ブランカッチ礼拝堂壁画を超解説!マザッチョ「楽園追放」「貢の銭」もここにある?

こんにちは!

今回は、ブランカッチ礼拝堂の壁画を紹介します。

早速見ていきましょう!

ブランカッチ礼拝堂フレスコ画

出典:フィレンツェ市民博物館 ブランカッチ礼拝堂リーフレット

左壁

左から2、3、4(この順番で後ほど紹介します)

9、10、8

右壁

5、6、1

7、12、11

最強の2人

22歳のとき、「腕のいい高名な2人組」といわれていたマザッチョとマゾリーノ(マザッチョの師との説もあるがよくわかっていない)は、富裕な権力者フェリーチェ・ブランカッチから、フィレンツェのサンタ・マリア・デル・カルミネ大聖堂のブランカッチ礼拝堂内部に一連のフレスコ装飾画を描く依頼を受けました。

特に礼拝堂左右壁面それぞれに上下2段に配置された『聖ペテロ伝』四面の構成は、見かけの素朴さを裏切って巧妙な方法で統合されており、このフレスコ画がマゾリーノをはじめとする複数の制作者による作品であることを完全に忘れさせる。

23歳のとき、礼拝堂の絵画制作を始めましたが、なぜか絵画完成前に2人ともこの仕事を放棄してしまっています。

最終的にこれらのフレスコ画は1480年代になってからフィリピーノ・リッピが完成させました。

珍しい題材

これらのフレスコ画に描かれているモチーフはあまり一般的な題材ではありません。

フレスコ画の大部分には聖ペトロの生涯が2場面に渡って描かれており、入口の両側には誘惑され、楽園から追放されるアダムとイヴが描かれています。

一連のフレスコ画は人間の罪業と、初代ローマ教皇ペトロによる救済を意味しています。

マザッチョの画面構成にはジョットの影響が見られます。

人物は大きく重量感を持って力強く描かれ、内なる感情はその表情やしぐさで表現されており、非常に自然な印象を与える絵画に仕上がっています。

しかしながらジョットとの相違点として、マサッチオは一点透視図法、空気遠近法、一定方向から射す光源、キアロスクーロなどの技法を導入しており、明確な輪郭線を描くことなく光や色合いで対象の姿形を表現することに成功しています。

それまでの芸術家たちの絵画よりも一層説得力があり、真に迫った作品を描きだしています。

絵の紹介

1、アダムとイヴの誘惑

マゾリーノ《アダムとイヴの誘惑》1425年

2、楽園追放

マザッチョ《楽園追放》1426-1427年

上の絵は、マザッチョの代表作で、天使に追い立てられて嘆き悲しみながらエデンの園から追放されるアダムとイヴを描いた作品です。

禁断の果実を食べて恥という概念を認識したアダムが両手で顔を覆い、イヴが自身の身体を隠しているこのフレスコ画は、後年のミケランジェロにも多大な影響を及ぼしました。

3、貢の銭

マザッチョ《貢の銭》1420年代

《楽園追放》と同じくこの作品もマザッチョの代表作です。

新古典様式の典型とも言える表現でイエスと使徒が描かれています。

この絵は、実際のブランカッチ礼拝堂の窓からの外光を計算に入れて描かれており、あたかも礼拝堂の窓からさし込む光を光源としているかのようにして人物の影が表現されています。

それによって作品により一層の真実味を与えています。

4、聖ペテロの説教

マゾリーノ《聖ペテロの説教》1425年頃

5、新信者の洗礼

マザッチョ《新信者の洗礼》1425-1428年

6、タビタを蘇生させる聖ペテロ

マザッチョ《タビタを蘇生させる聖ペテロ》

7、布施とアナニアスの死

マザッチョ《布施とアナニアスの死》1425-1428年

8、影で病人を癒す聖ペテロ

マザッチョ《影で病人を癒す聖ペテロ》1425-1428年

途中で放棄

1425年9月にマゾリーノはブランカッチ礼拝堂のフレスコ画制作を中止してハンガリーへと渡りました。

依頼主のフェリーチェ・ブランカッチとの金銭的不和によるもの、あるいはマザッチョとの芸術的見解の相違によるものでは?ともいわれていますが、よくわかっていません。

他にもマゾリーノの礼拝堂フレスコ画の制作放棄は開始当初から考えていたもので、1人でも依頼されたフレスコ画を仕上げられるまでに腕を上げたマザッチョとの共同制作に終止符を打つつもりだったという説もあります。

しかし1426年になって、マザッチョも別の依頼に応えて、ブランカッチ礼拝堂フレスコ画制作を放棄してしまいました。

このときマザッチョにもたらされた依頼は、マゾリーノに絵画制作を依頼したのと同じパトロンからのものだったと考えられています。

このころにはブランカッチ礼拝堂フレスコ画のパトロンだったフェリーチェの財政状態が悪化し賃金の支払にも事欠くようになっていたために、2人は別の仕事を探したとのではないかという推測もあります。

9、牢獄の聖ペテロを訪ねる聖パウロ

フィリッポ・リッピ《牢獄の聖ペテロを訪ねる聖パウロ》1481年頃

10、テオフィルスの息子の蘇生と教座のペテロ

マザッチョ、フィリッポ・リッピ《テオフィルスの息子の蘇生と教座のペテロ》1425-1428年

25歳のとき、マザッチョはブランカッチ礼拝堂のフレスコ画制作に戻り、上の絵に着手しましたが、またしても制作を途中で放棄しています。

未完のままになっていた上の作品には、依頼主であるブランカッチ一族の肖像画が描かれていたため、後にブランカッチ家と敵対していたメディチ家によって多大な損壊を受けることになりました。

そして、さらに50年以上が経ってから、フィリッポ・リッピがこの作品をを修復、完成させています。

11、天使によって牢から解放される聖ペテロ

フィリッポ・リッピ《天使によって牢から解放される聖ペテロ》1481年頃

12、ネロ帝の前で詰問される聖ペテロと磔刑

フィリッポ・リッピ《ネロ帝の前で詰問される聖ペテロと磔刑》1481年頃