卓の騎士とは
ウォルター・クレイン《『アーサー王の騎士団:少年少女のために語られた物語』の挿絵「ガラハッド卿はアーサー王の宮廷に連れて行かれた」》1911年
円卓の騎士とは、アーサー王を含む円卓に座ることを許された騎士たちのことです。
12人とされることが多いのですが、人数は文献によって変わってきます(「アーサー王伝説」は様々な物語を集めたものの総称のため)。
ウォルターF.エンライト《『アーサー王とその騎士団』の挿絵「アーサー王と円卓の騎士」》1903年
どういうことかというと、アーサー王の親族や、和平した敵国の王、外国の王・騎士なども円卓の騎士と呼ぶ場合もあり、12、300、1,600人など作品によって人数が異なります。
しかし、どの場合であっても座席には必ず空席が1つありました。
そして、新たな円卓の騎士は空席ができたときにのみ迎えられます。
その者は以前の騎士より勇気と武勲を示さなければならず、それができなければ魔術師マーリンが円卓にかけた魔法により弾かれてしまいます。
聖杯伝説 12人の場合
Evrard d’Espinques 《アーサー王の騎士と聖杯のイラスト》1475年頃
円卓にはイエス・キリストと12人の使徒を模して13の席がありました。
アーサー(=イエス)自身が1つの席に座り、残りの席に1人ずつ騎士たちが座わります。
しかし、13番目の席は「危険な席」と呼ばれ、例外的に誰も座っていませんでした。
なぜなら、この13番目の席はイエスを裏切ったイスカリオテのユダの席であるため、マーリンが席に呪いをかけており、あらかじめ選ばれている者以外がそこに座ると、焼かれて死んでしまうからです。
ウィリアム・アーネスト・チャップマン《『ガラハッド卿の物語』の挿絵「老人がガラハッドを危険な場所に連れて行った方法」》1908年
ある日、円卓の騎士の一人であるランスロットの息子ガラハッドが呪いを恐れずにこの席に座り、呪いに打ち勝って12番目の騎士になりました。
ある日、騎士たちが円卓に座っていたとき、突如円卓の上に光り輝く聖杯が現れ、次の瞬間には消えてしまいました。
ウィリアム・ダイス《信心:円卓の騎士が聖杯を求めて出発しようとしている》1849年
騎士たちは聖杯探しの旅に出ます。
最終的にはガラハッドが聖杯を手に、そして(なぜか)天に召されたのちは、例の呪いの席は再び空席となりました。
有名な円卓の騎士
エドワード・バーン=ジョーンズ、ウィリアム・モリス、ジョン・ヘンリー・ディアーレ《騎士団の武装と出発》タペストリー 1890年代
アーサー王
ランスロット
ガウェイン
パーシヴァル
ガラハッド
ケイ
ベディヴィア
トリスタン
ウィンチェスター円卓会議
ウィンチェスター城大広間の壁にかけられた「アーサー王の円卓」と呼ばれる天板
イギリスのウィンチェスター城の大広間の壁に「アーサー王の円卓」と呼ばれている巨大な木製の円板が掛かっています。
直径約5.5メートル、1.25トンあります。
いつからそこに掛かっているのかはわかっておらず、文献上一番古い記録は、ジョン・ハーディングの 「年代記」(1464年)です。
この記録の時点でもうすでに、掛けられてから相当の年月が経過していたようです。
円卓にアーサー王の姿と主要な騎士たちの名前が描かれたのはずっとあとになってからでした。
また、 そもそも一番最初の図が描かれたのは、若きヘンリー8世が1516年に出した命令によるものであることがわかっています。
ただし現在私たちが見ることができるのは、1789年に粗雑な筆で復元されたものです…。
ヘンリー8世当時のある手紙によると、時の経過とともに騎士たちの名前がはがれてしまい読めなくなっていたので、テーブルが塗り直されたのだそう。
考古学者の調査で、この円板はもともと実用のテーブルとして製作されたことが判明しました。
のちになって脚が除かれ、装飾されて、壁に掛けられました。
さらに時がたってから、湿気による損傷が激しかったため、板で補強され、鉄の帯が縁を囲むようにつけられました。
さらに、テーブルには無数の穴があいていて、それが1789年の補修の前に、葡萄酒の瓶のコルクで埋められたのだということがわかりました。
穴はほとんどアーサー王の顔のあたりと中心に描かれているバラの花のまんなかに集中しています。
穴の角度からみて、壁に掛かったテーブルを的にして銃の射撃が行なわれたことは明らかでした。
おそらく1645年にクロムウェルの兵が侵入してきたときの傷跡だろうと考えられています。
テーブルのX線調査で、1516年に描かれた絵の下には何もないということがわかりました。
これは不可解なことです。
テーブルに意匠が描かれていることをにおわせるような、文学作品における記述は多くあるし、そもそも5.5メートルものむきだしの木の円板を壁掛けにしようなどと、どこの誰が考えるでしょうか。
しかしヴィクトリア朝の時代にはめられた鉄製の縁(へり)止めをはずしてみたところ謎が解けました。
縁にはたくさんの小さな鉄の針が埋め込まれており、絵を描いた布もしくは皮の覆いをとめていたのでしょう。
年輪年代学によると、このテーブルに用いられた木材が伐られたのはおよそ1250年から1255年ごろのことだそう。
このことはテーブルの来歴について何を教えてくれるのでしょうか。
大広間が完成したのは1235年のことで、その後30年のあいだ、ヘンリー3世みずから指揮をとって、広間は調度を整え装飾されていきました。
テーブルが大広間に設置されたのは、1260年代のころであったかもしれません。
あるいはひょっとして、熱狂的なアーサー王ファンだったエドワード1世が、国際規模の祝宴のためにテーブルを特注したのかもしれません。