キリストを裸で初めて描いた画家マザッチョを超解説!遠近法も世界初?

こんにちは!

今回は、マザッチョについてです。

早速見ていきましょう!

マザッチョ(1401-1428年)

マザッチョ《テオフィルスの息子の蘇生と教座のペテロ》部分 1425-1428年

マザッチョは、イタリアの画家です。

上の絵はマザッチョの自画像だといわれています。(全体の絵は後ほど登場します)

本名はトンマーゾ・ディ・セル・ジョヴァンニ・ディ・シモーネ・カッサーイです。

「カッサーイ」は父方の祖父と大叔父が家具職人(casseまたはcassai)だったことからきています。

マザッチョはあだ名で、彼が自分の服装や髪型に興味が薄く、身なりにこだわらなかったため「汚いマーゾ(マザッチョ)」と呼ばれました。

兄弟そろって画家

フィレンツェ共和国のカステル・サン・ジョヴァンニ・ディ・アルトゥーラ(現在のイタリア)で生まれました。

父親は公証人、母親の宿屋の娘でした。

5歳のとき、父親が亡くなりました。

同じ年に弟ジョヴァンニが生まれ、後にロ・スケッジャ(破片)という愛称で呼ばれる画家になっています。

10歳のとき、母親が年上の薬剤師と再婚しました。

マザッチョが正式に絵画の修業を積んだという記録は残っていませんが、ヴァザーリ(画家の伝記を書いた人。内容は半分嘘)によると、年上で当時高名な画家だったマゾリーノがマザッチョの師だったことをほのめかす記述があります。

画家として独立

マザッチョ《サン・ジョヴェナーレ三連祭壇画》1422年

しかし、マザッチョの最初期の作品として知られる上の作品を見ても、マゾリーノの作風とは全く異なっており、2人が師弟関係にあったとするのは無理があると考えられています。

上の作品の保存状態は悪いものの、マザッチョが深い関心を寄せていたイタリア人画家ジョットが追及した三次元的描画の再現を、ふくよかな人物描写や短縮遠近法から見てとることができます。

ちなみにイエスをで初めて描いたのはマザッチョだといわれています。

近年の研究では、マザッチョは画家ではなく装飾写本作家としての修業をしていたのではないかとする見解もあります。

ルネサンス期の画家たちは、通常12歳くらいから師匠に就いて徒弟として修業しました。

《キリスト降誕》右:表、左:裏 1423年頃

マザッチョの名前が初めてフィレンツェの文書にあらわれたのは20歳のときの記録で、すでに一人前の画家として画家ギルドの一員になってからのことでした。

師匠?マゾリーノとの共作

マゾリーノ、マザッチョ《聖アンナと聖母子》1424-1425年

上の絵は、マゾリーノとの最初の共同制作作品といわれています。

この2人が共同制作を行った理由ははっきりしていませんが、マゾリーノが年長だったことからマザッチョを庇護していた可能性があります。

マゾリーノが聖アンナと背後の天使を描き、マザッチョがより重要なモチーフである聖母子を描いていることから、この作品の主導権はマザッチョにあったと考えられています。

マザッチョはフィレンツェでジョットの作品を学ぶ機会があり、建築家フィリッポ・ブルネレスキ、彫刻家ドナテッロらとの知遇を得ました。

現存するマサッチオの作品数点に見られる古代ギリシア・ローマ美術からの影響も、おそらくこのときのローマ訪問が契機となっています。

ブランカッチ礼拝堂

マザッチョ《楽園追放》1426-1427年

22歳のとき、「腕のいい高名な2人組」といわれていたマザッチョとマゾリーノは、富裕な権力者フェリーチェ・ブランカッチから、フィレンツェのサンタ・マリア・デル・カルミネ大聖堂のブランカッチ礼拝堂内部に一連のフレスコ装飾画を描く依頼を受けました。

23歳のとき、礼拝堂の絵画制作を始めましたが、絵画完成前に2人ともこの仕事を放棄してしまっています。

上の絵は、天使に追い立てられて嘆き悲しみながらエデンの園から追放されるアダムとイヴを描いた作品です。

禁断の果実を食べて恥という概念を認識したアダムが両手で顔を覆い、イヴが自身の身体を隠しているこのフレスコ画は、後年のミケランジェロにも多大な影響を及ぼしています。

マザッチョ《貢の銭》1420年代

上の作品では、新古典様式の典型とも言える表現でイエスと使徒が描かれています。

フィリッポ・リッピ、マザッチョ《テオフィルスの息子の蘇生と教座のペテロ》1425-1428年

25歳のとき、マザッチョはブランカッチ礼拝堂のフレスコ画制作に戻り、上の絵に着手しましたが、またしても制作を途中で放棄し、50年以上が経ってから、フィリッポ・リッピが作品をを修復、完成させています。

バラバラに散らばる

マザッチョ《聖母子と天使》1426年

24歳のとき、80フローリンの契約でジュリアーノ・ディ・コリーニョからピサのサンタ・マリア・デル・カルミネ教会に付属するコリーニョ一族の礼拝堂の多翼祭壇画制作を請け負いました。

現在『ピサの祭壇画』と総称されている作品ですが、18世紀に礼拝堂から取り払われ、祭壇画は分割されて各地へと散逸してしまった。

上の作品の保存状態は極めて悪く、さらにオリジナルの状態よりもパネルのサイズが小さくなっており、上下左右とも切り落とされていると考えられています。

もともとは20枚以上のパネルで構成されていたようですが、現在では11枚のパネルのみが世界各地の様々なコレクションに収蔵されています。

聖三位一体

マザッチョ《聖三位一体》1427年頃

マサッチオは1427年ごろにフィレンツェのドミニコ会派サンタ・マリア・ノヴェッラ教会から上の絵を制作する依頼を受けました。

体系だった透視図法が導入された最初期の絵画であり、マサッチオは建築家ブルネレスキの協力を得てこの作品を仕上げたとされています。

早死と毒殺説

26歳のとき、ローマ教皇領で急死しました。

マザッチョの才能に嫉妬した他の画家に毒殺されたとする伝承がありますが、真相は不明です。

マザッチョは短命な画家でしたが、他の芸術家たちに多大な影響を与え、レオナルド・ダ・ヴィンチも、マザッチョの壁画を模写して腕を磨いたといわれています。

まとめ

マザッチョは、遠近法や陰影法で、量感や感情を表現した画家